第三十話 初デートリベンジ

 行きたいところがあるんだ、と言いながら、日下部くんは二枚のチケットを取り出した。


「映画?」

「うん、そう。どうしてもこの映画を祈里と観たくて」


 チケットを一枚受け取る。そこに書かれていた映画のタイトルを見て、私は「あ!」と声を上げた。


「この映画って、あのとき観に行けなかったやつだよね」


 中学生のころ、私たちの距離が近付くキッカケになった小説を実写化したもの。あの日、私が父親にお金を盗られてしまったために、あきらめるしかなかった映画。日下部くんは「一緒に出掛けられるなら気にしない」と言ってくれたけれど、私は一緒に観て、たくさん話をしたかったと後悔していたものだ。


「これ、今もやってるところあるんだ」

「ここの近くのミニシアターが上映してくれてるみたいで。見つけたときは興奮した」

「嬉しい。なんだか、あの日をやり直すみたいだね」


 さすがに見た目は中学生には戻れないけれど、と笑う。


「やり直そうよ。映画観て、そのあとはどこかで軽食でも食べながら語ろう」


 照れ隠しをするように、日下部くんは「面白かったらいいけど」と付け足した。面白くなかったらなかったで、それも楽しいんじゃないかな、と返す。あなたと一緒なら、きっと何でも楽しいと感じる。中学生のころの私が想ったことを、今の私も感じている。



 ミニシアターということと十年近く前の映画ということもあり、劇場の中はほぼ貸し切りのような状態だった。

映画は、十年の月日の内に多少の演出の古さを感じるところはあったものの、とても面白くてシアターを出た私たちは未だ余韻に浸り、少し興奮気味だった。今や主役級の役を演じることの多い俳優さんや女優さんが、若手の脇役として出演していたところにも驚いた。努力して、地位を高めてきたのだと思うと、同じ女優業に就く身として感慨深いものがあった。

シアター近くにある、こじんまりとした喫茶店に入る。コーヒーの香りが心地いい。窓際の席に座ると、黒いエプロンをつけた店員さんが、四角くて真ん中に穴が開いている氷が浮かぶ水の入ったグラスを私たちの前に置いた。日下部くんはアイスコーヒー、私はクリームソーダ、それから二人で軽く食べるためにとベーグルサンドを頼む。

「かしこまりました」と言って、店員さんはカウンター奥の厨房のほうへと消えていく。その後ろ姿を見送って、それから目が合った私たちは「楽しかった」と声をそろえた。


「細かいところまでしっかりと作り込んでて、見応えがあったな」

「そうそう。疑問を残さないっていうか、しっかりフラグ回収してくれてて良かったね」


 原作があるものを映画化すると、どうしても尺の問題などから不自然に繋がれてしまうこともある。十年も前に読んだ小説だから、原作の内容を細かなところまで思い出すことはできず、確かな比較はできないけれど、それでもとても上手に映画に落とし込んでいると思った。


 映画の感想を言い合っている間にドリンクとベーグルサンドが運ばれてくる。エメラルドグリーンのメロンソーダの上に、真っ白なバニラアイスが浮かんでいる。さくらんぼの鮮やかな赤色は艶があって、まるで宝石のようだ。


「クリームソーダって懐かしいな」

「子どものころの憧れだったの」


 子どものころ、喫茶店の前を通ると、窓際の席でクリームソーダを飲んでいる同い年くらいの子がよく目に留まった。キラキラとしていて、その子もニコニコと幸せそうに笑っていて、私の中の幸せの象徴だったのだと思う。

スプーンでアイスとソーダを掬う。ソーダのパチパチとした冷たい刺激と、バニラアイスのクリーミーさが口の中でミックスされる。


「おいしい」

「それは良かった」

 

 ふわ、と日下部くんが笑う。ここ数日、日下部くんはとても優しく笑ってくれる。そして、その笑顔を見るたびに胸が高鳴るから、私はこの笑顔に弱いのだろう。顔に出てしまう前に、話を戻そう。


「また原作も読みたくなってきちゃった。このあと、本屋さんに寄ろうかな」

「本屋に行かなくても、まだ俺持ってるよ。貸そうか?」

「いいの? それじゃあ、お願いしようかな。楽しみ」


そう返して、ふと視線を感じ窓の外を見れば、五歳くらいの女の子が窓に張り付いてこちらを覗いていた。キラキラとした目は私が飲んでいるクリームソーダに釘付けだ。その子の母親らしき女性が、窓際から女の子を引き離す。「すみません」とこちらに言ったことが女性の口の動きで分かった。私たちも「いえいえ」と顔の前で手を振って返事をする。ガラス越しにバイバイと女の子に手を振ると、元気よく振り返してくれて癒された。


「また来ような」

「うん、また来ようね」

 

あの子の目に、今の私たちが幸せに映っていたらいいなと願った。



 喫茶店を出るころには随分と陽が傾いていた。駅までの道のりを並んで歩く。別々の家ではなく同じ家に帰るのだと思うと、なんだかとても不思議な感じがした。正式にお付き合いしているわけではないけれど、同棲ということになるのだろうか。いやいや、なんだか色々な過程を吹っ飛ばしすぎなのでは?

 火照る顔をこっそりと手でパタパタと仰ぐ。意識して、気持ちが浮つくほど、頭の中では桜井さんを意識してしまう。早く、私の気持ちをしっかり伝えないと。なぁなぁにするのではなく、私も誠実でいたい。


「どうした? 何か考え事か?」

「え? あ……」


 顔に出ていたのだろうか。桜井さんのことを話すか、それとも黙っておくか悩んだけれど、秘密にしておくことは違う気がして「うん」と頷く。


「実はね、日下部くんに告白される前に、桜井さんから告白されてたの」


 スキャンダルが出たころ、と言えば、日下部くんは一瞬間が合ってから「そうなんだ」と頷いた。話そうと決めたけれど、日下部くんの顔をうまく見ることができない。胃のあたりがキュッとする。


「それで、なんて返事したの?」

「返事はまだしてない。付き合えないってこと、ちゃんと伝えたいんだけどね。桜井さんは監督して尊敬しているし、これからもお芝居の話をしていきたいって思ってる。友達としてもうまく関係を続けられたらなって。断って、気まずくなることが怖くて」


 わがままで、それが難しいことは分かっている。人間関係、そんなに簡単にうまくはいかない。感情があるからこそ難しい。


「ごめんね、日下部くんも。嫌な気持ちになってない?」

「なってないよ。桜井も……祈里の気持ちなら、ちゃんと聞いて理解してくれるんじゃないかな。これでも桜井のことは分かってるつもりだから」

「そうかな」

「ああ。大丈夫だよ」

「うん。じゃあ、近いうちに桜井さんに連絡して、会って話してみる」


 それが良いと思う、と相槌を打ってくれた日下部くんは、「俺も話さないとな」と呟いた。友達同士だからこそ、私とのことをちゃんと桜井さんに伝えておきたいということだろうか。

 待ち合わせ場所に使った駅が見えてくる。ふと、隣を歩く日下部くんの左手の小指と私の右手の小指が触れ合った。一瞬、お互いに意識をした。どうしようか、と悩んで、どちらともなく互いの指を絡めて繋いだ。じんわりと日下部くんの、私よりも少し低い体温が伝わってくる。

 伺い見るように、日下部くんのほうをそっと見上げる。夕日の中でも分かる。赤くなった日下部くんの耳が愛おしい。繋いだ手が簡単に離れてしまわないように、ギュッとその手を握り返した。