第3話 最初の壁は魔導書の怪物・前編


「なるほど、なるほど。前世の姿での顕現など本来は不可能な筈ですが、我が主人様マイマスターの魂は、数多の世界線を渡り歩いた例外中の例外でした。これは私もそれなりに本気でお相手する必要がありそうだ」


 ダレンの雰囲気がガラリと変わった。前髪を掻き上げて髪の一房以外はオールバックになっただけなのに、威圧感が凄まじい。心臓が握り潰されそうなほどの圧迫感に、身体が震え──。


『あら、私は髪を下ろしているほうが好みだわ』

「!?」

「はい?」


 カノン様のたった一言に空気が緩む。キラキラした瞳で彼女は私に視線を向ける。なんでしょう、とても嫌な予感がします。


『それじゃあ、レイチェル。あんなの、やっちゃいなさい』

「わ、私ですか!?」

『他に誰が相手をするのよ?』

「……」


 あれだけ魔導書の怪物ダレンを煽って、丸投げって……。前世の私は無茶苦茶な人だわ。


「茶番はここまでだ」


 ダレンが指を鳴らした瞬間、周囲の空間が浸食して漆黒の泥が私たちを呑み込もうとする。


「きゃっ」

『大丈夫よ』


 カノン様の言葉通り泥は私たちを除けて、火花を散らす花火となって消えていった。その光景は幻想的なほど美しい。

 泥に囲まれていた空間が瞬きの間に、目映い光に照らされた歌劇場へと様変わりした。青い薔薇と天鵞絨の天幕が芸術的で思わず息を呑んだ。


「私の精神干渉、精神威圧を拒絶リジェクトしただけではなく、空間支配まで……いやこの空間内の支配権をも私から奪い返した……?」

『ふふん』

「(思った以上に高度な戦いをしているのでしょうか? 素人目にはさっぱりですが……)……ダレン、九回目はカノン様と貴方の力も今まで以上に借りて挑むわ」


 今まではやり直しの決意表明を行い、ダレンとの勝負に勝つことで死に戻りの対価を払っていた。死に戻りに消費するエネルギー量などのことはよくわからないけれど、この空間での勝負とやり直しの奮闘を鑑賞するのが怪物にとって欲するものらしい。


「今まではボードゲームを行って来ましたが、今回は求める要求に応じて難易度を上げようかと思います」

「そ、それは」

『まあ、当然よね』

「そうかもしれませんが……難易度がこれ以上だなんて……」

『大丈夫よ』

「(その自信はどこからくるのでしょう?)……今までは首の皮一枚でなんとかなったのですよ。それなのに……これ以上だったら……」


 怖気付く私を無視してダレンは歌劇場の中央に、円卓のテーブルと椅子を用意する。彼はササッと自分の席に座ってしまったので、私は向かい合わせになる形で椅子に腰掛けた。

 ボッ、ボッ、ボッ、と等間隔にある燭台の炎が明かりを灯す。一気に雰囲気がおどろおどろしい物に早変わりした。

 今までの賭とは明らかに違うわ。


「では、シンプルに。お互いに質問を出し答えていく。一問でも答えられなかったら負けとなります」

「一問でも……」

『オーケー、問題ないわ!』

「カノン様……」


 難攻不落、どこからでも掛かってきなさいと言わんばかりの威勢の良さ。どこからその自信があるのでしょう。……というより質問に答えるのって私ですよね? 

 それならあまりダレンを煽らないでほしいですわ。ダレンは腐っても魔導書の怪物。私のような人間など簡単に終わらせてしまう存在だというのをご存じないのでしょうか。


『さあ、勝負よ! レイチェル、初級試練チュートリアルをサクッと終わらせてしまいましょう!』

「初級とは言ってくれる」

「(ダレンの目が笑っていないわ。ここはもう覚悟を決めるしかない)……よろしくお願いしますわ」


 空間は歌劇場のまま、空も宵闇に綺羅星が輝く。ここが普通ではないのは理解しているし、魔導書の怪物の領域なはずなのに今の主導権はカノン様が握っているという不思議な状況。

 こんなこと今までなかった。

 そういえば今までダレンが席につくことはなかったわね。ボードゲームであっても自分たちで駒を進める形ではなく、庭園全体は遊戯盤となって駒が生きているように動く仕掛けだった。あれは対等と扱っていなかった?


「それでは《聖典31748年版初版本》に書かれた詩の一節を述べよ」

『せいてん?』

「(ああ、やっぱり……わからないですよね)……《神々の皆が祝福する中で、ある神だけは禍を与え、人に困難を乗り越える内なる魂の輝きを見出した》これでいかがですか?」

『すごいわ、今世の私!』

我が主人様マイマスターにしては、簡単すぎましたかね」


 私としては心臓バクバクだったのですが、ここまできたら虚勢を張って余裕の笑みを浮かべて応えた。次は私の番だわ。魔導書の怪物は叡智の結晶とも呼べる存在。そんな相手に下手な質問は──。


『《鬼に鉄棒》、《漁夫の利》、《目から鱗》、《鳶が鷹を産む》のいずれかのうち、正しい意味と使う用途を答えよ』

「え?」

「は?」


 カノン様!? なんでカノン様が質問をしているのですか!? しかも……意味がよくわからない単語ばかり……。オニ? 鉄棒は武器? 漁父? 目から鱗? 人魚族のことを指し示している? 鳶がどうして鷹を産むの? 魔物図鑑にもそんな変異種はなかったわ。

 ダレンは驚きつつも、どこか嬉しそうに目を輝かせていた。それは未知と遭遇した時の感動と衝撃かしら?


「ああ、なるほど。異世界の叡智……まさか数百年ぶりに、これほどの情報量が得られるとは!」


 ダレンがいつになく上機嫌だわ。あんな風に笑うのは珍しいわね。確か三回目の死に戻りだったかしら、闇オークションで回収した異世界の手帳を手にした時なんかは、思いの丈を熱唱していたわね。テノールのいい声で……。

 前々からダレンは役者っぽい仕草も多いので、今さら大熱唱をしてもあまり驚かないけれど。


「オニとは異世界の世界による強者、異形であり神であり悪魔の両方の側面を持つ超常者が、鉄棒という武器を手に取ることで、更なる力を増す。より一層の強さを得た時にいう言葉……と言ったところでしょうか」

『やっぱり簡単すぎたようね』

「いえいえ、先ほどの《あいどぅるぅ》を持ち出されてしまったら、私の負けでした。……様子見したことを後悔してくださいね」


 ダレンは手のひらサイズの黒い板をテーブルに置き、口角を上げて笑った。たったそれだけの仕草だったのに、空間の温度が一気に下がったような錯覚に陥る。

 彼の笑みはゾッとするほど美しく、これで勝負がついたと言わんばかりの不吉さを孕んでいた。