慣れ

 イブから見た下層街の日常とは、正に人が裸足で地獄の炉を歩くようなものだった。


 人殺しなどさほど珍しいことではないし、路地へ目を向けると其処にあるモノは臓器が抜き取られた腐乱死体か、強者から身を隠す弱者の眼。麻薬の売買や強盗殺人、強姦殺人、恐喝、脅迫、殺人教唆……。妊婦の腹を引き裂き、血と羊水に濡れた胎児をボール代わりにして遊ぶ子供達の姿。


 持たざる者には安息など存在するはずが無く、人間同士が貪り喰らう下層街は欲望と罪の囲う。罪を練り上げ、悪を重ねた者だけが生き残る弱肉強食の魔都。弱者を守る気など微塵も存在せず、誰もが今を生きる為だけに罪悪を成す無慙無愧の恥知らず。地獄の炉端、辺獄以上の悪意に染まった下層街は今日もまた銃声と叫喚が轟き響く。


 アパートの屋上で、銀翼を街頭に煌めかせたイブは無頼漢の構成員が浮浪者を始末し、子供の腕を捻り上げる様子を観察する。泣き叫ぼうが助けなど在るはずが無く、周りの浮浪者もその光景がさも日常の一幕であるかのように傍観するばかり。


 短い溜息を吐き、銀の光を闇に散らすイブは屋上の鉄柵に立ち一気に路地へ飛び降りる。生温く、濃い血の臭いが鼻腔を通り抜け、少女の肺に溜まると同時に銀翼が構成員……完全機械体の鋼を断ち切り赤褐色の人工血液に濡れる。


 彼女の七色の瞳が子供を見据え、そっと視線を逸らす。それと同時に乾いた発砲音が路地に木霊し、銀翼が銃弾を弾くと両手に拳銃を握っていた子供の眉間を貫いた。


 これで六十二回目。強者に襲われる弱者の命を救ったのにも関わらず、銃口を向けられた数をもう一つ加えたイブは次々とナイフを取り出す浮浪者達を一瞥し、下層街の異常性を再認識する。この街で誰かを救うことは、弱さを見せる事と同義なのだと。


 優しさに付け入る外道、他者の甘さを啜る悪鬼、信頼を無頼へ変える塵芥……。一週間、下層街の住人を観察し、危険行動を発見してはその度に介入する少女が下した判断は力を見せつけねば……圧倒的な格の違いを示さねば、下層街の罪悪は大獄の炎を以て己が身を焼き尽くす。弱者は更なる弱者をいたぶり、嬲り、喰らうのだ。


 本当はこんなことをしたくないのだけれど……。イブは無頼漢の死体を宙に跳ね上げると木っ端微塵に切り裂き、人工血液の雨を路地に満たす。チャチなナイフと粗末な拳銃で武装していた浮浪者は機械体を瞬時にバラした少女に恐れ慄き、路地の闇へ逃げ去った。


 さぁ―――と、再び屋上へ飛び上がろうとしたイブの視界にダナンの姿が映る。夜闇を揺蕩う蛍のような、煙草の紫煙を燻らせる青年は辺りの惨状を見渡し、少女の横を素通りする。


 「何処へ行ってたの?」


 「ただの日課だ。気にするな」


 「日課ねぇ……」


 彼の腰にぶら下がる数冊の電子手帳、そして衣服から漂う硝煙と血の香り。機械腕に付着した鮮血を拭う事無く、内蔵されている超振動ブレードを街頭に煌めかせたダナンは、刃を格納すると死体の布地で血を拭う。


 午前五時から七時の間、青年は散歩と称して何処かへ姿を消す。同居人であるリルスは八つ当たりに行ったと話すが、イブはダナンが何処で何をやっているのか知らなかった。


 だが、一週間アパートの屋上で街を眺め、住人の様子を観察していたイブは彼が何をしているのか大方の見当を付けていた。電子手帳或いは紙媒体の手帳は無頼漢構成員が持つ物と酷似しており、それを一日一冊持ち帰ってはまた何処かへ向かう。日常習慣のように、毎日その行動を繰り返すダナンからは決まって死の臭いが漂っていた。


 「ダナン」


 「何だ」


 「リルスが待ってるわ。仕事の話よ」


 「分かった」


 問い詰めるべきか、理由を聞くべきか……。一瞬の間で逡巡したイブは仕事の話を切り出し、アパートの扉を指差す。


 話すべきなのかもしれないが、聞くべきではないのかもしれない。ダナンが自ずと理由を話す時を待ち、それが悩みであった場合イブは共に解決策を模索する。しかし、一週間という時間が少女へ与えた情報は下層街の現実と無秩序が齎す悲惨な状況、そしてダナンとリルスの微妙な関係性だけ。中層街への道のりは未だ混迷の霧に包まれていた。


 頭を振るい、ダナンの後を追ったイブは三人が住むアパートの一室へ足を踏み入れ、ディスプレイと向き合うリルスへ視線を向ける。


 軽やかにキーを叩き、青い光を顔一杯に浴びる少女は二人を一瞥すると口元に笑みを浮かべ、エンターキーを弾く。仕事の時間だと言わんばかりに座椅子の上で背を伸ばしたリルスは泥水のようなコーヒーを一口啜り、ピンク色の可愛らしいマグカップをテーブルの上に置いた。


 「おかえりダナン、イブ。何か珍しい事でもあった?」


 「無い」

 「いいえ? 今日も下層街は変わらないわね」


 「そ、まぁ別にどうでもいいんだけどね。仕事よ二人とも」


 椅子に腰かけ、煙草の封を切るダナンとソファーに寝そべるイブ。煙草を咥え、火を着けた青年の口から薄い紫煙が漏れ出し、卓上ファンの風で霧散すると二人の少女は顔を顰め「煙草、止めたら?」と同時に口走った。


 「別に構わんだろ、煙草の煙くらい。リルス、仕事の話を頼む」


 「はいはい、分かりました。今回の仕事は遺跡のB区画の奥……未踏査区画の調査探索ね。依頼主は中層街の人間なのだけれど、仲介人は私。実働はダナンとイブで分けるわ」


 「エレベーターが復旧したのか?」


 「そうね、多分貴男以外の遺跡発掘者が非常用電源を修理したんじゃない? 新区画の名称はM区画。依頼人が言うには、マレボルジュの頭を取ってMにしたそうよ」


 マレボルジュ……。その名を聞いたイブは皮肉な笑みを浮かべてしまう。


 もしその先へ、M区画の向こう側へ足を勧める者が居るならば其処は奈落の一歩手前。全てが凍り付き、忘れ去られ、存在そのものが無かった事になってしまった階層区。云うならば、コキュートスと呼称すべき区画だろう。


 リルスが話した依頼人は皮肉的な性格が見て取れる。下層街を辺獄と見定め、ゲートを血の川プレゲトンと仮定し、遺跡を地獄と例える言葉で彩る様。依頼人が住む中層街と遺跡へ続く下層街は、巨大なエレベーターと鋼鉄板の空で遮られ、それらは三途の川アケロンか。遠い昔に読んだ本の内容を思い出し、未だその知識が残っている事に感心したイブはディスプレイを瞳に映す。


 「リルス」


 「なに? イブ」


 「M区画の調査探索って言うけど、具体的に何をしたらいいの? 私、一週間ずっとダナンの手伝いをしていたけど、基本的に大なり小なりの遺物を持ち帰ったり、情報端末からデータを抜くだけだったじゃない」


 「それに関しては」


 「調査探索は新区画の情報端末機器にバックドアを仕込み、情報データの照合と解析を容易にする。遺跡と下層街はネットワークが繋がっていない。だが、何故か生きている回線があって、リルスと俺はそれを利用しているだけ。ユーザーネームも何も記されていないが、過去の人間に感謝しなければならんな」


 煙草の灰を落とし、遺跡へ向かう為の準備を始めたダナンが口早にイブへ説明する。


 「ネットワークが生きている? 冗談でしょう? 遺跡の回線は全て死んでいる筈よ? 生きていても、それはスタンド・アローンタイプかローカルタイプのはず……」


 「さぁな、俺も詳しくは知らん。だが、この情報を知っているのは俺とリルス、そしてイブ……お前だけだ。使わせて貰えるなら遠慮なく使うべき、そう思わないか?」


 ガンホルスターにアサルトライフル、大口径マグナムを収め、刀剣へレスを腰に吊ったダナンは各種弾薬と四日分の濃縮ゼリーパックが入ったリュックを背負う。彼の見てくれは中装備の兵士のようであり、黒鉄の機械腕がアーマーの色と相まって何処か禍々しくも感じられた。


 「ダナン、帰りは何時頃になりそう?」


 「装備と食料の数から三日間は戻らないだろう。リルス、もし怪しい奴が来たら一目散に逃げろ。此処を爆破しても構わん」


 「馬鹿ね、帰る場所が必要でしょ? 一応頭に残しておくけど、その心配は必要無いわ。そうでしょ? イブ」


 「えぇ」


 イブの銀翼が一枚リルスの周囲に漂い、少女の安全を確保する。


 「全自動迎撃システムに切り替えておいたわ。大抵の銃弾とミサイル、ロケット砲弾じゃビクともしない筈よ」


 「ありがと、イブ」


 「あぁ、それとリルス」


 「なに?」


 「ご飯……材料を買って来るから一緒に食べましょ? 貴女の料理、すっごく美味しかったから」


 照れたように笑ったイブへ「任せておきなさい。だから、ちゃんと帰って来るのよ? ダナンと一緒にね」と手を振ったリルスはディスプレイと向き合いキーを叩く。


 じゃぁ……行ってきます。そう呟き、青年と共に少女は地獄の底へ進み始めた。