迷って、見失って ①

 日が暮れ、夕日が都市を染める。


 仕事を終え帰路へ着く者、酒場へ飲みに行く者、娼婦へその日の稼ぎを貢に行く者、皆それぞれが己の目的に沿って行動する中、アインとサレナはティオと共に銀春亭に用意された部屋へ戻っていた。


 「サレナさんとアインさんは、これから何か用事があるのですか?」



 「無い」

 腕を組んで椅子に座っていたアインは素っ気ない返事を返し、手帳を読み漁っていたサレナは腹の音で返事を返すと慌てた様子で「ご飯!! ご飯にしましょう!!」と恥じらう。昼に食事を済ませていても、彼女は成長期の少女なのだ。腹が減るのは当然だ。


 「夕食でしたらこの銀春亭をお勧めします。安くて量が多く、なにより美味い。お金も十分に出来たようですし、どうでしょう?」


 「そ、そうですね! さ、早くご飯にしましょう!」


 「随分と焦っているな、サレナ。別に腹の音を聞かれたくらいで」


 「お腹の音の事は言わないで下さい!」


 何だか調子が狂わされるような気がした。この二人を見ていると自分を包む何かが罅割れてしまうような、そんな気がした。ティオは無意識に口元に笑みを浮かべると「先に行っていますよ」と話し、部屋を後にする。


 「行きますよアイン!」


 「腹が減るのは生きている証拠だろうに、何をそう隠したがるのか。理解できんな」


 「もうお腹の音については良いですから!」


 「そうか」


 ぶつぶつと独り言を話すサレナを横に、下階に広がる大衆食堂に目を移したアインは一人の赤髪の女を見つけ、面倒だと言った様子で息を吐く。


 「サレナ、他の店を見つけるべきだ」


 「どうしたんですか? 突然」


 「あの女、肉塊が居る。俺はあまり奴を視界に収めたくはない」


 「女? えっと……あ、クオンさんじゃないですか。よかった」


 「よかった? あの女が居て何がよかったと?」


 「だって、クオンさんは私達をスピース迄乗せてきてくれた上に、この店まで紹介してくれたんですよ? それに、ハルさんから色々言われて少し悲しそうでしたし。そうだ! クオンさんと食事をして、話をしましょう! アイン、いいですか?」


 赫赫たる憤怒と空気が震える程の憎悪がアインから黒い靄となって溢れ、鋭利な刃を突きつけるような殺意が彼の目に宿る。クオンという女を視界に映し、言葉を交わそうとするだけで彼の激情は思考を殺しと死を求める。


 「アイン、落ち着いて。彼女とはちゃんとした話をしていないじゃないですか、あなたの感情をぶつける相手ではありません。そもそも、彼女は敵じゃありません」


 鉄塊の柄に伸ばしていた手指がサレナの言葉に反応したかのように震え、彼の狂気が鎖に繋がれる。狂ったように吠える狂獣が、脆い格子に閉ざされた檻に入れられ、歪な牙を嚙合わせた。


 「……お前に従おう、サレナ」


 「ありがとうございます、アイン」


 優し気な微笑みを浮かべた少女は剣士の手を引き階段を下りる。足は自然とクオンが食事を摂っているテーブルへ進み、空いていた椅子に腰を下ろした。


 「こんばんわ、クオンさん。夕食を共にしても宜しいでしょうか?」


 「……ああ、サレナちゃんか。いいよ、一人で飲んでてもつまんないしね」


 「ありがとうございます。アインも座って下さい」


 無言で、射殺すような殺意を抱えたまま椅子に座ったアインは真紅の瞳をクオンへ向ける。


 「そう怒んないでよ、悪いと思ってるよ? あんた達を利用したのはさ。けど、そうでもしないと真面に話も出来なさそうだったし、うん、臆病なんだ私は」


 エールを飲み下し、頬を朱色に染めたクオンは酔って潤んだ緋色の瞳をサレナとアインへ向け、テーブルに突っ伏す。


 「何時だって怖かったよ、お父様は。何故何故何故ってさ、自分が出来る事は娘の私にも求めるんだもん。そんで出来なかったら冷たい目を向けて、溜息を吐くの。うんにゃ、怖いっていうよりそうだね、悲しかったのかなぁ私は」


 注文を取りに来た飯女に三人分の料理を注文したサレナは、彼女の言葉に耳を傾ける。


 「厳しいから褒められたい、けど何をやっても、出来るようになってもお父様は私を一度も褒めた事は無かった。

 出来て当たり前、出来なきゃ何故出来ないってさ。私さ、何で修行の旅に出たのか自分でも分からなくなっちゃって、困っている人を見つけたら手を貸して、戦って、他の都市で学問なんかも習ってさ。ホント、何がしたかったのかねえ」


 「クオンさんは、初めに何の為に旅に出たのですか?」


 「……ただ、そうだね、認められたかったのかもしれないね」


 「それはハルさんにですか?」


 「お父様と、微かにしか覚えていないお母様、それと自分自身を認めたかったのかもね」


 何処か、遠く、朧げな過去を求めた緋色の瞳は夕照に煌めいていた。その煌めきは彼女の涙のせいなのか、それとも夕日に照らされた故に放たれた輝きなのか、それはクオンにしか分からない。


 失って、見つけて、迷って、進み続けた彼女は酷く疲れているように見えた。表面だけは美しく見えていても、中身はボロボロの美女。かつては希望と未来を胸に抱えていた筈なのに、何時の間にかそれらを落としてしまっていた。


 何を求め、何を考え、何を得たかったのだろう。自分自身の内面へ向けた問いに返す答えは見つからない。己が内面に広がるは燻ぶった何かと無限に広がり続ける闇のような渇望。


 過行く月日と共に闇は果てし無く広がり、クオンが渇望する彼女自身にも理解不能な何かを求める。永遠に満たされない渇きを胸の内に秘めた女は、冀望きぼうにも似た感情を瞳に込める。


 「……クオンさんは、迷っているのですね」


 「……そうだね、私は、何時だって迷っているさ」


 「あなたの抱える迷いはあなた自身にしか分かりません。何を求めているのか、何を得たいが為に歩みを進めているのか、それは私にも分かりません。けど、あなたはのですか?」


 「私が誰かになりたいだって? サレナちゃん、私は私さ。他の誰かになれるなんて考えちゃいないよ」


 「そうでしょうか? あなたの話を聞いていると、常にあなたの背にはハルさんが立っているように感じられます。ハルさんの教え通りに行動し、それが出来なかったら自己嫌悪を繰り返している。クオンさん、あなたは?」


 「……誰、か」


 ふと、思い返してみる。七年間の旅路を見つめ返す。


 苦杯を飲み下し、苦難と邪を恐れるべからず。言葉であれば苦痛を耐え、苦難と邪を恐れないと読むべきだろう。だが、それは表立った意味であり、本来の意味は別にあるのではなかろうか。


 苦杯、それは人に与えられた生という器に満たされた苦痛である。その苦しみと痛みを耐えながら味を知り、最後まで飲み下す。人生は苦杯と云うべき器であるが、苦しみと痛みは人が生きる上で常に隣り合わせの友であり、それらを味わい薬とする事で人は教訓とし、最期の死の瞬間に人生という苦杯を飲み切るのだ。苦杯とは生の道にして器、人は生まれ落ちた瞬間より苦杯に口を付け、苦しみと痛みを知る。それが苦杯を飲み下すという言葉である。


 ならば、苦難と邪を恐れるべからずとは何か。苦難とは困難を指す言葉であり、邪は正道を捻じ曲げる存在、或いは害を及ぼす者を指す。邪の存在は生命に苦難を強い、生命は苦難によって邪道に転じる。それは生命が在る限り終わる事の無い円環であり、螺旋の如く永遠に進み続ける宿命であろう。生命が邪に屈する瞬間、邪道が開かれる度に正道は死すのか。否、邪道は正道に勝てぬのだ。己が邪の齎す苦難を克服し、正道を示し続ければ人は恐れない。恐れなければ邪道に転じない。苦難と邪を恐れるべからずとは、己が民に示す勇気を表し、正道を敷く言葉なのだ。


 クオンの一族は皆訓示を胸に生きてきた。誰もが一人の人間として教えを守り抜いてきた。この教えは一族の者が道を進むために紡がれてきた、一種の道標のようなものなのだ。故に、これは誰かになりたいが為の言葉ではない。己がどう解釈し、進むべきかを問う言葉だったのだ。