優菜が仕事をするために部署に戻ると、そこに姫乃がおろおろとしながら優菜の席に座らずに立って優菜の帰りを待っていた。
「優菜ちゃんっ!」
(……あ、懐かしい呼ばれ方。いつだっけ。姫乃が私のことをちゃん付けで呼んでいたの。あの頃は、もっと怖かったなぁ……。何されるかわからなかったから。それに姫乃を含んだ皆で、集団になって私を追い詰めている自覚もなかった遊びと称したあの行為の数々は、今も私を傷つける)
胸が締め付けられる思いだった。
だが姫乃はそんなこと知ったことではない。
「優菜ちゃん、ごめんね。ごめんね! 私のせいで、酷い目に遭ったんだってね……! さっき、本人達から話を聞いたの。彼女達もね、別に悪気があったわけじゃないのよ。それは、わかってくれるよね?」
そう言いながら、優菜を強く強く抱きしめる。
その腕の力は、かなり強いもので、優菜を苦しめた。
「は、い……。わかって、います。小鳥遊部長」
(怖い。怖い……! 姫乃が怖い! どうしてこんなに強く抱きしめるの! わかったから、離してよ! お願いだから関わらないで!)
優菜はそう思っていたが、姫乃はまだ言葉を笑顔で続ける。
「もちろん、私だって、ちゃんと彼女達を叱っておいたから、今後はもうこんなことしないと思う。彼女達も悪かったって、言ってたわ。だから、優菜ちゃん」
「はい……」
「許してあげられるよね? 大人だものね?」
上からの圧倒的な圧力を掛けられる。
「……」
優菜は頭を思い切り押さえられるかのような感覚があり、目を見開き、ただ何も言えずにいた。
しかし姫乃はそれを許さない。優菜が許すと言うまで、繰り返すつもりだ。
「ね?」
――どうなるか、わかっているよね。あなたが頷かないと、あなたが大切にしているもの、全部私が奪ってあげる。今すぐに。令も、職場も、親友と言っているあの子だって、何もかも。だってそうじゃない。あなたは私がのし上がるためのお人形。操り人形は、心を持っちゃいけないのよ。
そう姫乃は心の中で優菜に語り掛けていた。小説に出てきていたあの姫乃よりも、もっと人間らしい感情、生きた心でそう思っている。
強すぎるその念とも言える姫乃の気持ちに、優菜は瞼を閉じ、震える手をぎゅっと握りしめて、頷いた。
「はい」
そう言うと、周りから安堵のため息や「いやー、よかった。さすが小鳥遊部長」などという声が聞こえ、見世物にされたのだと優菜は理解すると悔しくて涙が出そうになった。でも、涙は流さないように歯を食いしばる。
最後に、笑える人生を送れればそれでいいから、と……。
それから姫乃は自分の部署に戻り、いつも通りの日が始まった。
特に何が起こるわけでもなく、課せられたノルマとの睨めっこ。
だが、少し違うのは、今回の件をそれなりに上の上司から少しだけちくりと嫌味を言われたこと。
「いやー、小鳥遊部長に憧れたりとか、嫉妬したりとか、そういうのもわからないでもないけど。君がこうしてここに居る時間にもお給料は発生しているんだよね。わかるね。もうこういうことを起こさないでくれ」
「で、でも。あれは私が席を外したくて席を外したんじゃ……」
「え? でも、小鳥遊部長からはそのように聞いてるけど」
「……!」
「違うの? 優菜君」
優菜は敵の根回しの速さを侮っていたと知った。
「公開処刑みたいになっちゃうから言うのも嫌だけどさぁ、わかるでしょう。それに、どっちが嘘ついてるのかなんて、本当のところ誰も聞いちゃいないんだよ」
「でも、課長……」
「それとも、私が嘘をついているとでも?」
いやらしく、課長は笑っていた。金と権力、欲に溺れた男だと噂だ。逆らったら何をされるのか、ある程度は予想が出来る。
だからこそ、優菜は逆らおうなどとは思えない。
「……いいえ」
そもそも優菜はただの平社員。令の婚約者という特別な存在ではあるものの、そんなものを気にしない役職のある課長に盾突いたところでどうにもならない。
相手は自分さえよければいいと思っている存在。だが、それだけに姫乃よりも扱いやすい。
「ま、仲良くやってくれよ。それに小鳥遊部長は皆に優しいし、厳しいところも持った本当に素晴らしい人なんだ。それは学生時代から付き合いのある君の方がわかっているだろう。そんな小鳥遊部長に噛みつこうなんて、意味のないことだよ」
そう。素晴らしい人。姫乃と出会った人は皆姫乃のことを褒めて、素晴らしいと言う。優菜がメインの話だったとしても、必ず姫乃がメインになる。
さらには優菜の家族である実の兄でさえも、優菜ではなく姫乃のことを聞くということがよくあり、未だに優菜が兄に会うと「姫乃は元気か」と、優菜ではなく姫乃優先で聞いてくるのだから参ってしまう。
どの人物も皆同じなのだと思うと、普通は悲しくなるだろう。しかし優菜は前世の記憶があり、この世界がどれだけ姫乃を優遇する世界なのかを知っている。
「……申し訳ございませんでした。もう二度と、このようなことが起きないように、気を付けます」
課長は優菜のその言葉を聞くと、手をひらひらとさせてもう行っていいと表していた。
結局、優菜はその日のお昼、社食などとても食べる気になれなくて、自動販売機で少し甘めの冷たいカフェオレを買って、それを飲んでお昼ということにしたのだった。
休み時間はいつも一人。姫乃はわざとらしく優菜の近くで皆で食事をし、楽しそうに話をする。その輪には、優菜を入れないと言わんばかりに優菜のことを徹底的に見ないでいる。最初から、優菜などずっと存在していないかのように扱うのだ。
それでも中には優菜を輪の中に入れようとしてくれる社員もいた。だが、姫乃がこう言うのだ。
「ああ、優菜さんは、ひとりがいいんだって。だから、誘わないであげて。毎回誘うと、嫌われちゃうから……」
まるで、優菜が優しい姫乃を嫌っているかのように、そんな印象をつけさせるのだった。
それを繰り返され、今では誘おうとしてくれる人はほぼいない。
令と食べるのでは、と中には思う新人達もいるが、令の仕事は時間通りにはいかない。だから優菜達と同じ時間に昼食を取るということはほとんどないのだ。それを知った人達は皆「優菜は一人が好きで姫乃のことを避ける変わり者」というレッテルを貼り付ける。
優菜はもう、飽き飽きしていた。
だが、他に仕事など出来る状態でもなければ、辞める勇気もない。
結局のところ与えられた環境にぬくぬくとしているしかないのだった。
そして午後の仕事は、課長の顔や姫乃の顔と言葉、そして午前中のあの出来事が頭を過っていつも以上に仕事が出来ず、辛い想いをした。
恐らく、明日も姫乃はまた謝りにやって来るだろう。いつもそうやって周りの同情や羨望の眼差しを自分のものにしてきたのだから。
優菜はそう思うと、ため息をついて勤務時間が終わるのを、静かに仕事をしながら待っていた。
やがてチャイムが鳴り、終業を知らせる。
帰ろうとした優菜だったが、そういえば帰りを令が送ってくれるのだったと思い出した。