第93話 幼鳥の行方【前】

 明けの刻。清澄な風に乗って、一羽の烏が金玲山こんれいざんを滑空する。

 砂塵を巻き上げ、青年のすがたとなって二本足で降り立ったとき、黒皇ヘイファンは私室の前に人影をみとめた。


「よう。おつかれさん」

「これは、青風真君せいふうしんくん


 黒皇が拱手きょうしゅすれば、「あーはいはい、そういうのいいから」と鬱陶しげに右手をふった晴風チンフォンが、もたれていた扉からはずみをつけて身を起こす。


「邪魔するぜ」


 こうしたやり取りは、もう何度目になるか。

 黒皇が会釈を返し、扉を開けたなら、へやの主に次いで晴風も足を踏み入れた。


『おつとめ』を終えた黒皇は、私室にもどると、まず筆を取る。今回もそうだろうと踏んだ晴風だったが、案の定だった。

 こんな時間に金王母こんおうぼをたずねるのは失礼にあたると、報告書に取りかかるのだ。


「すぐに終わらせます」


 晴風も慣れたもので、適当に椅子を引いて居座る。

 黙々と、粛々と役目をこなす黒皇のひろい背が、晴風の瑠璃の瞳には、疲弊して見えた。


「嫌なもんでも、見たような顔だな」


 さらさらと筆を滑らせる黒皇が右手をとめ、穂先からじわりと墨がにじむ。


「すこし、考えさせられることがありまして」

「たとえば?」

「人が、傷つけあうところを見ました」


 黒皇は筆を置くと、ふるえる息を吐き出す。


「不作の地に作物が実り、豊かになっても、それを疎んだ貧しいだれかが、あらそいをはじめる。私は……そんなことのために、下界を照らしているのではありません」


 水が枯れ、土地自体がやせ細っていれば、いくら黒皇が太陽の恵みを与えようとも作物はそだたない。絶対的に、貧富の差はうめられない。

 ただ、みなに幸せになってほしいだけなのに。それは、弟たちもおなじ想いだからと知っているからこそ──


「あの子たちに、見せたくないのです」


 愛すべき人間たちが、傷つけあうさまを。

 事実、そのせいで黒雲ヘイユンは倒れた。

 下界の『惨状』に動揺し、陽功ようこうの制御をうしなってしまったことが原因なのだと、本人の口から聞いた。


「この金玲山で、私たちは、きれいなものだけを目にしすぎたのかもしれません」


 他者の負の感情を受け止めるのに、弟たちはまだ若く、幼すぎる。


「──小慧シャオフゥイには、行かせません」


 まだ、時がくるまでは。


 沈黙が流れる。

 知らず知らず唇を噛みしめた黒皇の肩を、とんっと叩く手の感触があった。


「根のつめすぎは、かえって毒だぞ」

「……そう、ですね」


 息を吸って、吐くうちに、そもそもどうして晴風がこんな明け方にたずねてきたのか、黒皇は思い出すことができる。


「横になれ。目をつむれ。ばあちゃんから直々に『かかりつけ医』に任命された晴風さんが、寝かしつけてやる。なんなら子守唄でもうたってやろーか?」

「青風真君は、お歌が上手なのですか?」

「疑ってやがんのか? 信じられないなら静燕ジンイェンに聞け、あいつが証人だ」

「疑ってはいません。素朴な疑問です」


 晴風は不思議なひとだ。

 どうでもいい会話をかわすだけで、ふっ……と、黒皇の肩の荷が軽くなる。


 黒皇はまだ墨の乾いていない報告書を文机の端へ追いやって、腰を上げる。

 向かう先は寝台。腰かけたそばから、歩み寄ってきた晴風の手のひらが、ひたいへ当てられる。


「寝ろ。下界は冬だから、お天道さまが半日くらい顔を出さなくたって平気だ」


 晴風の手は、凍てつく冷たさだった。彼を中心に舞う氷の結晶が、熱にさいなまれた黒皇をつつみ込んでゆく。


「青風真君……」

「宴なら心配すんな。おまえの弟たちはよくやってる。それに、俺や静燕もいるからな。任せとけ」


 晴風の快活な性分に見合い、よく通る声質でありながら、ほっと安堵させるおだやかな声音だった。

 幼子を寝かしつけるのに、慣れたような。


 ありがとうございます、と、黒皇がきちんと声にできたのかはわからない。

 急激におそう睡魔にあらがわず、黒皇は意識を手放した。