キーボードを叩き、モニターに映るデータを記憶領域に保管したリルスは背を伸ばし、腕を天井へ目一杯伸ばすと首と肩を揉む。
胸が大きければ大きい程肩凝りや首の痛みが酷くなると聞くが、小さな双丘の己には関係の無い話だ。以前ライアーズから聞かされたバストアップの方法を半年程試してみたが、乳房が膨らむ気配は全く無い。
胸の成長とは人其々だと自分自身を納得させ、身体的成長を諦めていたリルスは眠りこけるダナンの機械腕を弄るイブへ目をやり両目を指で揉む。
「イブ、作業は順調?」
「……全作業工程で云えば三分の一が終わったところよ」
「貴女でもそんなに苦戦する代物なの?」
「まぁね、これは特別製……あの人以外が装着する予定に無い代物だもの。普通なら拒絶反応で脳が焼かれている筈よ」
「へぇ……あの人って誰の事? 知り合いかなんか?」
「さぁ? 知らないわ」
ダナンの横に座り、瞼を閉じていたイブが銀翼を伸ばし、羽根の先から伸びる超小型工具を機械腕の回路に刺す。
「知らないって……知ってるんでしょ?」
「顔は分かるけど、名前は知らない。話もした事が無ければ、あの人はジッと私達を……妹と私を見つめてくるだけだったわ」
青い火花が舞い、回路と配線を繋ぎ合わせた少女は銀翼に取り込んだハックプログラムを機械腕のシステムコードに書き加え、インストール作業を進める。
「あの人が何を考えているのか、何を思っていたのか分からない。いえ、誰一人としてあの人の頭の中を理解できた人は居なかった。ずっと固い椅子に座って、生命維持装置に繋がれていた彼は、培養槽を眺めていた。うん、それは確かな筈」
「その人は生きてるの?」
「死んだわ、ずっと昔にね。いや、死んでいないと可笑しいのだけれど、流石にあの混乱の中じゃ生きられないと思う」
「また会いたいって思う?」
「……さぁ、どうかしら」
長い銀髪に電子が奔り、淡い白銀の粒子を纏ったイブは歴史の波に埋もれた宗教画のような神秘性を醸し出し、両目を閉じて床に座る姿は出来の良い人形を思わせる。
綺麗だと、美しいと思った。リルスは己の容姿に多少自信があり、歓楽区で客引きをする娼婦よりも、穢れを知った少女よりも可愛らしいという自負があった。たまに隠れ家から出て通りを歩けば暴漢に襲われそうになり、耳障りの良い言葉を吐く男の誘いも受けた。それは一重にリルスには女としての魅力があったからに違いない。
だが、イブは普通の人間……自分達とは何処か違う印象を抱かざるを得なかった。少女と女の境界線に位置する横顔と、電子と粒子を纏う神々しい後ろ姿、流麗な銀糸を思わせる銀の髪……。もしリルスが男だとしたら、彼女をどうにかして己のモノにしようと手をこまねいていたに違いない。
「ダナンって」
「ん?」
「彼って性欲があるのかしら」
「……さ、さぁ?」
「私さ、結構彼を誘ってみたりしたのよ? その度に拳骨を喰らうんだけどね。イブは此処まで来る途中、ダナンに手を出されなかった?」
「全然だけど?」
「……食事だって割と適当なのよね。ゼリーパックと缶詰類しか食べないし、金を使う時は基本的に弾薬と情報料、機械腕の整備料金の支払いとかなのよ。娼館や風俗に通った経歴も無いし、十年間一緒に仕事をしていたけど私生活なんて分かったもんじゃないの。それで相談なんだけど」
ニンマリと……悪戯猫のような笑みを浮かべたリルスは一枚のカードキーをイブへ投げ渡し「ダナンと一緒に住んでみれば? それ、彼の部屋の鍵だから」と面白半分で話した。
「リルスはいいの? 貴女の方がよっぽど」
「いいのよ。此処が私の家だし、誰かと一緒に暮らすってのは想像出来ないからね。イブ、貴女は下層に持ち家が無い。それって結構危ない事なのよ? なんせ下層街じゃ人殺しや強盗、強姦、人身売買が普通にあるんだから」
「……ホント、下層街って場所は治安が悪いわね。取り敢えず貰っておくわ、後はダナン次第だろうけどね」
微笑を湛え、口元に手をやったイブとスペアキーをもう一枚取り出したリルス。二人の少女が笑い合う中、部屋全体に突如として警報が鳴り響く。
「これは?」
「……始末が悪いお客さんが来たようね。待って、ディスプレイに」
監視カメラの映像を映すディスプレイが次々と暗転し、銃撃とコンクリートが抉れる音だけを響かせる。キーを叩き、記録に残っていた映像をモニターに映し出したリルスは小さく舌打ちすると、逃亡用のエレベーターを起動した。
「何で始末屋が来るのよ……!」
「リルス、始末屋って」
「知らないの? なら教えてあげる。塔の不穏分子……塔そのものを脅かしかねない人間を始末する為に上層から派遣される殺し屋よ。……ハッキングの痕跡は確かに消したのに、どうして」
黒鉄の戦闘用強化外骨格を身に纏った影は尋常ならざる速さで監視カメラを破壊し、防衛タレットを一撃で叩き潰していた。迫り来る弾丸を見切り、縦横無尽に壁を駆ける姿はさながら黒い獣……黒影か。
「応戦するわ。私を」
「駄目よ。始末屋には到底敵わない。此処は逃げるが」
「リルス」
眠っていたダナンが目を覚まし、隠れ家から地上へ上がるエレベーターへ歩み入る。
「ダナン!! 何をやって」
「俺が足止めする。その間に逃げろ」
「駄目!! 始末屋は」
「イブ」
「……なに?」
「リルスを頼む。俺の家の場所は彼女が知っている。もし二時間経っても俺が戻らなかったらライアーズを頼れ。いいな?」
「私も」
「来るな」
エレベーターの中、機械腕のブレードを展開したダナンはもう片方の手にコンバットショットガンを持つ。
「リルスは戦えない。拳銃を撃つのがやっと……だから、お前が守れ。俺は死なない。心配するな」
「でも」
「後は頼んだぞ」
鋼鉄の扉が閉じ、上階へ向かったダナンとそれを見送るイブ。額に手を当て、項垂れていたリルスは小型記憶装置にコンピューター内のデータ転送を開始し、デスクの裏に隠していたリボルバーを腰に差す。
「……行きましょう」
「でも、ダナンが」
「行くわよ……! ダナンの家に向かえば、何かしらの手がある筈よ! アイツの爺さんが残した何かがある筈だから……!」
「……」
余裕を持て余していた少女が焦りを見せ、青年の危機に心底怯えているように見えた。始末屋という存在に恐怖し、身に迫る危険から一刻も早く逃げ出したいという気持ちが見え隠れしていた。
「大丈夫よ」
「何が……!!」
「大丈夫、彼にはルミナの蟲がある」
「そのルミナは何の役にたつのよ!! 何!? 死んだ人間でも生き返らせてくれるワケ!? 気休めなんて」
「リルス、ダナンは負けないし、死なないわ。えぇ安心して頂戴。危機に瀕すれば瀕する程、死に近づけば近づく程、ルミナの適合率は上昇する。だから今は……彼の身を案ずるより自分の心配をした方がいいと思うわよ? ま、それも無用の長物だけどね」
「イブ、貴女何を」
「大丈夫……私が貴女を守る。絶対に傷付けさせないから、安心して」
そっと……リルスを抱き締めたイブは銀翼の一枚を彼女の首元に突き刺し、深い眠りへ誘うと小型記憶装置を懐に仕舞い、ダナンの家の位置をコンピューターから割り出すと。
「……ダナン、貴男はルミナをどう扱うのかしらね」
脱出用エレベーターへリルスを抱え、乗り込んだ。