第1話 夜代怠子 上

 暑い夏には部室のクーラーで涼むのが最高に気持ちいい。僕は怪事件捜査部の部室で、漫画を持ち込んで、甘々なコーヒー牛乳を片手に涼んでいた。



「カイ! ちょっと手伝ってほしいんだよ!」



 そんな僕の元にいつもながら騒々しい部長である無霊線香の元気な声が、部室内の静寂をぶち破った。



 僕はその声に反射的に顔をしかめたが、もう慣れっこだ。



 彼女が何か持ち込んでくるときは、ろくなことがない。だけど、どうせ断れないんだろうなと、諦め半分で椅子に座ったまま返事をした。



「またかよ、今度は何だ?」

「今度はね、ちょっと厄介なことなんだよ! ほら、先輩! 入って来ください!」



 センカがドアを開け放つと、ふらりと入ってきたのは、目の下にクマができてゾンビのようにのっそりとした動きをした脱力系先輩、夜代怠子やしろたいこ先輩だ。



 その瞳はぼんやりとしていて、覇気のない姿勢、そして制服が絶妙に着崩れている。シャツのボタンはひとつ、ふたつ外れていて、大きな胸の谷間が堂々と覗いているのが目に入った。



 ……エロッ……。



 その目の下のクマは、いつもやる気のない先輩でも珍しいほどに疲労している。とにかく、ぼんやりした先輩の雰囲気に反して、彼女の身体は、無駄に色っぽい。



 僕はそんな自分の考えに気づき、頭を軽く振った。いけない、こういう時に変なことを考えるのは不謹慎だろう。しかし、目の前に谷間を見せられると、そうもいかない。



「夜代先輩だよな……?」

「そう! 怠子先輩が困ってるんだよ。だから、カイに相談に乗ってほしいの」

「え? 俺に?」

「誰に相談しても、うまくいかないみたいでさ。もうカイしか頼れないんだよ」



 センカが僕に向けて無邪気な笑顔を浮かべる。困った時の相談相手として、なぜかいつも僕が選ばれる。けど、なんで俺? 怠子先輩の問題なんて、僕に解決できることなのか? ただセンカが連れてきたってことは、絶対に面倒くさいに決まっている。



「いやいや、俺、悩み相談なんて得意じゃないし……他に適任がいるんじゃないか?」

「ダメだよ! タイコ先輩、誰に言ってもまともに聞いてもらえないんだから、カイがやるしかないの!」

「いや、そんなこと言われても……」



 困惑している僕の横で、怠子先輩は相変わらずぼんやりしていた。その目はどこを見ているのか分からず、息を吐くたびにどこか疲れているようだった。



「おね……がい。カンド君、ハナシを聞いて」



 胸を寄せてあげながら上目遣いで這い寄ってくるのはやめてほしい。怖いようなエロいです。



「……わかりました。何の相談なんですか?」



 しばらくの沈黙の後、仕方なく聞いてみる。何が起きているのかさっぱりだが、とりあえず聞かないと始まらない。



「んー……」



 夜代先輩は呆然として、考えるそぶりを見せる。



「ストーカーされてるっぽいんだけど……誰にも見えないっていわれるの……」



 夜代先輩が口を開いたその瞬間、部屋の空気が一変した。だらりとした口調と、その脱力した態度からは想像もつかない言葉が飛び出してきた。



「……ストーカー?」

「うん……タブン、見られてる気がするんだけど……他の人は誰も見えないみたい……。私だけ見えるっていうか……」

「……で、ストーカーが見えるのは先輩だけ?」

「そうなの……あ、でも気のせいかもしれないし……」



 気のせいって。じゃあ、相談するなよと思わず口から出そうになったが、センカがすぐに口を挟んできた。



「でも、タイコ先輩、ずっと怖がっててね! 本当に変なことが起きてるみたいなんだよ! それにこの深いクマを見てよ。絶対に取り憑かれているんだよ!」

「いや、今は誰にも取り憑かれてないぞ」

「だけど! カイなら、なんとかしてくれるでしぃ?!」

「いや、なんとかって……俺、そういうの専門家じゃないんだけど……」

「いやいや、神社の息子なんだからさ! 霊的なこととか分かるでしょ?」



 神社の息子だからって、そんなに簡単に解決できるわけじゃないだろ。僕だって幽霊とかストーカーとかに関しては普通の人間と同じ感覚なんだ。



「それで、夜代先輩……どんな風にストーカーが見えるんですか?」

「んー……なんか、ね。カゲ、みたいなのが近づいてくる感じ……それで、いつも家の近くとか、学校の帰り道でね、背後に感じるんだよ。振り返ると誰もいないんだ」



 夜代先輩がぼんやりしたまま言葉をつむぐ。背筋が少しだけ冷たくなったのを感じた。影……それはただの気のせいか、何か本当に不吉なものか。



「そ、それってさ、ただの思い込みとかじゃないんですか? 疲れてたりとか……?」

「うーん、かもねぇ。でもさ、何かが私を見てるんだよねぇ。視線の圧みたいなやつ、すごく強いの……怖いんだよね」



 脱力ゾンビ系エチエチ先輩なのに、恐怖を感じてると聞いて逆にゾクッとした。こんなにぼんやりしてる人が怖がるくらいって、どんな圧を感じてるんだ?



 センカが頷きながら僕に念を押してくる。



「ほら! ね? だからカイ、助けてあげてよ!」

「待ってくれよ、俺にどうしろってんだよ……」



 正直、面倒だし、ストーカーが見えないなんて霊的な問題だったら余計厄介だ。だけど、このまま放っておくのも無理っぽいし……。



「ま、まあ……一応、見に行くだけなら……」

「やった! やっぱりカイって頼りになる!」



 センカが無邪気に喜び、夜代先輩は相変わらずぼんやりとしたままだった。相談する相手を変えればいいんじゃないかと思いつつ、結局は僕が巻き込まれるんだよな。



「先輩、そのストーカーって、どこでよく見かけるんですか?」

「んー……家の近くとか、あとは学校の裏門の方とか……なんか、急に近づいてくる感じなんだよねぇ……」

「近づいてくる?」

「うん……いつも私が振り返った瞬間、スッと消えるんだよね……なんか、ぬるっとした感じで」



 ぬるっと? ストーカーがぬるっと消える? もう訳が分からなくなってきた。霊なのか人間なのか、何なのかすら見当がつかない。だけど、気持ち悪いのは確かだ。



「……仕方ない、今度先輩の帰りにでも付き合いますよ」

「え? カイ、行くの?」

「行くしかないだろ……見えないストーカーって、何だよ……興味本位でちょっと確認してみたいだけだ」

「そうだよ! カイなら絶対解決できるから!」



 センカは笑顔でそう言うが、正直、全く解決する気がしない。幽霊なのか、ただの変質者なのか……どっちにしても面倒なことになりそうだ。



「それじゃ、タイコ先輩、またストーカーが出る場所で一緒に確認しましょう……」

「んー……ありがとね、祓戸くん。助かる、わ」



 夜代先輩はゆっくりとした口調でそう言い、再びぼんやりとした表情に戻る。だらけた態度は変わらないが、その裏で本当に怯えているのかもしれないと、僕は少



 しだけ不安になった。



 次に何が起きるのか、僕の中で一抹の不安がよぎりながら、ストーカー捜索が始まるのだった。