「…………だれ?」
重怠い身体を起こそうとすると、黒髪の青年が私の肩を支えてくれる。身体を起こすと、彼はすぐに肩を支えていた手を離した。
「ああ、そうだな。まずは名乗ろうか。私の名はノア・ヴィンセント。ティフィア帝国騎士団に属している。そして、こちらは……」
ノアと名乗った青年の後ろから、もう一人青年がひょこりと顔を出した。
二重で丸い形をした垂れ目に緋色の瞳。口角が上がった優しそうな口元に、頬がふっくらとした甘い顔立ちだ。ブロンドの髪を緩く一つに束ねており、髪を下ろせば肩口ほどの長さになるだろうか。肩幅はあまり広くなく、女性のようにほっそりとした身体つきをしている。
ノアとは全く対称的な、柔らかい雰囲気の美形だ。羽織っている白い上着の首元や袖口には細かな金色の刺繍が施されており、いかにも高貴そうに見える。
彼は自身の胸元に手を当て、私に微笑みかける。
「はじめまして。僕はノアと同じく帝国騎士団の所属で、団長を務めさせて頂いております、ルージュ・ローズフェリアです」
「帝国……騎士団? あの……、此処は一体何処なのですか?」
(どうしてそのような高貴なお方が私の前に?)
ベッドの上から話すのは気が引けて、咄嗟にベッドから下りようとしたが、それをルージュと名乗った青年に制される。彼は柔らかい笑みを浮かべた。騎士団といえば厳正で殺伐としたイメージがあるが、彼はそのイメージにそぐわない。むしろ正反対だった。そんな彼が騎士団のトップであると名乗ったのだから、内心戸惑いを隠せない。
「驚かせてしまい申し訳ありません。まだ体調が万全ではないでしょう? そのまま楽になさっていて下さい。
まずはこちらが貴女の質問に答えましょう。此処はヴィンセント伯爵邸。現ヴィンセント伯爵家当主であるノアの屋敷です」
私はますます困惑する。
「……何故私はヴィンセント卿のお屋敷に?」
「それはノアから説明致しましょう」
ルージュはノアに目配せをする。私はノアと呼ばれる青年をじっと見つめ、続きを促した。ルージュと視線を一度交えた彼は感情が抜け落ち冷えきった目を私に向ける。どことなく重圧を感じ、自然と背筋が伸びる。
「病上がりの身体で長々とした話を聞かされるのも酷だろう。昨夜の出来事について、出来る限り簡潔な説明になるよう努めよう」
ノアは淡々と事の経緯を話していく。簡潔な説明に努めるといった言葉通り、彼の話は非常に明快に纏まっており、一切の無駄がなかった。説明に必要な所だけを適度に掘り下げ、経緯の全体を浅くなぞっていく。私は時折頷きながら、黙って彼の話を聞いていた。
話し終えた彼は、
「不明な点があれば答えよう」
「いいえ、ありません。分かりやすい説明をありがとうございます。そして、私を助けて頂きありがとうございます」
私は座ったまま二人に礼をした。
「目を覚ましてくれて本当に良かった。……では、今度は私から貴女に幾つか聞きたいことがあるのだが」
彼の話が終われば、次は自分が彼らに事情を説明せねばならないことは察していた。
「はい。お答えします」
「まず、名前は?」
「リラ…………です。リラ、と申します」
その返答を聞き、ノアは顎に長い人差し指を当てた。少し考えた後、言いづらそうに口を開く。
「失礼を承知で尋ねたい。おそらくだが、名だけではなく姓も持っているのではないか?」
その質問にリラはすぐに返答が出来なかった。
「ええと、それは……。何と言ったらいいのか」
黙り込んでしまったリラの様子を見兼ねたのか、彼は続けた。
「言えない事情でもあるのか? ということは家が何処か聞いても答えられないだろうし……」
「はい……」
「仕方ない。だが次の問いだけは必ず答えてもらおう」
どんな絵の具を用いても作り出せないほどに繊細で複雑な紫色をした瞳は人間味を感じさせない。まるで精巧な作り物のようだった。背筋が凍りつく感覚を覚え、体が強張った。
「──何故、結界の近くで倒れていた?」
はっきりとした口調に、万物を圧する気高い低音が響く。一瞬にして場に鋭い空気が張り詰めた。リラは紫紺の瞳から目が離せなくなる。指先が冷えていく感覚を味わいながら両手を強く握り締めた。
(どう答えれば…………)
早く答えを返さねばならないという焦燥感に駆られる。しかし焦れば焦るほどに言葉が浮かばなくなっていく。
「えっと…………」
突如パンッと乾いた音が部屋の空気を割る。同時に場の緊迫が消失する。その音を立てた張本人であるルージュは掌を胸の前で合わせていた。ノアの後ろに控えていた彼は肘で広い背を小突く。ノアは僅かに眉を動かした。
「こら。女の子怖がらせないの」
「……怖がらせる?」
ルージュは呆れたと言わんばかりに大袈裟に肩をすくめる。
「相手や状況によって、接し方を変えなきゃ。彼女の立場に立って考えてごらんよ」
ルージュがノアと目を合わせる。
ノアは寝台の隣に跪き、リラと目線を合わせる。リラを萎縮させないよう、彼なりに配慮をしてくれたのだろう。高い身長のせいで増していた威圧感が幾分か和らいだ。
「申し訳ない。別に怖がらせるつもりは無かったのだが。先程の問いの答えを、改めて聞かせては貰えないだろうか」
──何故結界の付近で倒れていたのか。
その問いに、リラはどう答えていいのかわからなかった。なぜなら――
「……あの、大変申し訳にくいのですが」
バイオレットの瞳はじっと此方を見上げている。リラは彼から一瞬目を逸らし俯く。両手で寝衣を強く握り締めた。
そして、息を整え覚悟を決めると、彼に向き直る。
「わ、わたし…………記憶がないのです」
リラは下を向いて硬く目を瞑った。非難は全て受け止めるつもりだった。
全ての音が消えた空間で、自身の心臓の音だけがうるさい。沈黙はきっと数秒間だけだった。しかし、リラには終わらない時間に感じられた。
それでも沈黙は永遠には続かない。
「…………は?」
無表情を貫き続けていたノアが顔を顰めていた。