明けの刻。清澄な風に乗って、一羽の烏が
砂塵を巻き上げ、青年のすがたとなって二本足で降り立ったとき、
「よう。おつかれさん」
「これは、
黒皇が
「邪魔するぜ」
こうしたやり取りは、もう何度目になるか。
黒皇が会釈を返し、扉を開けたなら、
『おつとめ』を終えた黒皇は、私室にもどると、まず筆を取る。今回もそうだろうと踏んだ晴風だったが、案の定だった。
こんな時間に
「すぐに終わらせます」
晴風も慣れたもので、適当に椅子を引いて居座る。
黙々と、粛々と役目をこなす黒皇のひろい背が、晴風の瑠璃の瞳には、疲弊して見えた。
「嫌なもんでも、見たような顔だな」
さらさらと筆を滑らせる黒皇が右手をとめ、穂先からじわりと墨がにじむ。
「すこし、考えさせられることがありまして」
「たとえば?」
「人が、傷つけあうところを見ました」
黒皇は筆を置くと、ふるえる息を吐き出す。
「不作の地に作物が実り、豊かになっても、それを疎んだ貧しいだれかが、あらそいをはじめる。私は……そんなことのために、下界を照らしているのではありません」
水が枯れ、土地自体がやせ細っていれば、いくら黒皇が太陽の恵みを与えようとも作物はそだたない。絶対的に、貧富の差はうめられない。
ただ、みなに幸せになってほしいだけなのに。それは、弟たちもおなじ想いだからと知っているからこそ──
「あの子たちに、見せたくないのです」
愛すべき人間たちが、傷つけあうさまを。
事実、そのせいで
下界の『惨状』に動揺し、
「この金玲山で、私たちは、きれいなものだけを目にしすぎたのかもしれません」
他者の負の感情を受け止めるのに、弟たちはまだ若く、幼すぎる。
「──
まだ、時がくるまでは。
沈黙が流れる。
知らず知らず唇を噛みしめた黒皇の肩を、とんっと叩く手の感触があった。
「根のつめすぎは、かえって毒だぞ」
「……そう、ですね」
息を吸って、吐くうちに、そもそもどうして晴風がこんな明け方にたずねてきたのか、黒皇は思い出すことができる。
「横になれ。目をつむれ。ばあちゃんから直々に『かかりつけ医』に任命された晴風さんが、寝かしつけてやる。なんなら子守唄でもうたってやろーか?」
「青風真君は、お歌が上手なのですか?」
「疑ってやがんのか? 信じられないなら
「疑ってはいません。素朴な疑問です」
晴風は不思議なひとだ。
どうでもいい会話をかわすだけで、ふっ……と、黒皇の肩の荷が軽くなる。
黒皇はまだ墨の乾いていない報告書を文机の端へ追いやって、腰を上げる。
向かう先は寝台。腰かけたそばから、歩み寄ってきた晴風の手のひらが、ひたいへ当てられる。
「寝ろ。下界は冬だから、お天道さまが半日くらい顔を出さなくたって平気だ」
晴風の手は、凍てつく冷たさだった。彼を中心に舞う氷の結晶が、熱にさいなまれた黒皇をつつみ込んでゆく。
「青風真君……」
「宴なら心配すんな。おまえの弟たちはよくやってる。それに、俺や静燕もいるからな。任せとけ」
晴風の快活な性分に見合い、よく通る声質でありながら、ほっと安堵させるおだやかな声音だった。
幼子を寝かしつけるのに、慣れたような。
ありがとうございます、と、黒皇がきちんと声にできたのかはわからない。
急激におそう睡魔にあらがわず、黒皇は意識を手放した。