*20* 可愛らしいお客様

 ピチチ……


 無邪気な小鳥のさえずりが、朝の訪れを告げる。


「すごーい」


 ぱちりと目を覚まし、むくりと起き上がってから遅れてやってきた頭痛に、カッスカスの笑いをこぼした。


「爆睡ちゃんを、かましてしまいました」


 仮にも人様のお家で、なんとまぁ図太いこと。

 泣き疲れて寝ちゃうとか、そろそろ本気で20代女子について考え直す機会を設けたほうがいいかもしれない。


 鏡を見なくてもわかる。絶対目が腫れてる。

 オリーヴはいいとして、ヴィオさんやリアンさんにたった一晩で起きたこの劇的ビフォーアフターのわけを、なんて説明しよう。


「顔洗ったら、マシになるかな?」


 ひとつ幸いだったのは、決して朝に強くないあたしが今朝に限っては早起きをしたことだ。

 寝室はまだ薄暗く、夜も明けたばかりなんだろう。


 耳を澄ませても、物音らしいものは聞こえない。まだみんな眠っているのかも?

 よし、今のうちに洗面所を拝借して、このイカしたお顔をどうにかしよう。


「とりあえず着替え……んひょわぁっ!?」


 貸してもらった寝間着からベッドサイドに畳んであった私服へ着替えようとしたところで、事件は起きた。

 ブラウスへ手を伸ばした次の瞬間、指先にひやりとした何かがふれたのだ。

 気のせいかと思ったけれど、違った。そのひやりとした感触は、現在進行形で指先に残っているから。


「何? 何なの……!?」


 突然のことで意味がわからない。それなのに、何故だか唐突に思い出すことがあった。

 似たような出来事が、つい最近あったことを。

 あれはたしか昨日、あの森を出るときに──


 ぷにゅっ。


 完全なる不意討ちだった。

 回想の隙をつかれたあたしは、指先にふれた何とも形容し難い感触に一瞬の思考停止、そして。


「んぎゃああああっ!!」


 爽やかな朝の風景に、乙女らしからぬ絶叫を轟かせてしまったのだった。



  *  *  *



「失礼いたします、レディー、何事ですか!」


「なんか、ひやってして、ぷにゅってして……!」


 真っ先に寝室のドアを開け放ち駆け込んできたのは、ヴィオさんだった。

 半泣きで床にへたり込むあたしを目の当たりにし、すっとペリドットの瞳が細まる。

 そして、手にしていた愛用の片手剣をおもむろに掲げたヴィオさんは、チキリとわずかに鞘を鳴らした。


「一瞬だけ、息を止めてくださいますか」


「はえ……?」


「参ります。──はッ!」


 それは目にも止まらぬ、抜刀。

 目前の空間を薙いだだけ、それだけだったはずなのに、華奢な腕が巻き起こした風が緑色の光を帯び、シュンシュンと意思を持ったように頭上から吹き下ろした。


 とっさに目をつむる。

 だけど覚悟した衝撃はほとんどなくて、あれだけ猛烈な勢いで押し寄せた風があたしにふれたとたん、ふわりと霧散する。


「そこか」


 ヴィオさんの言葉で、はっと辺りを見回す。

 今、何が起きたの……? ってくらい何ともなかった。あたしは。


 ポンッ、ポンッ。


 ゴムボールの弾むような音が聞こえる。

 あたしの背後の壁に反射したそれは、足元で何回か弾んで、それから。


 ぺしゃり。


 水をまき散らしたような音がしたと思えば、何もなかった足元に、すぅ……と現れるものがあった。


「えっ? えっ??」


 その正体は、何だったのか。

 残念ながら『それ』を的確に言い当てる語彙が、あたしにはなかった。


「……ビィィ」


 強いて言うなら『それ』は、犬や猫のようにモフモフでかわいい動物──なんてものではなく、青みがかった透明の、ゼリー状の姿をしていた。

 そう、ゼリー状の。

 うそじゃない、ほんとだってば。


「セリ! すごい悲鳴が聞こえたけれど、どうし……あら」


「まぁヴィオ、可愛らしいお客様ね」


「リアン、おまえはまた、のんきなことを……」


 そうこうしているうちに、オリーヴやリアンさんもやってきた。これにて全員集合。

 みんなのやり取りから察するに、たぶんあたしだけが状況を理解していない。


「お部屋に忍び込んでいた者の正体は、このスライムです、レディー」


 ご丁寧にヴィオさんが説明してくれたけども、笹舟 星凛、22歳、OL。あいにくとそんなものが普通にいるような日常とは、よろしくやっていない。


「あ、そうですか、スライムでしたか……」


 そうとしか、返しようがなかった。



  *  *  *



 ファンタジー世界のスライムと来ると、あれが思い浮かぶ。

 そう、RPGの序盤とかによく見る、あれだ。


「スライムにしては、ひと回りちいさくないかしら?」


「赤ちゃんかもしれませんわ、お母様」


「スライムに赤ちゃんとかあんの?」


 素朴な疑問を抱きはしたものの、そもそもの話、この世界は有性生殖の理を根本からぶっ壊している。

 オスでもメスでも赤ちゃんでも、もう何でもいいや。


「やっぱ『嘆きの森』から、ついてきちゃったのかなぁ」


「えぇ、そう考えるのが妥当かと。あまり魔力も感じられませんから、気づきませんでした。私としたことが、うっかり、うっかり」


 こつん、とこぶしを頭に当て、茶目っ気たっぷりに舌を出すリアンさん。

 この人意外とこういうとこあるんだよね。美人だから許されるリアクションだ。


「元々危険性の少ないスライムです、そんなに怖がられなくても大丈夫ですよ、セリ様。ほら、こんなに可愛らしいお顔をしていますし」


「え、顔? って、おぉ……ほんとだ、顔がある」


 先に断っておくけど、人面的なあれではない。そんなホラーがあってはたまらない。


 よくよく床を覗き込んでみると、青みがかった透明のゼリー状の身体(?)の中にゴルフボールくらいの白い球体のようなものがあって、そこにはツヤツヤとした目がふたつ。

 某有名パズルゲームの○よ○よ的な、ああいう路線のデフォルメがかかった感じ。

 昨日見たブタコウモリは絶妙に気持ち悪かったので、目にやさしいモンスターではある。


「えーっと、スライムさん?」


「ビ、ビ、」


「あたしに何かご用ですか? なんつって」


「ビヨン!」


「え、マジ?」


 ぺちゃあ、と力なく床に飛び散っていたスライムが一変、あたしの呼びかけに、弾みをつけて飛び上がった。

 粘り気を取り戻したゼリー状のまあるい身体で、ぽむっ、ぽむっ、と軽快に近寄ってくる。


 あたしの足元まで来ると、ゆら、ゆらと何度か足踏み(?)をしてから、ころーんと転がって、ちょんと右の爪先にふれた。

 なんだそれ、お辞儀? からの握手みたいな?


「お利口さんだねぇ」


「ビヨーン」


「っはは、それ鳴き声なの? おもしろっ! ってかぷにぷに、めっちゃぷにぷに!」


 あんだけ騒いどいて、はじめて目にするこのスライムが今は何だかかわいく思えてしまう不思議。

 リアンさんの言う通りだ、かわいい。

 ぷにぷにボディを指でつついているうちに、楽しくなってきちゃった。


「あーなんだろ、このひやりとして、ぷにぷにした感触、何かに似てる……何だったっけ……」


「ビ、ビ、ビ、」


「えーと……あぁ、あれだ、あれ! わらび餅!」


「ぷっ!」


 思わず、といったように吹き出したのは、オリーヴだった。

 リアンさんは「ワラビモチ、ですか?」と首をかしげている。だよね、そうなるよね。


「あたしのいた世界で馴染みのある、お菓子のことです!」


「ちょっと待ってセリ、それ以上は……っふ」


「ただのわらび餅じゃないぜ、小豆のおめめをくっつけた白餡入り。ということで、君の名前はわらびだ! どやぁ」


「もう無理……んふっ、うふふっ、あはははっ!」


 ツボに入ったらしい。めちゃくちゃ爆笑しているオリーヴ。

 リアンさんにそっくりだな。いや、リアンさんがオリーヴに似たのか。

 なんて当たり前のことを考えていると、それまで黙ってなりゆきを見守っていたヴィオさんが、咳払いをした。


「失礼、ひとつよろしいですか? レディー」


「えっ、ダメですか? わらび餅」


「名づけてしまいますと、森へ帰しづらくなってしまいますよ」


「んん、たしかに……」


 やっぱり、むやみに捨てスライムを拾うのはダメなのかぁ……人懐っこくて、かわいいんだけどなぁ……


「ビッ!」


 人並みにある良心が痛み、しょんぼりしていると、ヴィオさんを見上げて目を三角にしたスライムがふいっと向きを変える。

 ぽむぽむ弾みながら、しゃがみ込んでいるあたしの爪先、膝、肘を経由して、右肩に飛び乗った。


「……どうやら、知能の高いスライムのようだ。敵と味方の区別がついている」


「まぁそう怖い顔をしないで、ね? ヴィオ」


「わかっている。私も無意味な闘いは好かない」


 眉間に指を当てていたヴィオさんも、ふぅ……と息を吐き出すだけで、この件に関してはおしまいにしてくれたみたい。

 せっかく懐いてくれてるんだし、無理やり追い払うのも可哀想だもんね。


「えーっと、朝っぱらから騒いじゃってごめんなさい。あたし、ヴィオさんに守ってもらってばっかだなぁ」


「騎士たるもの、当然のことをしたまでです」


「綺麗でした!」


「……な」


「あんなに綺麗でかっこよく闘う人がいるなんて、昨日からびっくりさせられまくりです。ありがとうございます、真っ先に助けに来てくれて! ヴィオさんがいてくれて、ほんとによかったです!」


 はぁ……とため息が聞こえて、天井を仰いだヴィオさんが手のひらで顔を覆っていた。

 あれっ、純粋な感謝の気持ちを伝えたつもりだけど、もっと気の利いた言葉のほうがよかったかな?


「ごめんなさい、子供っぽい感想で!」


「あなたらしい。そんなあなたが、私は──」


「はい?」


 何かを言いかけたヴィオさんだけど、そこで言葉を止め、手を離す。

 そうしてあたしを映したペリドットが、ふわりと、花のようにほころんだ。


「私も、何度も驚かされていますよ。あなたのそばにいるのは、こんなにも楽しいものなのかと」


「あれ、あたしそんなに愉快なやつかな……」


「褒め言葉です。どうかあなたは、あなたのままで」


 女性にしては長身なヴィオさんが、女子にしても小柄なあたしの目線まで屈んで、手を取って。


「お呼びください。何よりも誰よりも、私の名を。いつ何時、どこにいても、風よりも早くあなたのもとへ馳せ参じましょう──マイ・レディー」


 そっとふれるキスを、ひとつ。

 おとぎ話に出てくる、王子様みたいだった。


「ふぉお……!」


 すごい、ヴィオさんのイケメンオーラがまぶしすぎて語彙力なくなる、なにこれしゅごい。


「まぁ……あのヴィオが」


 とんでもねぇ社交辞令だと人知れず感動しているあたしだから、知るはずもなかったよね。

 リアンさんが、目を白黒させていたこと。

 そしてオリーヴが、まぶしそうにペリドットの瞳を細めていたことの意味なんて。


「──いーち、にーい、さーん……」


 ……あと、これは誓って、忘れてたわけじゃないんだけど。


「あぁ……いたいた」


 いやマジで、忘れるなんてばかなことがあるわけないんだけどね、あの。


「──かあさん、みぃつけた」


 かくれ鬼の、鬼さんが、やってきた。