名も無き人

 低く、重々しい機械の駆動音。


 薄暗い一室で、機械仕掛けの安楽椅子に座する男は電子情報が舞う瞼をそっと開き、骨と皮で包まれた手を視界に映す。闇に包まれた手は真正面……壁一面を覆い尽くすモニター・ディスプレイの光を浴び、黒一色に染まっていた。


 男には名前が無い。元々付けられていた名前を奪われ、霞がかった情景に立つ友人から付けられた渾名も忘却し、英数字が混ざりあった個体名称を与えられた男は幾星霜の時の中、摩耗された記憶を脳の奥底へ降り積もらせ椅子に背を預ける。


 名無し……。彼が己を呼称する単語は百年間の時が経過しようとも変わらない。方舟の上層部が男をNと呼ぼうが、正式名称であるN-WarBrain. NO.0と呼ぼうとも男は声一つ発しない。名無しこそが彼自身が定めた唯一の自己認識名称であり、守るべき不可侵領域。全てを奪われ、生き死にさえも他者の手に委ねられている男の個体識別名。背中に突き刺さった栄養チューブと生命維持装置によって、無理矢理生かされている男の拙い抵抗だった。


 キーパッドを操作し、大量殺戮兵器の設計図を纏めた男―――名無しは再び瞼を閉じると電子の海を泳ぎ、自室と隔絶された居住区の監視カメラを覗き込む。どれだけ頑強なセキュリティが組み込まれていようと、方舟を設計し、運営システムの構築を一から創造した男には鍵や秘匿など無意味な事。居住区の様子を観察し、廊下を走り回る子供や大きな腹を擦りながら歩く仲睦まじい夫婦を見つめた名無しは視点を切り替え、ダウンさせられていた監視カメラを再起動する。


 「……上層部は私達を飼い殺すつもりだ」


 「しかし……カミシロ、君の話す言葉は全て推察と推測の域を出ない話しばかりだ。いいか? 方舟こそが人類に残された最終生存圏であり、楽園の筈。上層部が自ら築いた楽園を破壊する筈がないだろう?」


 「違う、方舟は一人の天才が創り上げた都市型大規模シェルターに過ぎない。この話しは出すべきではないと思うが……上層部の連中は我々を見捨て、新たな楽園を建造しようとしている。これが証拠だ」


 カミシロと呼ばれた白衣の男が個室に居る主任クラスの研究者へ情報データを転送し、白髪交じりの頭を掻く。


 情報秘匿プログラムを通したデータであろうとも、方舟のネットワークを利用したデータ転送などそうぞ見て下さいと言っているに等しい事。独自性が強いセキュリティを容易に突破した男は、上層部が方舟の市民に隠匿する計画を瞬時に読み解き、スタンドアローンタイプの補助脳に保管した。


 完全なる神が統治する楽園……T計画。戦争を激化させ、人口激減によって選抜された人間だけを人なる神が治める約束の地へ導く計画。優生思想と選民思想に溢れた稚拙な計画書に目を通した名無しは思わず鼻で笑い、愚者の集まりの上層部を侮蔑すると同時に、カミシロが次に吐く言葉を予想する。


 「我々はシェルターで一生を終える為に生きてきたのか?」


 違うだろう? 少なくとも、私はそう思わない。彼の言葉と合わせるように名無しの乾いた唇が動き。


 「君にも子供が居るだろう? いや、この場に居る全員に子供が居るはずだ。こんな未来を……壊れた大地を子供たちに、その先の世代に見せられるのか?」


 だから、私達が変えるべきだ! 親の罪を、その先の世代に継がせるワケにはいかないだろう⁉ カミシロと名無しの口が同時に動き、男は諦めたように笑う。


 理想論者の絵空事は決まって情に訴えるものだ。現実的な具体案と、その責任の拠り所をハッキリと示さぬまま話を進め、失敗した時の言い訳を積み上げる。遠い昔、それこそ摩耗され、降り積もった塵屑のような記憶の底にある名無しの友人も在り得ない理想を口にしていた。


 誰だって最初は諦めずに歩を進める。綺麗な理想を追い続け、汚れた足跡に気が付かぬまま最期に絶望を知る。己がそうだったように、死んでしまった友人の最期と同じように……カメラに映る科学者達も無理難題の理想を追って、後悔に沈むのだ。


 世界は変わらない。変わろうとしない故に、変化を恐れ現状維持に努めようとする。面白いものを見たと満足そうに息を吐き、カメラ映像を切ろうとした瞬間カミシロがジッとレンズを見つめていることに名無しは気づく。


 「……みんなは無理だと思うかもしれない。方舟の未来は決まっていて、全ては上層部の意思で決まると思っているんだろう? だから、私は一人……彼に助けを求めようと思う」


 「彼?」


 「方舟の設計者であり、人類を最も殺し、救った男。多分、君たちは存在すらも知らないだろう。だが、私達が研究し、発展させ続けてきたナノマシン技術、ウィルス技術は全て彼から始まったと言っても過言じゃない」


 嫌な予感がする。カミシロの視線が名無しという存在を見透かすように、レンズの向こう側に座す男を知っているような……そんな気がしてならない。


 電子の海から意識を引き摺り上げ、瞼を開いた名無しの目の前には白衣を着た眼鏡の男……濃い疲労を顔面に湛えたカミシロがポケットに手を突っ込みながら、立ち尽くしていた。


 「N-WarBrain. NO.0……。やっと見つけた。私は、貴男を探していた」


 「……」


 「映像を見た筈だ。頼む……貴男の力を貸して欲しい。私達の計画は貴男無しでは始まらない。どうか……貴男の叡智を授けて欲しい。その為なら、私は」


 手元の操作パネルを弄り、数十機の自己防衛用ターレットを呼び出した名無しはターゲットをカミシロに絞り、一斉掃射スイッチへ指を這わせようとする。


 「待ってくれ‼ 私は貴男の名前をある兵士の映像記録で知っている‼ ネームレス、それが貴男の名前だった筈‼ お願いだ、話を聞いてくれ‼」


 ピタリ―――と名無しの指が動きを止め、カミシロの顔を驚いた様子で見つめ。


 「……久しぶりに聞いたな、その名を」


 老人と青年の声が入り混じる奇妙な声色で、微かに笑みを浮かべた。


 「……一つ、聞いてもいいか?」


 「……あぁ」


 「その兵士は……最期、どんな顔をしていた? いや、すまない。アイツが死んだなら、私の名を口にしていたなら……ユーラシア戦線に出立する前の映像だろうな。だが……」


 その映像を私に送らないとは、実にアイツらしい。遠い昔の記憶を思い返すように、天井を見上げた名無し……ネームレスは寂しさと悲しみが混ざりあった声色で笑った。


 「……彼は」


 「……」


 「もしこの映像を見た人間が居るなら、ネームレスの馬鹿に言ってやれと言っていた。諦めるなと、空と大地を……未来を頼むと。映像が必要なら」


 「不要だ」


 「……」


 「過去を殆ど摩耗した私に、何故アイツの映像を送る必要がある? 感傷に心を痛め、精神を傷つけるなど非合理的。しかし、そうだな。あの男が最期にそう言っていたのなら、私もまた動かねばならん。そう解釈すべきだろう」


 身じろぎ一つせず、視線と骨ばった指でパネルを操作したネームレスはカミシロへある一つの研究データを送り「ソレをどうするかは貴様ら次第だ。有用に使え」と話し、方舟のセキュリティシステムに一部変更を加える。


 「これは……」


 「非現実的、無理無謀、塵芥……。上層部が拒否し、否定した研究資料に過ぎん。聖なる一雫、無限の蟲と称すべきか。ソレに適合した人間は存在しえず、実現しなかった技術。くれてやる……カミシロ」


 完成した技術であろうとも、適合者が存在しなければ塵同然。己の最高傑作とも呼べる研究データをカミシロへ与えたネームレスは瞼を閉じ、電子の海へ再び潜る。


 「……感謝する、ネームレス」


 「礼など成した後で言え。成さねばただの遺言に過ぎん」


 「……最後に」


 「何だ」


 「あの兵士が望み、求めていた青空と緑を、必ず手に入れると約束しよう」


 そう言い残し、走り去ったカミシロを薄目で見送ったネームレスは、友人が焦がれていた青空と緑の木々の画像データを閲覧し、情報保存機器に押し込むと監視カメラと傍聴機器のシステム変更に手を掛けた。