──かつて、
そのことを知る者が、この世にどれほどいることだろう。
今となっては、それを知るすべはない。
* * *
「
「うそぉー!?」
軽快な足どりで駆けてきた少年が、まばゆい笑みを惜しげもなく炸裂させて、飛びついてきたのだ。
「ちょっ、
「ごめんなさい! うれしくて、つい……」
早梅が胸を押し返したところ、ほおずりをしていた黒慧がからだをバッと離し、頭を垂れた。
「でも、僕は梅雪さまにふれていたいです。どこまでならゆるされますか? 手なら、つないでもいいですか?」
早梅の機嫌をうかがうよう、黄金の瞳でうるうると見上げてくるさまは、捨てられた子犬のようだ。烏だが。
「手くらいなら、まぁ……」
「やったぁ! ありがとうございます!」
黒慧のことだ。情に訴えかけてくるこれは、無自覚なんだろう。
しかし早梅には、効果抜群である。確実に、着実にほだされている。
黒慧は早梅の手を取ると、自身のほほへ寄せ、うっとりとした表情でふれあわせる。
「梅雪さまの手は、やっぱり冷たくてきもちいいですね……」
早梅にも人並みの体温はあるはずだが、つねに発火したような黒慧の体熱を受けると、防衛本能からか、
同時に黒慧の
「ずっと、こうしていたいです……」
気を抜くと、黒慧へうっかりうなずいてしまいそうだ。
だが万が一にも「そうだね」なんて返してみろ。「じゃあ僕たちは番ですね!」などと言われかねない。
つまりは、だ。黒慧の「ずっと手をつないでいたい」は、「毎日あなたのお味噌汁が飲みたい」的な求愛表現なのだ。
「黒慧、私もこんなからだだし、あまり君にかまってあげられなくなるよ」
このままでは、いけない。
夢見がちな少年に、早梅は現実を突きつける。
まさか、大きな腹をかかえている早梅が、見えていないわけではないだろう。
「
「そうだけど、黒慧……」
「わかってます。僕の子でもない」
身構えていた早梅ではあるが、頭上からおりてきた声音は、思いのほか落ち着いたものだ。
「この子の父親は、梅雪さまにとって、良いひとですか?」
核心をつかれた。
早梅は、すぐに答えることができない。
「……悪いひとだよ。嫌い。大っ嫌いだ」
「そうですよね。良いひとなら、梅雪さまをおひとりにするはずがないです。僕ならそうします」
「っ……でも、この子は悪くない」
「えぇ、僕だって、あなたを犯した男には憤りをおぼえるけれど、おなかの子を責めるべきではないと思います」
黒慧は、はにかむ。
「僕を、父親にさせてください」
どうか生んでくれ。その子すら愛してみせるから、と。
黄金の瞳をまっすぐに向けられているからこそ、早梅は言葉に詰まる。下手な返事ができない。
「梅雪お嬢さまを困らせてはいけないよ、
脳天に鉛を置かれたかのような心地を、ことさらおだやかな低音がふき飛ばす。
ひろい手のひらに肩を抱かれた早梅が、うんと首を反らした先に、
「あなたはお呼びではありませんが。皇兄上」
やはり、兄を前にした黒慧のまなざしは厳しい。早梅に笑みを向けてきた少年とは、別人と思えてしまうほどに。
黒慧にあからさまな反感を向けられてなお、黒皇が大きく感情を乱すことはない。
すこしさびしげに、黄金の隻眼を細めるだけだ。
「『
「ですからこうして、お願い申し上げているではありませんか」
「ちがうよ。それはお願いではなく、迫っているんだ。ただ愛せばよいというものではない。梅雪お嬢さまの声を、もっと聞いてさしあげて」
「僕に愛を説くのですか? ろくに弟を愛せもしないあなたが? 愛する梅雪さまも守れなかったくせに……」
「それは聞き捨てならないな。黒皇は私を助けてくれたよ。黒皇がいなかったら、私はここにいない」
「あぁまただ、黒皇、黒皇、黒皇! 兄上ばっかり! 兄上はよくて、どうして僕はだめなんですか、なんで僕を見てくれないんですか、梅雪さまッ!」
黒慧が叫んだ刹那。
カッと、金色の光がまたたいた。