「令さん……。あの、送ってくれるんですよね?」
「ああ。何度も言わせるな。そのくらい覚えていろ」
「……はい。すみません」
「お前はいつも謝ってばかりだな」
呆れるようにため息をつく令に、優菜はただ力なく肯定するしか出来なかった。
「はい……」
「……もういい」
令は優菜の先を行き、優菜はその後ろを付いて歩いた。
そして令の運転する高級車の助手席に乗り、窓の外を見る。
外は藍色と橙色が混ざり合っていた。
幻想的なその空を見た優菜は視界いっぱいにその空を入れたが、令はただの景色だからと視界に入っていても然程気にすることもなかった。
「……」
車の重低音が聞こえる。
優菜は令とのドライブなんて社会人になってから初めてかもしれないと思った。
これまで、ドライブと言えば学生時代にいつも優菜がメインではなく、姫乃がメインのドライブだった。優菜と令の二人きりのドライブなんて片手で数えられるくらいしかない。
(何だかんだ、それも寂しかったんだよね……)
そう思いながら、窓の外を見つめる優菜。
令には優菜のその声が聞こえていた。だが、寂しさを感じさせているとは思っていなかった令は、これだから女は困ると思っていた。令は令なりに優菜にそれなりに婚約者らしいことをしていたつもりでいたからだ。それを、寂しかったなどと思われているとは思わなかった。
(優菜は面倒な女だ。姫乃だったら、こんなこと思わないだろうに。そもそも、寂しければそう言えばいいものを。言わないから互いに無駄な時間が増える。だから面倒な女は嫌いなんだ)
令は心の中でそう言いながらも、表面には出さない。仕事も恋愛も何もかも、自身がベストな状態に持っていけるように、表面を取り繕うのはお手の物だ。
(今、令は何を考えてるんだろう。姫乃のことを考えていたら、嫌だな……。それとも、仕事のことを考えてるのかな。とにかく、なるべく刺激しないようにしよう)
優菜のその心の声に、令は自身が恐れられているのかと思った。だが、そんなことをした覚えはない。そう思っていた時に、優菜は心で焦ったようにこう呟く。
(早く、婚約をなかったことにしなくちゃ。今日の時点で、もう大分、姫乃が動き始めてることがわかったんだもの)
令は思わず考え込む。何故こんなにも婚約をなかったことにしたがっているのか。焦っているその理由もわからない。
(優菜、お前は何を隠しているんだ……。大体、婚約をなかったことにしたいというのは、どういうことだ)
優菜から婚約を白紙にしたいと思われているとは思わなかった令は、心の中で少なからず驚いていた。婚約に何かがあると令は目星をつけたが、細かな事情まではわからず、何とも言えないまま無言のドライブは続いた。
それに、令は優菜にこれでさようならと、易々と婚約をなかったことにさせるわけにはいかなかった。世間体というものもある。親同士の決めたこと、そう簡単になかったことにするわけにもいかない。事情を知っている職場の者達にも説明しなくてはならない。そんな面倒なこと、したくはなかった。
何より、自分の気持ちが何なのか。その正体を知るまではまだ婚約を白紙にさせるわけにはいかないのだ。
そして気づけば令は優菜の家の前で車を停め、優菜を玄関まで送りに行っていた。
「令さん、送ってくれて、ありがとうございました」
優菜は深々と頭を下げた。
「いや、いい。このくらい、婚約者として当たり前のことをしたまでだ。それと」
「……?」
「……あの時、ちゃんと助けてやれなくて悪かった」
あの時、というのは今日のことだろう。そう考えた優菜はにこりと微笑む。
「あの時の……。そんなこと、気にしないでください。令さんは悪くないじゃないですか」
(それより姫乃の手綱でも握っていてほしい。そっちの方が、助かるから。それに、助けられたのも、事実だもの……)
優菜のその心の声に、令は少し切なそうな表情を浮かべながらこう言う。
「とにかく、悪かった。手も、痛かっただろう。また今度、謝る機会が欲しい」
「えっ?」
(そんな、ありえない……。令が自分から謝ろうとするなんて。あのプライドの高さからして、絶対にないものだと、そう思っていた……。小説と、何かが違ってきたの……? 令は、もっと冷酷で、姫乃にどっぷり嵌っていたはずなのに)
「また、出直してくる。すまなかった。その手の傷、酷くならないといいな。じゃあ、また月曜日、会社で」
「え、ええ。また月曜日に」
予測の出来ない令の動きに、優菜はどうするべきかと悩みながら、家の鍵を開けて中に入った。
(どういうこと。そもそもなんであんなにタイミングよく私を助けに来てくれたのかもわからない。もしかして、姫乃に言われて? ううん。ありえない。だったら、姫乃はもっと残酷なことをしてくるはず……。令は、一体何者なの……。ただの婚約者じゃないの? この世界は、どうなってしまったの?)
優菜は自分が生き残れる世界かどうなのかさえわからずにいる。全てに疑心暗鬼になるしかない。そんな中で、心を搔き乱すようにしているのが令の存在。小説とは違う、優しさを「枢木優菜」に向けていた。
「わからない……。とりあえず、コーヒーでも飲もう」
習慣となっている帰宅してからのコーヒー。それを淹れて飲み、優菜は一日を終わらせる支度を始めたのだった。
昼間、カフェオレしか飲んでいなかったため、お腹が空いている優菜は、冷凍庫に入れておいた冷凍ピラフをレンジで温めて出し、そして同じように冷凍のブロッコリーをレンジで温めて食卓に用意して食べる。
思えば、幼い頃は実母を中心に楽しく食卓を囲んだものだった。
しかし、今はどうだろう。他に誰もいない広い家の中、一人でご飯を食べている。
「寂しい、なぁ……」
そう呟くも、誰もその声を聞いていない。
優菜は妙にしょっぱい味のピラフを食べて、お風呂に入り、寝る支度をした。
布団に入ると、窓から月の光が差し込み、明日もいい天気になりそうだとぼんやりした頭で思う。
「疲れた……」
そう呟いて少しすると、優菜は小さな寝息を立てて眠りに落ちたのだった。
その頃、令は車を運転していた。
海辺の近くを走り、窓を開けて車の重低音と波の音を聞きながら月夜に照らされる。ウィンカーを点けて、加速車線に入ると、アクセルを踏み込んでスピードを出していく。
(……枢木優菜、あいつは、何者なんだ。何で俺の心にこんなにも大きく存在している。いや、だが、姫乃の方がまだ大事だ……。まだ……)
姫乃と優菜を天秤に掛けると、やはり重いのは姫乃だった。優菜は二の次だ。だが、少しずつ変わりつつあることを、令も感じている。
だからこそ、戸惑い、迷ってしまう。
何を信じるべきか、あの優菜の声は何なのか。
……令はミラーを見てウィンカーを出し、本線に合流すると車の速度を落とした。
(何はともあれ、まだ手離してはいけない。優菜は、何かを知っている。姫乃のことにしても、優菜自身のことにしても、俺に何かを隠している。それを知るまでは、手の届く場所で泳がせなくては)
今までの色のなかった令の世界に、少しばかり彩が入っていくのを、令は感じていたのだった。