7 その背に背負う物

 すっかり閑散としてしまった街を抜け、連れて来られた先は、鬱蒼と茂る森だった。

 その奥地。苔むした納屋の中、干し草の上でベルティーナ達は腕を麻縄で拘束されていた。

 そこは家畜独特な獣の匂いと酒の匂い……と、鼻の曲がる程の異臭が立ちこめる劣悪な場所。自分を臭いだとかなんだとか言っておいてこちらの方が最悪である。ベルティーナは一つ舌打ちを入れて、納屋につくなり麦酒で酒盛りをし始めた男達を睨み据えた。

「ごめんなさいベル様……」

 原因を作ってしまったロートスはさめざめと泣き、その隣でイーリスも顔を俯かせて肩を震わせていた。

「別に貴女達は何も悪くも無いわ。淑女に対する扱いがなっていない傲慢な男が悪いのよ。いったい何が望みか分からないけれど……」

 〝雌はよりどりみどり〟と言った時点できっと浅ましい事を考えているのだろうとは分かる。成人により近い自分はともかく、こんな幼さの残った少女達をそんな対象に……。そう思うと烈しい嫌悪が沸き立つもので、ベルティーナは汚物でも見るかのような視線で酒盛りをしている男達を睨み据えた。

 ……しかし、どうにか逃げる事が出来ないか。

 そうは思うが、後ろ手に拘束された麻縄はピクリとも動かない。ばつが悪そうにベルティーナが一つ舌打ちを入れた途端だった。イノシシ牙の男が、ギロリとベルティーナの方を見据え、麦酒を置いて立ち上がる。

「はーここまで来て、未だそんな顔をしていられる。人間様は脆弱と言うが、こうも気が強いのも居て面白いもんだな。気に入った。俺はこの姫君の相手をする」

 ──お前ら手を出すんじゃねぇぞ。と付け添えて。男はベルティーナに詰め寄った。

 ロートスとイーリスの悲鳴が耳に付く。しかし、たとえ穢れたとしても命が助かる為には従う他無いだろう。当然、嫌ではあるが……。そう思いつつ、ベルティーナが瞼を閉ざした途端だった。

 荒々しい音を上げて納屋のドアが開いたのだ。開いた……否や、蹴破られたと言った方が正しいだろうか。誰もが視線をそちらに移す。ベルティーナはそこにやってきた存在に驚き、目を丸く開いた。

 それは、赤髪の男装令嬢と黒髪の青年──リーヌとミランで……。

「何たる狼藉、離れろ下衆が!」

 叫ぶリーヌの声は烈しい怒気を含んでいた。リーヌはツカツカと納屋の中に入る。

「くそ、邪魔しやがって……来やがったな王城の蜥蜴共が!」

 男達は怒号を上げて、リーヌに拳を振り上げる。だが、リーヌはそれを交わしイノシシ牙の男の手下共を目にも止まらぬ早さで薙ぎ倒していった。

 果たして、か細い彼女にどこにそんな力があるのかも分からない。ベルティーナは唖然として目を丸く開く。

「ベル様、イーリス、ロートスご無事で?」

 彼女はジレの胸元からナイフを出し、ベルティーナの背面に回ると、後手に結ばれていた麻縄を断ち切った。

 しかし、あまりに急展開だ。どうして自分達の場所が分かったのだろう……。様々な思考が交差しベルティーナは混乱し言葉が出せなかった。

「もう大丈夫です」

 そう言って、リーヌが双子の猫侍女の頭を撫でると、二人は安堵したのかワンワンと声を出して泣き始めた。それをリーヌは大事そうに抱き留めながらも、ベルティーナにも優しい視線を送る。

「……城下の商人から通告があった。イーヴォ、あんたの愚鈍な悪行には多少は目を瞑ってきたが、今回ばかりは目は瞑れない。問答無用で決闘を申し込む」

 片や、ミランは真っ正面からイーヴォと呼ばれるイノシシ牙の男を睨み据えた。

 だが、イーヴォはそれさえ蔑み下劣な笑いを撒き散らした。

「構わん構わん。それで下々の俺が勝てば、王座は俺のものか?」

「ああ、それが決まりだからな」

 その言葉の後だった。突然にミランは右手の薬指に嵌めた指輪を外したのである。

「……悪いベル。ちょっとこれ持ってろ」

 顎をそびやかしたままのミランはベルティーナに指輪を渡すと「表に出ろ」とイーヴォに告げた。

 彼の声色はとてつもなく、冷たいものだった。

 いつだかも思った。彼は非常に示唆する事に慣れているような面を見せる。だが、こういった部分を見るとやはり権力者であるのだと思う。しかし……決闘とは。

 ベルティーナは彼の指輪を握ったまま。納屋を出て行くミランの背中を唖然と見つめた。

「どういう……事なの」

 そもそも何故にこの指輪を預けたのかも分からない。ベルティーナは自分の掌の中の指輪を一瞥した後に、リーヌに蹴破られた扉の先を見据えた。

「……翳りの国、ナハトベルグの規則です。どんな悶着であったとしても、決闘によって全てを決めます。強き者に従う。それこそが魔性の者に定められた掟です」

 リーヌは淡々と説明するが、ベルティーナは理解が追いつかなかった。

 相手はミランよりも背丈の高い大男だ。体躯だって、巨大なもので……どう見たって勝ち目は無いと憶測は容易い。

「ちょっと待って……それじゃあ」

 それに、暴漢相手に王座をかけているだのおかしいだろう。ベルティーナは青ざめながらも立ち上がった途端だった。まるでこの世の者とは思えない咆哮が二つ外から劈いたのである。

 慌てて、外に出ようとするが、リーヌはすぐに腕を掴み、それを遮った。

「ベル様、危険ですよ。ミランに渡された指輪は、彼の魔力を抑制しているものです。ミランはこういった輩を何度も相手にしています。ですが、こんなに怒ってるミランは初めて見ましたね……まぁ抑制器ナシでも野豚ごときの小悪党に負けやしないでしょうが」

「……抑制?」

 ベルティーナは渡された指輪を見ながら復唱して、リーヌに視線を向ける。

「はい。僕もミランとお揃いのものをしてますけど……」

 リーヌは右手をスッと差し出して、指輪を見せて苦笑いを浮かべる。

「僕らって、こう見えて結構な馬鹿力なんですよ。まぁ種族柄です。これが無いと日常生活に支障も来す程で。抑制を外したくらいなんです。それにベル様、ミランを誰だと思ってるのですか?」

 聞かれるが、分かりやしなかった。ベルティーナは眉をひそめると、リーヌはやんわりと笑んだ。

「……ミランは王子ではありますが、国の護衛達を統べる長。ナハトベルグの均衡を守る翳の番人です。僕は彼の身の回りの世話をする近侍きんじですけど。同時に侍従じじゆうでもあります。彼の仕事は小悪党なんぞと背負ってるものと大きさが格段に違いますから」

 リーヌはハッキリと告げるが、しかし、そう言われてもなかなかピンとは来ない。

 だが、以前ハンナが魔に墜ちた時に”彼は強い、信じろ”と言った言葉をベルティーナは直ぐに思い出し、少しだけ納得した。

 ……確かに、守るものの規模が大き過ぎるだろう。だからこそ強い、それだって納得出来る。

 そんな事を考えていたと同時だった。外から断末魔の如く、酷い叫びが響いたのである。ベルティーナはその悲鳴に驚き、リーヌの手を振り切って納屋の外に駆けだした。だが、出たと当時に目にした光景に絶句した。

 茶色の毛で覆われた巨大なイノシシ。それの首を噛む生き物はイノシシよりも少しばかり小柄な不思議な生き物だった。

 ──黒曜石のような蒼黒い鱗に覆われた生き物は蜥蜴や爬虫類を連想させる。だが、その腕からブレードのように突き出た立派な翼を持っており……。ミランの側頭部にあるものと同じ、立派な巻き角を持っていた。

「竜……?」

 特徴を見る限りそうだろう。

 神話や冒険に纏わる本の中で何度も見てきたものだが、それが実在するだなんて思いもしなかった。

 獰猛で狡猾そうな碧翠の瞳にしなやかな黒の肢体──ベルティーナは彼本来の怪しくも美しい姿に呆気に取られてしまった。

「ベル様、魔性の者が本来の姿になっている時に近付くのは危険ですよ。まぁ、もう決着は付いたみたいですけど……」

 後ろからイーリスとロートスの二人を抱えてやってきたリーヌは溜息交じりに言う。

 馬鹿力……そんな風に彼女は先程言ったものだが、目の当たりにして事実なのだろうとその時ベルティーナは思ってしまった。

「さて、僕らは一足先に城に帰りましょう? ミランも多分あの野豚と話しを付けたら戻ってくるかと思います」

 そう言うなり、双子の猫侍女を抱えたリーヌは遠くに見える城に向かって足早に歩み始めた。


 その後、ベルティーナ達は徒歩で城まで帰った。

 流石に今日はあまりに疲れたもので、城で待っていたハンナに髪を洗うのを手伝って貰い湯浴みを済ませた時には、もうすっかり空が明るくなっており、窓の外からは燦々とした明るい日差しが溢れ落ちていた。

 ────長い一日だったわ。

 溜息を一つ吐き出したベルティーナはそれまでを思い起こす。

 結局イーヴォというイノシシ牙の男への処遇はどうなったかは不明だった。決闘勝者であるミランが決め、イーヴォはそれに従うだろうとの事だが、謎に包まれている。

 尚、この騒動の引き金となってしまったロートスにおいては、お咎め無しにするよう、ベルティーナはリーヌに言った。

 確かに彼女の不注意ではあっただろうが、しっかりと詫びたロートスには微塵も非が無かったのだから……。

 ベッドの縁に腰掛けて、ミランから渡されたままの指輪を呆然と見つめつつベルティーナはまた一つ深い溜息を吐き出した。

 あまりに力強すぎる竜族。魔力抑制の為の指輪らしい事から、自分の勘違いと思える節はある。しかし、それでもリーヌが〝お揃い〟だと言った時点で、彼らの関係性は未だ不透明のままだ。

 指輪を見つめたまま、ベルティーナがほぅと一つ溜息をついた矢先だった。

 部屋の奥からカサリと物音がした。思わず振り向くと、ミランがベールをくぐって部屋に入ってきたのである。

 彼の姿は、寝間着らしき軽装で未だ髪が僅かに濡れている様から湯浴みを終えたばかりだと思しい。

「悪るい。寝る前だったか。そういやベルに指輪預けたままだと思って……」

 いつも通りの淡々とした口調で言ってミランは、ベルティーナの前まで歩み寄る。

「その……助けてくれてありがとう」

 率直に礼を言いつつ指輪を手渡すと「当たり前だ」と笑んだ彼はベルティーナの隣に腰掛けると彼女の髪を撫でた。

 思えば触れられるなど始めてだろう。

 驚いて背を震わせると、彼は少しばかり居心地悪そうにベルティーナの方を一瞥した。

「ねぇ……今更だけど、一つだけ聞いて良くて?」

 突然話しを振られた事に驚いたのだろうか。今度は、ミランが背を震わせ、やや緊張した面持ちで「何だ」と答えた。

 あのイノシシ牙の男、イーヴォに言われた事がどうにも胸に引っかかっていた。

「私って、そんなに……臭いのかしら……」

 途切れ途切れにベルティーナが訊くと、ミランは黙りこくってしまった。

「あの、そこは素直に言って頂戴」

 きっぱりと言えば、彼は少しだけ渋ったような表情を見せた。

「あ……あぁ。まぁ結構……」

 それだけ言うと、彼は口元を押さえて俯いてしまった。

 全くもって無自覚ではあるが、それ程までに臭いのか……。もはや致命的じゃないか。そう思えて、ベルティーナは落胆して肩を落とした。

「……ねぇ。この際だからもう、はっきりと訊くけれど。貴方、リーヌが本当の恋人よね?」

 触れてはいけないような事だと思う。しかし、それを躊躇いも無くベルティーナが言えば彼はたちまち鳩が豆鉄砲でも食らったかのような面持ちを浮かべた。

 ……かと思えば、直ぐに唇を拉げたのである。

 恐らく、それだけで図星なのだろうとは思った。しかし……。

「……はぁ?」

 予想だにしない彼の反応にベルティーナはパチパチと目をしばたたく。

「……だってお揃いの指輪じゃない。それに同種族でしょう。とても仲が睦まじくてお似合いに思えるわ。私、自分で臭いなんて分からないけれど、その臭いが嫌だというなら、婚約は破棄にしたって……構わないわ。だけど条件があって……ハンナだけは」

 どうか彼女だけはこの城に留まり仕事をさせてあげてほしいと言うや否や、ミランはこめかみを揉んで眉根を寄せた。

「ちょっと待て、ベル。何か、ものすげぇ勘違いしてないか」

「勘違いって何がよ?」

 ──お揃いの指輪までして、どこからどう見たって、素敵な恋人同士にしか見えないわよ。と、続け様に思ったままを言うと、彼は眉間に寄せた皺を更に深めた。

「あ、あのさ。あいつ、ああ見えて雄だぞ……」

 唇を拉げたままミランは言う。しかし、その言葉にベルティーナの思考は停止した。

「……はい?」

 もはや、疑問符を浮かべた言葉しか出てきもしなかった。ベルティーナが何度も瞬きすれば、ミランは乾いた笑いを溢す。

「あいつの本名はヴァルナリーヌ。ヴァルナって顔してないから子供の頃からそう呼んでるけど……まぁ確かに雌みたいな顔だし背は低いし未だに声は高いし。それでも、俺は同性をそういう対象には見てねぇけど」

 ……匂い嗅ぎゃ男だって分かるだろ? なんて、続け様に言われるが、ベルティーナは直ぐにブンブンと首を横に振った。

「分かる筈がないじゃない! じゃあ……どうして貴方は怪我の処置の時、リーヌを引き合いに出して私を拒むような事を言ったのよ!」

 衝撃の事実に頭も追いつかないが、ならば今までの拒みは何だのかと思う。

 初めてリーヌに会った時だってそうだ。かしずくリーヌに「それをやるな」と悲しそうな顔をした事もあるだろう。それにあの時、リーヌだって複雑な顔をしていた。だが、掘り起こせばその他にいくらでも疑惑は沢山沸いて出てくる。土石流の如く次から次へと、止まる事無く言えばミランはやれやれと首を横に振った。

「ベルの所為にするのは良くないけど……ベルって、いつも本当に凄い良い臭いがするんだ。だから俺も妙に気恥ずかしくなってそっけなくしか話せないんだ……。それにな、抑制の指輪をしてるとは言っても抑えられるのは魔力だけ。本能的な部分は抑制されない。つまりは」

 ……負傷した時は生殖本能が異常な程に高まるから。と、気まずそうにミランは溢した。

 しかし、この言葉で何もかも完全に自分の勘違いだと思い知ったのである。

 臭い……つまり、単純に臭いという訳ではなく、雄の本能を触発されるものだったと分かりベルティーナはたちまち頬を赤らめた。

 しかし、ああも臭いと言われたらそうとしか考える事が出来なかったもので……。ましてや、ミランがそっけなかったのもその所為だったのだと知り、ベルティーナはなんとも言えない気持ちに追いやられた。

「そのさ。人間の世界じゃ一般的に、婚前にしたら汚らわしいってされるだろ? 感性が違う事くらい俺も勉強しちゃいるから知ってるんだ。だから、そこだけはベルに合わせて守りたい思ってるだけで……。俺、ベルに嫌われたくねーし」

「そう、なのね……」

 もはや何と答えてよいかも分からない。ベルティーナは呆然としたままミランを射貫くが……彼は途端に頬を赤々と染め、唇をまごまごと動かした。

「……だ、だからそんな顔でジッと見るな! その、これだけはずっと言いたかったんだがな、雄と雌が二人きりの時に相手をジッと見つめるのって……俺達は求愛って認識なんだよ。臭いもそうだが、この前のハンナの件の時もリーヌだって頭クラクラしたって言ってたぞ……。この辺りは人間と認識が違うのは分かっちゃいるけど……」

 ──勘違いしそうになる。何だか、嬉しくなるからダメだ……。なんて、ばつが悪そうに付け添えて、ミランは顔を真っ赤に染めて額を押さえた。

 何から何まで自分の勘違い。それを悟るが、色々と複雑な事情や彼らなりの風習等も絡み合っていたなんて知るよしも無く……。ベルティーナも額を押さえて吐息を溢した。

「そう。貴方に特別嫌われていないと分かっただけ少しだけ安心はしたわ……」

 思ったままを告げれば、ミランは黙ったまま頷く。しかし、その途端。またも、胸の紋様が酷く熱くなりベルティーナは唇を拉げた。

「──熱っ!」

「おい。大丈夫か……」

 直ぐにミランに心配そうに聞かれてベルティーナは頷いた。

 やはり熱さはほんの一瞬だ。しかし、これは自分が”何かまた満たされた”のだと思い知るもので、妙に羞恥を覚えてしまう。

「多分、ほんの少しだけ私が魔性の者にまた近付いただけよ……」

「それって……」

 何か満たされたのか。と、彼が言いたいのだと分かり、羞恥が駆け巡る。ベルティーナは慌てて首を横に振るい、ミランから顔を背けた。

「野暮な事を聞かないで頂戴……特別嫌われていたり、私が邪魔者でないって分かっただけ、ほんの少し……ほんの少しだけ安心したのよ」

 取り乱さぬように毅然と言うが、それでも早口だった。その様が面白かったのだろうか。ミランは、ククと喉を鳴らした後にゆったりと唇を開く。

「なぁ……ベルがナハトベルグに来た翌日、俺が城周辺の案内をするだとか言って、途中で帰ったのって多分リーヌ絡みの誤解だろ。だから……その、今度はちゃんと二人で出かけたい」

 ……今度は一緒に居てくれるって約束してくれるか。なんて、居心地悪そうに言ってミランはそっとベルティーナに小指を差し出した。

「いいわ。こちらこそ勝手な誤解をしてごめんなさい……」

 彼の小指に自分の小指を絡めて、ベルティーナは真っ赤に染まった頬を悟られないように俯いた。