一週間後、ヘザーとクライヴはフリーリング邸を後にした。
雪は止んでおり、日差しはかすかに暖かい。そして雲一つない青空の広がる日だ。旅立ちには持って来いである。
とはいえ気温が少々上がったところで、雪はまだまだこんもりと積みあがっているので。
行きよりも、若干どころかかなりの悪路ではあったが。
クライヴの自家用車に乗りながら、ヘザーは顔をしかめた。
「アンタの車、ロイドさんのよりボロいけど、大丈夫か? 途中で止まんねぇか? 滑って崖とかから落ちない?」
「やめろ。縁起でもないことを言うな」
「あと車の中さぁ……」
助手席に座ったヘザーはちらり、と後部座席に目を移す。
そこには書類や本やジャケットやらが、乱雑に散らかっている。とてもじゃないが、人を乗せていい環境ではない。
「もうちょい、どうにかなんなかったのか? 割とひどいぞ、コレ」
生前はマイカーの掃除に余念がなかったヘザーは、ちょっと肩をすくめる。
「……それに関しては、本当にすまない」
しっかりハンドルを握りしめ、前を向いたままクライヴが低い声で言った。
ヘザーも顔を戻して、下からのぞきこむように彼を見た。
「さてはアンタ、掃除下手か?」
「違う。事務所は来客もあるから、常に清潔に――」
「ってことは、自宅は割とグッチャグチャだろ。ん?」
「……」
陰鬱な顔での無言は、肯定とも受け取れた。やれやれ、とヘザーは座り心地の微妙な座席に背中を預ける。
「用心棒ついでに、掃除も手伝ってやるよ」
「……面目ない」
しょんぼりする彼は、いつもより幼く見えて、割と可愛かった。
仕方がないなぁ、とヘザーの母性――ひょっとすると父性かもしれないが、ともかくそれらが揺り動かされた。
益体もない会話を続けるうちに、車はどうにか下山に成功した。そのまま、まばらに雪の残る道を進んでいく。
フリーリング領の主都に、クライヴの所有するビルはあった。中心街にある、なかなか立地良しかつ、見栄えもいい五階建てのビルだ。
手切れ金と言わんばかりの、たった一つの形見分けではあるが、それなりにいいモノに見える。
ただ、ヘザーは悪魔の良心に感心するどころではなかった。
このビルに、とても見覚えがあるのだ。
それどころか、ビルの建つ周辺にも既視感を覚える。
もちろん映画本編において、フリーリング邸周辺の街並みなんてほとんど映っていない。
スクリーンが映すのは屋敷の中と、周りに腐るほどある木々と雪だけであった。
だというのにそのビルは、切なくなるぐらいに懐かしかった。
「どうした、ヘザー?」
呆けたようにビルを見上げる彼女の荷物――ダニエルたちから、あれやこれやと持たされたので、修道院を出た時の四倍以上に膨れ上がっている――を代わりに持ちながら、クライヴが声を掛けた。
ハッとなった彼女が、慌てて首を振る。
「いや、なんでもねぇ。なんか、いいビルだなと思って」
「そうか、気に入ってくれたなら何よりだ。事務所はここの最上階にある」
彼の先導で、ビルの階段に向かった。
クライヴの事務所は五階の角部屋だった。
お洒落な装飾が施されたドアにかけられた、金属製の青いプレートにはこう彫られている。
「ライダー探偵事務所」と。
既視感の正体に気付き、ヘザーは目が点になった。呼吸も忘れて、そのプレートを凝視する。
脳裏によぎるのは、祖母と共にずっと応援していた、霊媒探偵ライダーの頼もしい笑顔とサムズアップ。
劇中の彼はおそらく四十代半ばで……言われてみればたしかに、クライヴとどこか顔立ちが似ているかもしれない。髪色だって同じだ。
表情がまるで違うので、今まで全く気が付かなかった。
ヘザーは驚きで震える人差し指を、プレートに向けた。
「クライヴ……あのさ、ライダーって?」
ああ、と答えたクライヴは、少々気恥ずかしそうに視線を落とした。
「そういえば、言っていなかったな。養子に入る前の、俺の旧姓だ」
「旧姓……」
「うん。ここでフリーリングなんて名乗れば、伯爵家の血縁者だと、すぐに気付かれる。そう思われたくなかったから、この名前を使ったんだ。自分でも、意固地だとは思うんだが」
「ううん。オレも、こっちの方がいいと思う」
じわじわと、ヘザーの頬が熱くなる。
つながった。監督自身が愛してやまなかった作品に。
まるで彼女のやったことを、天国の監督も認めてくれたようだった。
内側に喜びや興奮が、溢れかえって来る。
黙って探偵事務所のプレートを見つめるヘザーに勘違いしたのか、クライヴは少々気まずそうに早口で続けた。
「体力には自身があるし、妙なものも視えるから、何かできないかと思って始めたんだ。念のためアメリカの探偵社で、修行もして来た。ただ正直なところ……事業としては現状、いまひとつ伸び悩んでいる。ああでも、君の賃金はもちろん保証するし――」
「心配なんてしてねぇよ」
彼の弁解を、穏やかな声で遮った。
そして、少し潤んだ瞳で、優しく彼を見つめる。
「アンタは絶対成功する。オレが保証する」
「そ、そうか?」
頬を赤らめた彼女からまっすぐに見られて、クライヴの頬も赤くなる。次いで、ぎこちなくはにかんで、うなずいた。
「いや、うん、そうだな。成功させよう」
彼の照れた笑顔に、ヘザーもほころぶような笑みを返した。
これから二人で作る未来が、映画通りになるとは思っていない。
なにせ『アビス』という檻をぶっ壊した前科、いや前例があるのだ。
だが彼と二人ならば、映画よりもずっと楽しいこれからを作れると。
ヘザーはそう、確信していた。
そしてその確信はきっと、現実になる。