第二十五話 君の体温

 日下部くんが淹れたコーヒーの香りが、まだ眠気を含む思考を刺激する。

 朝に会う日下部くんは眠そうにふわふわとしていることが多いのに、今日は仕事で早く出る用事があるとかで、スーツ姿でコーヒーを飲む彼はいつもよりシャキッとしている。


「どうした?」


 私の視線に気付いたのだろう。目が合った日下部くんは怪訝そうに首を傾げる。


「ううん、何も」


 桜井さんとのスキャンダルが出てから数日は、日下部くんと顔を合わせることが気まずかった。昨日くらいからようやく会話の流れが通常に戻ってきたように思う。


 桜井さんとはスキャンダルが出た日の夜に一度だけメッセージが飛んできた。内容は、私に振り向いてもらえるように頑張るけれど、あまり気にしないで関わって欲しいというものだった。これからまた一緒に仕事をすることもあるだろう。そのときに気まずさで仕事が順調に進まなくなってしまうことだけは避けたい。桜井さんもきっとそれを考えてメッセージを送ってきてくれたと分かるから、今はその言葉に甘えてしまおう。


「それじゃあ、俺、もう出かけるから」

「うん、気をつけてね」

「羽柴は今日、オフなんだっけ?」

「うん。だから、夕飯は任せて」

「ありがとう」

 いってらっしゃい、と日下部くんを見送る。その背中を見て、彼は今、ちゃんと幸せだろうかと思ってしまうのは、昨晩、懐かしい夢を見たからだろうか。


 部屋の掃除と洗濯を済ませ、近くのスーパーまで買い物に出る。ゆっくりと店内を回りながら、食材や日用品をカゴに入れていく。そういえば、最近は一緒に夕飯を食べる時間もなかなか取ることができなかった。久しぶりにその時間が取れるのは嬉しいけれど、なんだか照れ臭さも感じる。せっかくなら好きな料理を作ってあげたいけれど、そういえば、まだ好きな食べ物が何かも聞いていなかった。学生時代はお寿司が好きだと言っていたけれど、今も変わっていないだろうか。仮に今も変わらずお寿司が好きだったとしても、さすがにお寿司は作ることができないのだけれど……。

(あ、でも、手巻き寿司なら作れるかも)

 我ながら良いアイディアかもしれない。そうと決まれば、材料や必要なものを揃えていこう。

 


 十九時過ぎ。そろそろ帰るであろう日下部くんの帰宅タイミングに合わせて、食事の準備をする。

 年甲斐もなく、なんだかわくわくしている自分がいる。日下部くんも喜んでくれたら良いのだけれど。


「あとは酢飯の準備をして……」


 炊飯器が炊飯終了のアラームを鳴らしたのとほぼ同時に、玄関のロックが解除される音がする。日下部くんが帰ってきたのだろう。リビングの扉が開かれる気配がして、「おかえりなさい」と振り向く。それと同時に視界に飛び込んできたのは、日下部くんが倒れこむ姿だった。


「え……っ日下部くん!?」


 床に手をつき、苦しそうに肩で呼吸をする日下部くんに駆け寄る。日下部くんの顔を覗き込めば、大粒の汗が額から溢れていた。背中に触れれば、スーツ越しでも分かるくらいひどく熱い。


「……悪い、急に調子悪くなって……」

「なにも悪くないよ。とりあえず、横になって休もう」


 足元がおぼつかない日下部くんに肩を貸して、彼が使っている寝室まで移動する。部屋の隅に置かれたシングルベッドに寝かせ、少しでも呼吸が楽になるようにネクタイと首元から二つほどボタンを外した。

 水を張った洗面器に浸したタオルを絞り額に乗せれば、冷たさが心地良かったようで、日下部くんの眉間に寄せられた皺が少しだけ和らぐ。

 脇に挿した体温計は、38度後半を示していた。

 壁に掛けられた時計を見る。もう病院はやっていないけれど、急げば近くのドラッグストアがまだ開いているだろう。薬や飲み物を買っておいたほうが良さそうだ。


「日下部くん、私、ちょっと出かけてくるから、」

 

 ゆっくり眠っていて、と言いかけた言葉は、ベッドから不意に伸びてきた日下部くんの手が私の腕をつかんだことによって遮られる。

 日下部くんは熱のせいで潤んだ瞳で私を見上げた。


「今日は傍にいて欲しい、このまま」


 かすれた弱々しい声で日下部くんが続ける。


「隣にいてくれるだけで、いいから」


 おねがい、と言われてしまっては、それ以上拒むこともできず、ベッドサイドに腰掛けた。


「分かった、ここにいるね」


 そう答えれば、日下部くんは満足したようで、ふわりと表情を緩ませる。ありがとう、と言う日下部くんの意識は、半分眠りの世界にいたのだろう。少し荒い寝息が聞こえてきた。

まさか傍にいて欲しいなんて言われると思っていなくて驚いた。熱が高いから心細くなったのだろうか。掴まれた腕から日下部くんの体温が伝わってくる。心の中で、愛しいと思ってしまうことを、今日くらいは許して欲しい。



 日下部くんが深い眠りに入ったことを確認し、物音を立てないようにして部屋を出る。彼が眠っている間に薬や飲み物の買い出しに出かけた。

咳や鼻水は出ていなかった。最近、仕事も立て込んでいたみたいだし、疲れから熱が出たのだろうか。明日も熱が下がっていなかったら病院へ行くことを提案しよう。

 家を出たときと同じように、静かに玄関のカギを開けて部屋の中に入る。ダイニングテーブルに一度買ってきたものを置こうとして、夕食の準備がまだ途中段階だったことを思い出す。落ち着いて対応したつもりだったけれど、これが全く目につかなかったのだから私もずっと焦っていたのだろう。


(そういえば、日下部くん、何も食べてないんじゃ……)


 手巻き寿司は無理だとしても、ゼリーか何か軽く食べてもらってから薬を飲んだほうが良いかもしれない。せっかく寝入ったところ申し訳ないけれど、一度声をかけてみよう。

 買ってきたゼリーと500ミリリットルのスポーツドリンクのペットボトルを持って、日下部くんの寝室へと向かう。部屋の前まで来て、ドアノブに手を掛ける。内側へ扉を開けた瞬間、私の体が強く引き寄せられた。

 いつから起きていたのだろう。離れようと日下部くんの胸元を押しても、逆に強く抱きすくめられてしまって身動きがとれない。


「日下部く、」

「好きだ、祈里」


 心臓がどきっと一度、大きく跳ねた。


(今、なんて言ったの……?)


「やだ、どうしたの? 熱で混乱してる?」


 やめてよ、と誤魔化すように笑ってみせる。


「混乱なんてしてない。好きなんだ、祈里のこと」


 肩にかかる日下部くんの吐息が熱い。なんで、と自分の唇が震えるのが分かった。どうしてそんなこと言うの、と日下部くんを責めたくなってしまう。どうして「羽柴」じゃなくて、昔みたいに「祈里」と呼ぶの?


「ずっと考えてた。俺では祈里を幸せにできないかもしれないって。だから桜井に任せようって思った。桜井なら、絶対に祈里を幸せにしてくれるから」


 でも、と日下部くんが続ける。抱き寄せられたことで聞こえる日下部くんの心臓が早鐘を打っている気がするのは、彼の熱が高いからだろうか。


「でも、俺はやっぱり、俺自身で祈里を幸せにしたい」


 ずっと思ってた、と日下部くんが言う。


「もう、俺の傍からいなくならないでくれ」


 お願いだから、と言う日下部くんの声は震えている。

 目を閉じる。中学生のころ、私から別れを告げたあの日の、日下部くんの泣き出してしまいそうな顔が浮かぶ。

 誰よりも幸せになって欲しい人。誰よりも、傷つけたくない人。

 できるだろうか、私に。日下部くんを幸せにすることが。父の顔が何度も何度も脳裏に浮かぶ。私はまた、彼を深く傷つけてしまわないだろうか。