ヘザーがライダー探偵事務所に住み込みで働き始めて、約一か月が経過した。
クライヴの言葉通り、休憩室を含めた事務所内はたしかに清掃が行き届いていた。おかげでヘザーの移住も容易に済んだ。
が、肝心の所長の自宅――事務所と同じくビルの五階にある――は、ここで暴動あるいは革命でも起きたのか、と疑いたくなるような有様であった。
自宅でほぼ食事を摂っていない、外食がデフォルトというセレブリティな食生活が幸いして、ゴミの山から新たな生命が爆誕する事態だけは避けられていた。
が、それが焼け石に水としか思えぬ散らかりようであった。
「本業や、ビルの
とは、現代日本ならば汚部屋としてテレビで晒し者確定であろう、カオスな部屋を生み出した張本人の弁明であった。
「疎かってか、完全になかったことにしてたんじゃねぇの? ワークライフバランスも大事だぜ」
隣でまごまごと、読んだのかすら怪しい新聞を集めていたクライヴは、どんよりした目をぱちくりさせる。
「君は時折、聡明な意見を持っているな」
「は? オレは常に聡明ですが? 未来に生きてますんで」
「ほう、未来と来たか」
胸とあごを反らして
――そんな調子で、雇用主の身辺整理という思いがけぬ障害はあったものの、その後はそれなりに順調であった。
クライヴが言っていた通り、まだまだ事務所へ訪れる客は少ない。
が、ビルにはカフェや書店などといった店舗も入っており、ヘザーはそちらの手伝いも積極的に行って、彼らの心を
ヘザーは有意義に暇をつぶせ、そして店子は超ド級美少女という助っ人を得られ。
まさしくWin-Winの関係である。
このように案外充実した日を過ごしていたが、今日は珍しく暇だった。
午前中は事務所に来た依頼をこなすも、その後はクライヴから留守番を
そして彼自身は、所要のため出払っている。
加えて午後からは、電話での相談があったぐらいで依頼人の来訪もなく。
つまり無人の事務所内での、独り待ちぼうけであった。
「どっかで呑んで来てんのかね」
暇にかまけて、先ほどまでせっせと家事に精を出していたヘザーは、そんな雇用主へのリスペクトゼロな想像を掻き立てた。
そして清潔だが、少し手狭なタイル張りのキッチンから事務所に戻る途中で、ふと窓へ視線を移す。
夕暮れが訪れた街は、ちらほらと降り始めた雪に覆われつつあった。
生前の高田ならば大いに浮かれる光景だが、あいにく二ヶ月半ほど雪まみれ生活を送っていたので、心は一ミリも動かなかった。
むしろ
「うーわ、雪かき大変じゃねぇか……」
と首をふりふり、
しかし今はビルを管理する立場にあるので。これから訪れるであろう苦労を思えば、肩を落とすのも仕方がないというもの。
淡いペパーミント色のカーテンがかけられた窓から離れ、とぼとぼと応接用のソファに向かった時。
早足で階段を上がってくる足音に気づいた。
この五階にあるのは、クライヴの自室とこの事務所だけだ。また足音は、聞き覚えのあるものでもあった。
どうやら呑み歩いているわけではなかったらしい、とヘザーが考えるのと同時に、事務所の
「おお、おかえ――」
軽く手を挙げてクライヴを出迎えようとしたヘザーの声が、途中で止まる。藤色の瞳は、彼が抱える物体に釘付けであった。
クライヴは、一抱えほどもある花束を持っていた。不似合いすぎる。
「なにそれ」
「知人が経営する花屋から押し付けられた。売れ残り品らしい」
「適当な場所に活けてくれ」
「はぁ。そりゃまあ、別にいいけど……」
うろんげな声で応じた彼女は、自分が抱える花束を見た。季節外れの、色とりどりのチューリップがふんだんに使われた花束だ。
花々はとてもみずみずしく、とても売れ残りには見えない。
次いでヘザーは、壁にかけられたカレンダーを見る。
「今日って、二月十四日だよな」
ぽつりと呟かれた声に、コートを脱ぐクライヴの動きが止まった。肩もギクリと固まっている。
彼の顔は、不自然にそっぽを向いていた。
図星か、と考えたヘザーは小さく
「あのなぁ、クライヴ。いくら修道院育ちで世間ずれしてねぇオレでも、バレンタインデーぐらい知ってるぜ」
むしろガラパゴス的魔進化を遂げたバレンタインに、一喜一憂していた民の末裔だ。
ひょっとしたらキリスト教徒より敏感かもしれない。
「いや、何のことか、俺にはさっぱり」
「この時期、温室で育てなきゃならねぇチューリップを、タダで知り合いにやるバカがいるかよ」
斜め方向を向いたままぼそぼそと弁明する彼を、ぴしゃりと論破。
言い訳すらあっさり見抜かれ、クライヴは沈黙した。
が、耳や首までみるみるうちに赤くなっていき、そっぽを向く作戦すら無意味になっていた。
「思春期のガキかよ、アンタ」
思わずの呆れ声に、慌てたようにクライヴがヘザーへ顔を戻した。そちらも耳と同じく真っ赤だ。
「違う! その、君にはいつも、世話になっているから、たまにはこうして何か形になるものをと思ったんだが、その、時期が時期なので、気を使われてもと思い……」
「へぇ。じゃあ他意はねぇんだ?」
どこか白けた声と冷たいまなざしに、再びクライヴの肩が跳ねる。
「ヘザー……?」
こわごわと彼が声をかけるも、ヘザーはそれを無視して
状況がつかめず、コートも半脱ぎのままオロオロするクライヴだった。
なんとなく、彼女を怒らせてしまった事実だけは認識できていた。ただ、怒った理由までは分からない。
彼がうろたえている間に、ヘザーはバケツに水を張り、その中に花束を入れる。
次いでキッチンで粗熱を取っていた、今日の成果物を手に取り事務所へ戻った。
棒立ちで彼女の出方をうかがっていたクライヴは、戻ってきた彼女の手の中にあるバスケット――より正確にはその中身を見て取り、あ、と小声をもらした。