機械腕の手指を曲げ、一本一本の動作を確認したダナンは太腿を両手で叩き、少しずつ痛みが引いてきた頭を振るう。
「イブ、行くぞ」
「何処へ?」
「リルスの隠れ家だ。仕事の報告をする」
「そ、なら行きましょうか。ライアーズさん、お水ありがとうございました」
「いいのよぉイブちゃん、暇なら遊びにいらっしゃい。お姉さんがイケない遊び、色々教えてあげるわ」
真っ白な歯を覗かせ、眩い笑顔を見せたライアーズは丸太のような機械腕から伸びる鈍色の手を振る。
「あ、それとダナンちゃん」
「……何だ」
「そろそろあの人の命日が近いんじゃないの? どう? お酒でも買っていかない?」
「……そうだな、爺さんが好きだった酒を一つくれ。金は」
「お金はいいわよぉ。私もあの人には色々お世話になったし、これは恩返しってことで構わないわ。少し待ってなさいね」
褐色肌の巨躯が冷蔵庫から一本の酒瓶を取り出し、ダナンへ投げ渡す。それを掴み取った青年はラベルに貼られている文字を読み、皮肉交じりの文言に苦笑すると「あぁ、分かった」店のドアノブを握った。
「ダナン、それには何が」
「ただの警告だ」
「警告?」
「あぁ……そうだ」
「何て書いてあるの?」
「……忘れるな。それだけだ」
何を言っているんだと訝しむイブを他所に、酒を襤褸切れ同然になったコートの内側に仕舞ったダナンはポーチの奥に押し込んでいた煙草の箱から折れ曲がった煙草を一本摘み取り、火を点けると紫煙を吐く。
「煙草」
「ん?」
「煙草、止めた方がいいわよ」
「俺の勝手だろ、そんなこと」
「単純に私が厭なのよ、昔を思い出して」
「そうか、なら鼻を摘まんで目を閉じればいい」
「はぁ? 何よその言い方」
「煙草だけは止めない。酒は飲まんが、この煙を吸う行為に意味がある」
「ちょっと、それどういう」
「イブちゃん」
今にも掴みかかりそうになっていたイブの肩をライアーズがそっと握り、首を横に振る。
「いいのよ、好きにさせてやりなさいな。馬鹿な男に女が出来ることってのは、待つ事だけよ」
「ライアーズさん、貴方はダナンの後見人なんですよね? あの人……彼が言う老人からダナンの事を頼まれているんじゃ?」
「そうねぇ、痛いところを突かれちゃグゥの音も出ないわね。けど……いいの。ダナンちゃんは無愛想で偏屈屋の分からず屋だけど、自分のことだけはちゃぁんと考えてるわ。だから、イブちゃんは待っててあげなさい。彼が過去を自分から話す時を、ね?」
派手な化粧と濃い口紅を塗った男を睨み、ダナンへ視線を寄せたイブは彼が初めて見せる哀愁の意を感じ取った。
後悔と憤怒、憎悪と悲哀。様々な感情が入り混じったどす黒い瞳。口角を噛み締め、血が流れ出ているのさえ気付かないダナンは短くなった煙草を握り潰し、排水溝へ放り捨てる。
「ダナ」
「イブちゃん、あんまり干渉するのは駄目よ」
「しかし」
「えぇ貴女の考えていることは何となく分かるわ、同じ女だもの。けど、ダナンちゃん自身の問題を誰かが解決するのは間違ってると思うよアタシは。だからイブちゃん、おブスにならないことね」
「お、おブス?」
「あんらまぁ貴女本ッ当にお行儀の良い子ね! んもぅイヤねアタシったら!」
何処に笑える要素があったのか、女性と男性の笑い方が混在する奇妙奇天烈な笑い声をあげたライアーズはイブの背中を思い切り叩き「ダナンちゃんにはあの子なりの悩みがあるし、イブちゃんも色々抱え込んでるんでしょう? なら今はお互い様! そう納得なさい!」と満面の笑みを浮かべた。
「……ライアーズさんは」
「なぁに? 良い女になる秘訣でも聞きたいの?」
「……私を、心配してくれているんですか?」
「あったり前じゃない! 若者の事を考えるのが年長者の役割なのよ? あ、でもそれは身内だけのことであって、そこらの馬の骨なんてどうでもいいんだけれどね。だからイブちゃん」
「……はい」
「アンタが心から笑える日が来ればいいわね。顔はアタシに敗けるけど、イブちゃんも可愛いんだからもっと笑いなさいよ? そう怒ってばかりだとおブスのお婆になっちゃうわ」
男の姿で女のような話し方をするライアーズはイブの頭を撫で、柔らかな髪を指で梳く。
「何だか、ダナンの言っていた下層街の住民と違いますね。貴方は」
「そう? アタシだって産まれも育ちも下層よ? 確かに此処は塵と屑の吐き溜めで、一日平穏無事に生きられる保証は何処にもないわ。けど、此処がアタシの生まれ育った場所なの。地獄の入り口の辺獄がアタシが生きる故郷。下層街も慣れれば都よ? イブちゃん」
「……そうですか」
ウンと頷き、二本目の煙草を口に咥えたダナンの横に立った少女は溜息を吐き、天を覆う鋼鉄板を見上げる。
「行くわよ、ダナン」
「初めからそう言っていた筈だが」
「そうね」
「もういいのか?」
「何が?」
「ライアーズと話をしていただろう?」
「もう終わったわ」
「そうか」
紫煙を吐き、火種を燻ぶらせたダナンは煙草を口に咥えたまま歩き出す。イブもまた彼の歩調に合わせて足を進ませ、罅割れたコンクリート道路を往く。
「ダナンちゃん!」
「……」
「偶には顔見せなさいよぉ! コールのやり取りだけじゃアタシ寂しいのよぉ⁉」
「……五月蠅い男だな」
「あぁ⁉ 何か言ったかガキぃ⁉」
地獄耳かアイツは。怒声をあげるライアーズへ機械の腕を振り、隣で苦笑するイブを視界に収めたダナンは吸いかけの煙草を吐き捨て、頭を掻く。
「何を笑っている」
「いいえ? 別に何も?」
「笑っていただろう」
「貴男にも人間らしさがあるんだなって、そう思っただけよ」
「どういう意味だ?」
「そのまんまの意味よ。ねぇダナン」
「……」
「生きてるじゃない、貴男」
「……当たり前だ。死んでいたら此処に居ない」
「そういう意味じゃなくて……何だか子供と話してるみたいね、変な気分になるわ」
「そうか」
イブはダナンの過去を知らないし、ダナンもまたイブの過去を知り得ない。少女が歩み寄ろうと近づけば、青年は吼え狂う野犬のように彼女の言葉と心を遠ざける。それは正に一進一退の心理的攻防と云って差し支え無いだろう。
「けど」
「……」
「知らない事ばかりなのよ、私達は」
「……」
「何でかしらね、私は貴男を初対面だと思わないし、何なら何処かで会ったような気がするの。可笑しいと思わない? 遺跡で初めて会って、お互いを知らない状態なのに何故か知っているような気がする。どう? 貴男は私の事を知ってる?」
「知らない」
「そう、だから」
「だが、お前が俺の命を握っていることだけは知っている。イブ、俺達は一時的な協力関係に過ぎない。互いを知ろうとしなければ、理解しようと歩み寄らなければ、もしもの時痛みは最小限で済む。
結局は他人同士なんだ……失った後に知るならば、最初から互いを知らずにいた方がいい。そうだ、それが正解の筈だ」
独り言のように……自分に言い聞かせるようにそう話したダナンは歩く速度を上げ、逃げるように歩を進め。
「俺は……間違っちゃいない。これが生きることに繋がるなら、俺は俺で在り続けなきゃならない」
イブと共に、肉欲と欲望が渦巻く繁華街の中へ身を眩ませた。