「これで足りるよな? どうもありがとさんよ」
馬車の御者にお代を渡したエックさんは地面に降り立ち背伸びをしました。
代金を受け取ると、馬車は来た道を引き返していきます。
てっきりここで待って貰うのだろうと思っていました。
「帰りはどうするおつもりなのですか?」
「あ? 今日はこのお宅に泊まらせてもらう予定なんだ」
私はエックさんの言葉を聞きながら、目の前の御屋敷を見上げました。
私のような子どもが足を踏み入れることのない場所です。
いつも閉じた門の前を走って通り過ぎるばかりなのです。
この家の家主であるクロッチさんは10年ほど前に引っ越して来ました。
パパやママから聞いた話では、クロッチさんは元々軍人さんだったそうです。
だからお金は持っていたのでしょう。
この町一番の御屋敷を建てられました。
広々したお庭には一年中何かしらのお花が咲いています。
御屋敷に面した道路からは家の中の様子なんか伺えません。
一体私の家とはどのように作りが異なっているのか気になります。
「あのう……お荷物運びますよ」
家の中を見てみたい。
そんな欲望がうずうずと湧いてきてしまった私は名案を思いついたのです。
エックさんが地面に置いた旅行鞄です。
私は返事を聞かずに両手で鞄を持ってしまいました。
「なるほど、庶民の好奇心か。一目見るくらい構わないんじゃないか」
「うっ……えへっ、そんなことないですよ」
私の企みを見抜いたエックさんでしたが、気にすることなくクロッチ邸の敷地に入って行きました。
私も荷物を抱えて後をついていきます。
手入れされたお庭が私たちを迎えてくれました。
「なあウータ、クロッチ卿のこの町での評判はどんなもんなんだ?」
初めて名前を呼ばれ、エックさんの後ろを歩いていた私はついにやついてしまいました。
「えへへ、えっとそうですね。あまりお見かけする機会なんてないですけど……ボルガンさんとご夫人さんは良好な関係なんだと思います。二人揃って馬車でお出かけするのを頻繁に目撃しますね」
「そう。父親とかは? 何かこの家について悪い噂を聞いてないか?」
「むうっ! パパは陰口を言うような人ではありません」
「そんな人間いるかねえ」
「います!」
私たちは言い合いをしながら玄関へと着きました。
重厚な扉が客人に威厳を見せつけるようです。
エックさんがかけられてある呼び鈴を叩き鳴らしました。
使用人が出迎えるのを待ちます。
しかし1分ほど待っても扉は開きません。
「誰もいらっしゃらないようですね。どこかへお出かけされているのではないですか?」
「そんなはずねえだろ。もう一回鳴らすか。たくっ使用人は耳が遠いんだな」
エックさんはさらに強く叩き鳴らしました。
それでも誰も来ません。
エックさんの体が激しく揺れ始めました。
彼は短期な性格なのでしょう。
出会ってからのこの短時間で私はそのことに気づきました。
私はクロッチさんたちは不在なんだと考えています。
エックさんはどうやらお客様のご様子。
私の家でクロッチさん方がご帰宅するまで、エックさんをおもてなしするべきだと考えました。
そうすればエックさんの私への印象も、クロッチさんからも感謝され一石二鳥というやつです。
「あのエックさん……」
「おい! 誰だ!」
私が名案を提案するのと、エックさんが叫んだのは同時でした。
「きゃっ!? ど、どうしたんですか?」
エックさんは玄関の扉を睨んでいます。
その形相は獣のように思えました。
私は旅行鞄をぎゅっと強く持ち直しました。
そっと彼の顔を横から見上げます。
「すぐそこに誰かいる」
私の顔を見ずにエックさんは言いました。
扉を凝視していて、まるで玄関の中が見えているようです。
「よ、よく分かりますね……」
「人の気配のは敏感なんだ」
エックさんの声に緊張感が混ざっているようでした。
私はじとっと扉を見ましたが、中に人がいるのかさっぱり分かりません。
もし本当に玄関にどなたかいらっしゃるのなら、何故開けてくれないのでしょう。
鍵を開けたくても出来ないのではないでしょうか。
そう、例えば病で倒れていらっしゃるとか。
だとすれば助けなくてはいけません。
私はドアを開けようと手を伸ばしました。
「待て。俺がやる」
「あっ」
私の手をエックさんが制しました。
男の方に手が触れてしまい、私は一瞬だけドキッとしてしまいます。
私は一歩下がり、エックさんが扉を確認しました。
「開いてる……な」
そう呟きエックさんは扉に体を張り付かせ、耳を澄ませました。
静かにしろ、というジェスチャーを指で見せてきました。
私は声を出さないよう両手でお口を塞ぎます。
数秒が何分にも感じられました。
息をすっと吸ったエックさんが一気に扉を開けました。
彼はすぐに家の中へ滑り込みました。
私も病人を助けないと、という使命感があり体が動きました。
締まりかけていた扉に体を滑らせて玄関の中にお邪魔しました。
「ひっ!?」
飛び込んできた光景を見て私は小さな悲鳴を漏らしました。
「おい、あんた……大丈夫か? どういうことだこれは?」
エックさんは壁にもたれて座り込んでいた男性に話しかけていました。
この光景を見た感想を聞きたい、私はそう思いました。
私の目が勝手に動き、玄関から先を見ないようにしています。
「お、おじさん……どうしたのですか?」
声を出すことがこんなにも大変な行為なんだと初めて思い知りました。
何でも良いから飲み物が飲みたいです。
「こいつは知り合いか?」
「は、はい……私の友人……のお父様です」
「そう。……しばらく使いもんにならないぞ」
優しそうな丸顔に目印の赤茶色の口ひげ。
座り込んでいた男性は、私の友人エーニャのお父上です。
おじさんは私たちのことなんて見ずに宙をただただ見つめています。
私は無理やりおじさんの前に立ちました。
おじさんの目の焦点がようやく私にあった気がしました。
「おじさん? ウータです……何があったのですか?」
「う、ウーちゃん……」
「はい」
「わ、私じゃない! 私じゃないんだ!」
「きゃっ!?」
「おいおい、落ち着け」
暴れ出しそうになったおじさんをエックさんが抑えてくれました。
私はこの空間全てが怖くなってしまい、エックさんのスーツの裾をぎゅっと握ってしまいました。
「エックさん……あ、あれって……」
それに背を向けて私は声を出しました。
一瞬しか見ていませんが、それは人だったと思います。
お人形には見えませんでした。
床が赤くなっていました。
「残念だが死んでるな。あの人、夫人だろ?」
エックさんの声は私の体の中に自然と溶け込んでいきました。
口調は冷たいのに、声は温かくて不思議です。
「あぁ。そんな……」
玄関の先、二階へ続く階段の下に死体がありました。
この御屋敷に住むクロッチ夫人の死体でした。