乱れた髪を櫛で梳き、汗ばみ紅潮した頬を腕で拭ったリルスは勢いよく椅子に座り、泥水のようなコーヒーを一口啜る。
炭をそのまま飲み下しているかのような苦味と粉っぽさ。彼女が口にするインスタントコーヒーは下層街で最も多く流通している粗製濫造の粗悪品。黒炭片とよく似た粉に湯を入れ、一秒待てば出来上がるコーヒーのような何かの味は最低最悪だった。
「イブ」
「なに?」
「貴女、コーヒーは飲める?」
「飲めるけど……リルス、貴女が云っているコーヒーはその泥水のこと?」
「当たり前じゃない。言っておくけど、これは下層街で一番売れているコーヒーなのよ? 味と風味に目を瞑れば、飲めないことはないんだから」
ドロリ―――と、波一つ立たないコーヒーを見せつけたリルスは食器棚を指差し「飲むなら淹れてあげる。タダよ」椅子から立ち上がる。
「別に気にしなくていいわ。それよりダナン、いつまで転がってるの? 股間の痛みならもい引いている筈よ? ちょっと、聞いてるの?」
「無駄よ、多分ね」
「どうして?」
「彼ってば一度眠ったら中々目を覚まさないのよ。身体を
死んだように沈黙し、細い寝息を立てるダナンの脇腹を蹴ったリルスは「ね?」と呟き、食器棚からコーヒー瓶を取り出し、蓋を捻る。
「……」
「何よ黙っちゃって。何か言いたいことがあるの?」
「……ダナンの態度が違うと思ってね」
「態度?」
「えぇ、リルスと話すダナンは何だかこう……人間らしく見えた気がしたわ。だけど、私と話している時のダナンは常に警戒していた。まぁその点は私も悪いのだけれど、彼は貴女を信用しているのね」
「さぁどうだか。他人の心を知ることが出来ないように、お互いになんて思ってるのかサッパリよ。だけど……そうね、下層街で人を信じるのは難しいし、他人なんて利用するだけの存在よ。信頼も信用も、基本的には上っ面だけなの。本当は……私とダナンは互いに」
信じ合ってすらいないのかもね。匙に粉を盛り、マグカップに落としたリルスは哀愁を帯びた声色でそう語り、少しだけ笑う。
「……貴女はダナンを信じていないの?」
「分からないわ」
「どうし」
「十年前の取り決めなの。お互い肉体的に距離が近くても、精神面は離れていようってね。そうしたら、もし片方が死んでも、あぁ死んだのかで済むから。結構クルものよ? 肉親とか近しい誰かが死ぬのは。だから、依存しない関係が一番なのよ」
「……」
悲しい関係だと思った。片方が死んでも悲しまず、後悔もしたくないから深い関係を築かない。故に、利用し合い、喰らい合う。
先程までのじゃれ合いも、罵詈雑言の応酬も、全て見せかけの絆だと言うのだろうか?
ダナンがリルスの身の安全を心配する事も、彼女が彼の言葉に耳を赤らめた事も、全て上辺だけの反応なのだろうか? 其処に感情の一変も存在しないのだろうか?
嘘と断ずるには情報が足りず、偽りを暴く確証は無い。だが、それでも、イブはリルスの言葉が全て真実であるとは思えない。あの無頼で冷徹なダナンが気に留める少女は嘘を吐いている。真っ白な真実の中に、白に近い灰色を混ぜているのだと……そう思わずにいられない。
「コーヒーに何か入れる?」
「砂糖とミルクはある?」
「砂糖はあるけどミルクは無いわ。日持ちしないもの」
「なら砂糖だけでお願い」
濃いコーヒーの香りと湯がマグカップに注がれる音。両手にマグカップを持ち、イブへ犬の絵がプリントされたカップを手渡したリルスはモニターの前に立つ。
「イブ」
「なに?」
「これをダナンの機械腕に繋げて頂戴」
リルスが差し出した半透明のケーブル。それは機器間のデータ転送を可能とする接続ケーブルだった。
「此処からは私の仕事よ。貴女、機械は弄れる?」
「人並み以上には」
「そ、ならダナンの機械腕を最適化してあげて。見たところ前とは違う腕を着けているようだし、私がインストールしてあげたハックプログラムも失っている筈。最初から入っているハックソフトでも遺跡探索じゃ苦労しないと思うけど、私が苦労するからね」
ダナンと機械腕の神経接続を切断し、装甲を外したイブは中に犇めく回路とケーブル、人工血液が流れるパイプ、動力バッテリー、格納状態の超振動ブレードを視界に映す。
機械腕の状態は完璧に近かった。何かしら手を加える必要も無ければ、修理する箇所も見当たらない。それもそうだ、この腕は設計から開発まであの男が担当し、一人で作り上げた特別性なのだから。
「……」
「どうしたのイブ。機械腕と接続ケーブルを」
「リルス、貴女がインストールしようとしているプログラムは貴女が組んだもの?」
「当たり前じゃない。私がデータ処理しやすいように、暗号化とハッキング、情報最適化を並列処理出来る優れ物よ? 商業区で同じプログラムソフトを買おうとするなら百万クレジットは下らないんだから」
「少しソースコードを見せて貰ってもいい?」
「勝手にしたら?」
「ありがと」
イブの銀翼がハックプログラムを読み取り、七色の瞳に電子情報を映し出す。瞳孔が開いては閉じ、虹彩にコードを取り込んだ少女は翼が送り出すデータを読み解き、脳で書き換える。
「……」
リルスは下層街において己以上に情報技術に長けた人物は居ないと云う自信があった。どれだけ高度なセキュリティであるとも、彼女の手に掛かればいとも容易く突破され、機密情報から重要データまで奪われる。下層から中層の電子の海で生計を立てる人間は、リルスをウィザードと呼ぶ。
天才的なハッキング技術と高度な情報技術。メカニック的な分野は専門外であろうとも、技術書と実践を経て培われた人並みの才能。実弾飛び交う戦場では無力だが、電子戦ならば敵は居ない。己に敵う存在はそれこそ死者の羅列の首領か、時折電子の海に現れては姿を消すKと名乗る正体不明の存在だけ。
しかし、少女はその認識を改めねばならないと悟る。己が戦えるのはコンピューターとモニター……即ち武器と弾丸があり、それを扱う技術に長けているから。それらを奪われてしまえばリルスは年相応の無力な少女でしかなく、生きる術を絶たれてしまう。
武器も無しに戦う事は不可能だ。弾丸も無しに戦い続けることは無理難題。身を守る為には武器と弾丸が必要で、技術が不足したスペックを補ってくれる。
だが、身一つでデータ処理と解析、構築を行うイブを目の当たりにしたリルスは決定的な敗北を感じると同時に、己のやるべきことを再定義する。
ダナンの機械腕と遺跡から持ち帰ってくる情報データの第一段階処理はイブへ任せよう。そして、データの詳細な解析や再構築、売却交渉等の取捨選択が己の仕事だ。各々が決められた役割分担を熟せば、リルスの計画は早い段階で達成できる。
「本当に」
世の中は何があるのか分かったものじゃないわね、父さん。イブの様子を眺め、デスクの片隅で幼い己を抱く男の写真を一瞥したリルスは、キーボードを叩き情報データの解析を始めた。