10、俺を三歳児だと思うがよい

 三歳の皇子は、母と戯れていた平和な空間に踏み込んで来た異物が許せないようだった。

 ぷっくりと頬を膨らませ、異物を睨みつけ、おれおれ毽子じぇんずを投げつけた。


「おれおれは、いあない」

「では俺がいただく」


 異物、皇帝は胸にぽふりと当たった毽子じぇんずが重力に引かれて床に落ちる前に、足先でとん、と蹴って上に飛ばした。毽子じぇんずは頭よりも高く飛び、天井付近で勢いを弱めて、再び落ちる。

 落ちてくるそれを今度は膝で受け止め、数回ぽおん、とおんと遊んでから、皇帝は手で毽子じぇんずを掴み、撫でてみせた。


「これなるは、取るにたらない物である。

 これを不要だと捨てるのは容易いが、こうして蹴ってみると高く飛びあがり、鮮やかな色味で目を楽しませる。

 地に落とさぬよう蹴り遊ぶのは政治にも似ていて、皇帝とはつまり生きている間これを蹴り続けて生かす仕事をしているのかもしれぬ」


 皇帝は含蓄がんちく深いことを言っていたが、三歳児には通じなかった。

 ただし、なんとなく相手が格好つけたんだな、程度には理解した様子で、三歳の陽奏ようそうは対抗するように立ち上がって両腕を広げた。


「ねー! ここ、ぼくのおへやだよ」


 ここはぼくのお城(なわばり)だぞ。そんな当たり前のことがわからないのか。

 あどけない表情は、大人に一歩も引く必要がないこと――自分が「特別偉い」存在であることを知っていた。


「待て。息子よ。思い上がっているぞ。お前は自分の房室へやだと思っているが、ここは俺の城である。ゆえに、お前のではない。偉ぶるな」


 皇帝、滄月そうげつは、理屈は正しいが三歳の皇子に言うには大人げないことを言い募った。


「そなたの父が偉いから、そなたは尊重されるのだ。そこを理解せよ。そなたの母は俺のだし、そなたの臣下も俺のである。どうだ、悲しいか。悔しいか。父は子供よりも偉い。この世で一番偉いのである……そなたは父の機嫌を損ねると、城から追い出されてお腹が空いたり凍えたりしてしまうぞ」

「かえれ」

「帰らぬ」


 三歳児と二十二歳児がにらみ合う中、華凛かりんは妹が死んだときの悪夢を思い出しながら侍女を呼び、茶と茶菓子を準備させた。

 悪夢には、華凛にとって有益な情報があった。


『主上は白檀びゃくだんの香りがお好みと聞きました。それなのに、お姉様はそれを知っていてわざと沈香じんこうを纏うのです。夫であり、皇帝である方に何のご不満があるのかしら』

 妹、瑶華ようかは、皇帝の好みを口にしていた。

『そなたは姉の趣味に難癖つけたいように思える』

 皇帝は、姉を悪く思わせようとする妹を見抜きつつ『やはり不満があるのだろうか』と気にしていた。


 それに……『妻と子に悪意を抱く者を許す夫はいない』とも言ったのだ。


(このお方は、妻と子の味方だと仰ったのですわね……?)


 夫が妻子を守ってくれるのは当然と言えば当然のことだが、なにせ夫は四年間交流のなかった相手で、冷たく恐ろしく感じられる絶対権力者の皇帝である。

 気に食わぬ、と言ってあっさりと――それこそ妹のように――斬られる恐れもある相手なのだ。


 そんな人物が自分たちの味方として立ち回ってくれるのは、心強くて頼もしい。あの夢が真実まことであれば、の話だが。

 ……悪夢が恐ろしくて、今朝は焚き染める香りを変えていた。

 会話をして様子を探ってみてはどうだろうか。


 華凛は勇気を出し、未知の夫の心を探るべく声を発した。


「主上……ご、ご多忙の中、おこ、おこ……」

「俺は怒ってないが」

「お越しくださり」

「ああ、うん」

「ありがとう、存じます」

「……うむ。そなた、楽にせよ。子に接するときと同じぐらい……そうだな。俺を三歳児だと思うがよい」


 華凛の発声が詰まりがちで話すのが遅いせいで、微妙な空気になっている。


「お母さまと、お話、めっ」

「お母様が俺と話したがっているのだ。そなたはせいぜい悔しがるがよい」


 夫と息子は、気を抜くとすぐに喧嘩を始める。どうして。


 困惑しつつ紫檀しだん太師椅子たいしいすを勧めると、夫、滄月は息子を抱え上げて椅子の上に置いてから、自分も隣の椅子に座った。

 その所作にはなかなか父親感が感じられる――息子は嫌そうだったが。


「い、妹が、大変失礼をいたしましたようで。孫家そんけの娘として、深くお詫び申し上げますわ」

「耳に入っていたか。妹の罪はそなたの罪ではない。一族の者に連座で罪を問うこともない。ここは子供も同席する和やかな茶席であるがゆえに、その話はしなくてもよい」


 滄月そうげつは優雅に茶杯を傾け、「このお茶はこれから訪ねてくる客人の出身地方が産地の茶であるな」と感心したように呟いた。そして、添えられていた茶菓子に目を留めた。茶菓子は、白く薄い餅の生地に黒い餡子で模様が描かれている。


「陰陽の模様がつけられている餅菓子とは、珍しいな」


 白黒の勾玉を組み合わせたような模様は、陰陽太極図と呼ばれる。

 最近、市井で流行っていると侍女が教えてくれたのだが、お気に召さなかっただろうか――華凛かりんはどきどきした。


「こ、こ、こう、こ……」

 言葉が上手く思いつかない。 

江湖こうこ?」

「い、いえ、いえ。こ、これは……」

「……うむ」

「こう…………」

「…………ふむ」

「……………………」

「…………………………」


 滄月そうげつは発言速度に慣れようとしている様子で辛抱強く言葉を待ってくれた。

 見守る侍女たちも、幼い息子も、なんとなく真剣な面持ちで会話を見守っている。


 華凛かりんが思うに、彼らはようやく、気づきつつあるのかもしれない。

 妃、華凛かりんが喋るのに常人の何倍も気力を使い、意思伝達に苦手意識を抱いていることに。


 「お妃さまは能ある鷹」という勘違いの凄まじい噂があるだけに、ぜひ真実に気付いてほしい――いや、真実は自らの口で伝えて、理解してもらう努力をしないといけない――華凛かりんはそんなことを考えながら、言葉の続きを紡いだ。


「これは、……『陰陽餅おんみょうもち』……ですの」


 やっと言えた。

 餅の名前を言うだけなのに、その瞬間、皇帝も我が子も侍女たちも安堵の息をつき、肩の力を抜いて緊張を解いた。


「そうか。これは『陰陽餅おんみょうもち』というのだな」


 滄月は天啓を得たような顔になり、「来月に訪ねてくる戦友が、実は華山かざんにて修験を積みし道士である。そなた、さては見抜いていたか」などと言っている。

 なんのことだろう、と華凛かりんは首を傾げた。


 華山とは、大陸の五大名山の一つである。

 道教の修行地として利用されていて、山上や山麓には多くの道観が存在するという。


「わ、わたくしは、存じませんでしたが」

「そなたは能を隠すのを好むと聞いている。みなまで言うな」

「わ、わ、わ、わたくしは……お話が……に、にが、にが」


 話すのが苦手なだけなのです、と言いかけた言葉を遮るようにして、滄月そうげつはふと華凛かりんに顔を寄せた。


「そなた……香りを変えたのか。俺好みである。とてもよい」


 ――香りひとつで、なんて嬉しそうに呟くの。


「俺の好みに染まって変わったようで、気分がいいな。なるほど、最初は反抗しておいて後から寄り添ってくる。これは恋愛の駆け引きというものか。実に巧みだ。我が妻は高手こうしゅ(上級者)であるな。悪い気がしないどころか、もっと駆け引きで楽しませてほしいと思ってしまう。世の中の夫婦はこのように遊びながら仲を深めていくのだな」


 声色に滲むのは、誤解のしようもない喜色だった。

 華凛かりんは頬を染めて袖に顔を隠しつつ、「この方は、夢の通りに白檀びゃくだんの香りを好まれるのね」と思った。香りを変えてよかった。

 ところで、駆け引きとは? そんな意図はないが。


「こらぁ~、おれおれ、お母さまに、ひっつくな」

「これは俺の妻である。瑞軒ずいけん。お前は常日頃、息子に何を教えているのか。物の道理を教えよ。父を敬えと言え」

「ずいけん、このぶれいなおれおれ、ちゅまみだしちよつまみだしてよ


 夫と子供はその後もわいわいと茶席で騒ぎ、瑞軒は「今はよろしいですが、宴会ではみっともない言い合いをなさらないでくださいませね」と言いながらおつまみを出して場を誤魔化していた。