「武術には様々な流派があります。わたしの流派では、武術とは『体の仕組み』と『力の性質』を知り、それを制御することであると考えます」
「『体の仕組み』と『力の性質』……」
「武術の流派によっては、同じような考え方を『気』とか『
「『気』と『勁』……」
ステファノは新しい概念を必死に取り込もうとしていた。自分の世界には存在しない概念が、この世にはあるのだと改めて認識させられていた。
「特別なことではありません。先程のやり取りではパンチの起点の1つである肩を押えました。あそこを止められると、二の腕から先を突き出すことができません」
「それが体の仕組みですか?」
「その一例です」
パンチというと拳のことだけを考えがちだが、そうではないとマルチェルはいう。
「拳は投げられた石と同じです。一連の動作の結果に過ぎない。体全体を使って拳に力を伝えることが、パンチを出すということなのです」
「動作の結果……。つまり、『起こり』とは?」
「そう、
右足を後ろに蹴り出し、左足を前に踏み出す。腰を捻り、背中を捻り、前進力と捻転力を
そして肘を伸ばすことによって打ち出された拳に、全身で作り出された力を載せる……。
「それがパンチにおける『体の使い方』です。わたしはその中継点の1つである肩の動きを止めました」
すると、どうなるか?
「二の腕から先に伝えようとした力は、行き場を無くして流れを変えるのです」
肩は止められている。自由になるのは左半身と、下半身であった。
「右腕の代わりに左肩が前に飛び出し、前進力を生み出している下半身が
「それで自分から吹き飛んだと」
正確に言えば「後ろに飛んだ」訳ではない。右肩を残して、そこから下が
「よろけるくらいだろうと思っていたら、お前の足腰が思いの外強くて宙に浮く結果になってしまいました」
その後は、マルチェルが
「そこが不思議なんです。俺の目にはマルチェルさんの動きが見えませんでした。どうしてそんな速さで動けるんですか?」
「『
「早さですか?」
「そうです。わたしの「
右足の蹴り出し。踏み出そうとする左足の緊張。その始動の瞬間を感じ取る。
マルチェルは左手を残したまま、右足を踏み込み、右手でステファノの肩を押さえた。
力を籠めない自然体の動きは「パンチを繰り出す」動きよりも早く始動できるのだ。
「お前が動き出そうとした瞬間にわたしはお前の右肩を止めました。お前は体の制御を失い、わたしに対する意識の焦点も失ったのです」
左手から視線が逸れると同時に、マルチェルに向けた意識そのものが対象を失ってしまった。
マルチェルの動きが見えなかったのではない。
「今回のはただの
「恐れ入りました」
ステファノは心底驚嘆していた。
子ども扱いどころではない。動かせてもらえなかった。
「これが『鉄壁』……」
「わたしはこれと同じことを、相手が剣でも、槍でも、矢であっても行うことができます」
「素手で戦うのですか?」
「徒手空拳が最も
武器を振るうためには、足腰を動かし、背中を捻り、肩から腕を振り出す必要がある。
どんな名人でも、技の「起こり」に時間を費やすことになる。
「そして、武器の重さは『速さ』を邪魔します」
剣の先端は速い。目にも留まらぬ速度で振り抜かれるが、速度が乗るまでには時間を必要とする。
武器という「質量」に働く加速度は時間を費やさねば「速度」に変わることができない。
「武術の世界では武器も体の一部と考えます。腕の先に鉄の塊をつけた相手に、素手のパンチで負けるはずはないでしょう」