(翠桃がふるまわれる宴の席に参加できる神は、ごく限られている。それで、木のほうを狙ったわけか)
愛する妹に近づけるのも不愉快だと、
仁王立ちで見下ろす晴風を、ニタァ……と不気味な笑みが見上げた。
「腹へった、腹へった、くれぇ、食い物くれぇ!」
「なんだこいつ……涎たらしやがって気色悪い。餓鬼かよ」
「そのとおり、餓鬼ですわね」
「はっ……」
晴風の言葉は、事実として金王母に肯定された。あっけなく。
「悪鬼のたぐい。怪物。餓鬼は水辺にあつまります。喉の渇きを潤すためです」
「水辺……まさかっ、占いにあった『
「翠桃を狙ったのも納得できます。喉の渇きだけでなく、空腹も満たせますもの。こんな者の侵入をゆるすなんて……石碑の結界をゆるめていたつもりはありませぬが、なんと口惜しや」
「この餓鬼は、お招きした神仙の方を喰らい、その霊気をまとっておりました……
「なんてこった……」
仙を喰い殺した。そんな餓鬼と、黒慧は闘ったのだ。最悪殺されていてもおかしくはなかった。
「地獄に送り返してやる」
「ンヒヒッ! カラス、カラス、カラス!」
「うるせぇ! 静かにし──」
「カラスが焼ける、丸焼き、丸焼き、あァ美味そうだなァ! キヒヒヒッ!」
こいつは、先ほどからなにを言っている?
黒慧は幼子のすがたをしているから、餓鬼のいう『カラス』には該当しない。
「そういえば、
静燕に抱かれ、こわごわと問う黒慧を目にしたとたん、晴風の思考は冴えわたった。
「
「えぇ、どこにもいないわ。……すくなくとも、この
力なくかぶりを振る静燕。
晴風の予想し得る最悪の状況が、現実となった瞬間だった。
「あにうえ……っ!」
「黒慧ちゃん!」
「っ、待て慧坊!」
一瞬だった。静燕の腕から抜け出した黒慧が、背から濡れ羽色の翼を生やし、飛び立つ。
伸ばした晴風の右手は、虚空を掻いた。
「カラス! カラスがまた一匹丸焦げになるぞォ! ヒャッハー!」
「──お黙りなさい」
ヒギィ、とつぶれた蛙のようなうめき声をひびかせ、餓鬼の首が飛ぶ。
ふき上がる血飛沫。とっさに静燕をかばった晴風の目に、剣をふり払う金王母の冷たい新緑のまなざしが映る。
「だめだ、ばあちゃん……慧坊を行かせたら」
「
「止めねぇと……連れ戻さねぇと、黒皇たちを!」
「小風」
金王母は晴風をふり返りはしない。
新緑の瞳で、遠ざかる幼子の背を見つめるだけ。
「
「ばあちゃんッ!」
行かせちゃだめだ、そんなことをしたら。
晴風の悲痛な訴えが、つむがれることはない。
「よいですか、小風。
「ばあちゃ──」
金王母の華奢な手のひらがひたいにふれた刹那、かくりと意識をうしなう晴風。
脱力する兄を抱きしめ、静燕は深々と頭を垂れる。
「……ありがとうございます、王母さま」
「そなたにも、辛い思いをさせますね、
「いいのです。やさしい兄さんがじぶんを責めるくらいなら、私はどんなことでも耐えられます」
にじむ静燕の視界では、たしかなことはわからなかったものの。
「天帝にお仕えして永いですが、ひとつだけ申し上げたいことがあるとすれば……くそったれ、ですわね」
蒼天を見やった金王母の新緑の瞳からこぼれたのは、ひとすじの雫だったろうか。
* * *
「兄上、皇兄上!」
がむしゃらに黒慧をさがしまわる黒皇の腕をつかんだのは、見慣れた顔だった。
「……
「へへ、来ちゃいました! おれたちだけじゃないですよ。
「みんなでやったほうが、早いでしょ? いっしょに
屈託のない笑顔を浮かべる双子の弟を前にし、黒皇は言葉をうしなう。
遅れて腹の底から湧き上がる感情は……怒りだ。
「皇兄上? どうし……」
「──なぜここに来たッ!」
弟たちははじめて目にする、黒皇の激昂だった。
うろたえる黒嵐と黒雲は、兄の怒りのわけが理解できない。
「なにをしている、
上空から黒皇同様に鬼のような形相でやってきたのは、黒俊だ。
「皇兄上がおもどりになるまで、待っていろと言っただろう!」
「でも、小慧がいなくなったのに、じっとしてられないだろ!?」
「だからって……じぶんがなにをしているのかわからないのか!? わたしたち兄弟は、
「そんなに怒らなくても……!」
「黙れ!
「あぁ、わかった!」
「皇兄上をたのむぞ、黒俊!」
兄弟のなかでも成熟した肉体をもつ三つ子が、力強く羽ばたいて散る。そのときだった。
蒼穹に渦巻く気流が、引き裂かれる。
「危ないっ、雲っ!」
身をひるがえした黒春が、混乱真っ只中にいる黒雲を突き飛ばした直後、その翼から鮮血をまき散らす。
振りかかる兄の血に、黒雲は硬直する。
「なっ……
「ぼーっとするな、嵐!」
黒文の叱咤が響きわたる。
「うぐぁっ……!」
黒嵐へ体当たりを食らわせた黒文もまた、翼からおびただしい血飛沫を上げながら、真っ逆さまに墜落してゆく。