深夜一時ちょっとすぎごろになると、家族は流石に全員寝静まっていた。
最近ではよく起きている母親も珍しく寝ていて、父も一階のリビングのソファーで気を失うように眠りにつき、弟もちょっとだけスマホを弄っていたが、いきなりスマホを倒し、幽霊に魂でも持っていかれたかのように意識がこと切れて行った。
最近物事を考えすぎて寝付けない日々が増えてきて、そのせいか、深夜にいきなりぱっちりと目が覚めてしまうことがある。そのうえ、それから眠気というのがまるで駆け足で逃げる子供のようにそそくさとどこかへ消えてしまい、途方に暮れてしまう事が本当に多い。
最近はようやく暑さが落ち着いてきたものの、まだ不安定な気温と、また猛威を振い始めた花粉に無抵抗ながら襲われ、すっかりと体調がすぐれない時であったから、この夜はすこぶる心地が悪かった。
そして途端に、喉が渇いた。
とりあえず一階のリビングへ下っていったのだけど、まさかそこで、ちょっとだけゾクっとする怖い体験をすることになるとは、まだその時は、思いもしなかった。
下にさがると親が寝ていた。
つけっぱなしだったので照明を消して、寝静まった父親によれた毛布を被せてやった。そうして本来の目的を果たすべく、それに向かっていき手を伸ばすと、青い蛍光灯が静かに鎮座するように暗闇に灯るのを眼前で見届け、自分はその中から冷えたお茶が入った容器を取り出し、湯呑に注ぎ一口飲んだ。
そこでふと僅かに尿意を感じたので、湯呑をしまい、便所へとふらふらと向かった。そして驚いた。
「……?」
電気がついていた。
家のトイレはドアの下から光が漏れる構造になっていて、暖色の光が滲み出るようにゆるく光っているので、誰かが入っていれば一目瞭然である。ただ、その時はどれだけ思い返しても、家族全員が眠っているのを知っていたので不思議に感じた。
とは言いつつ、すぐに自分の中では結論を導き出していた。
それすなわち『消し忘れ』である。思い返してみれば簡単で、リビングの電気が付け忘れていたから、このトイレの電気も同じ『消し忘れ』である可能性は十分高い。だから、それなら電気を消すか、と軽くそのことを受け入れ、無心に扉を開くと、そこには全く知らない男性が座っていた。
「……」
「ぁ」
小さく男性は呟く。自分はそれを見て思考が停止した。そのせいで、どうしてこんな夜中に家の中で知らない男性がいるのだろうかという事への、究明が遅れてしまった。なんて間に、男性は細い汗を滴らせながら、口を小さくとんがらせて、
「す、すまない。私は怪しい者ではないんだ」
といきなり前置きしてきた。
そんな男性の言葉に何か迸るくらいの衝撃をうけてしまい、次になんと言えばいいかに戸惑ってしまった。その末に飛び出した言葉は間抜けて。
「え?」
だった。
「私は本当に怪しい者ではないんだ。ただ、本当にお腹が痛くなっただけで、強盗だとか、そういう事ではない。自分の尊厳を守りたかっただけなんだ……ッ!」
「……」
「分かるだろう? 突然の腹痛に襲われて、コンビニが近くにないときの絶望が」
確かに近所のコンビニは、少し離れた場所にある。
それ以外の店、スーパーやら雑貨店はあるが、そんなものド深夜に開店しているわけがない。なんて考えてから馬鹿げていると思うくらい、脳死すぎる思考の結論だけは過ったが、そんなことを考えている場合ではない。だから自分はとにかく、目の前の情報に対し何かしらの結論を出してしまわなければならないけど、それは簡単ではなくて、如何せんそれはまるで現実味がないことで、不意に眠気が覚めてしまった現状では、正しいと言えるくらいのロジックを構築し、結論を導き出すのは、到底不可能だった。
だから次に自分が言ったことは、まるで脳死であった。
「……わ、わかりました」
何故、納得したのか。または納得したような言葉を発したのは分からない。ただ、口から飛び出したのは、その言葉だったのだ。もう何が何だか分からなかったから、仕方がないような気もするが、でも、家に不審者がいるという事実をしっかりと理解すれば、その危険性を理解できたはずなのに、しかし、そうはならなかった。
「……ありがとう」
お礼を言われた。
そこからは、沈黙が少しだけ流れた。男は何だか気まずそうに冷や汗を顎から地面に不時着させ、自分もその状況を考察する暇がまったくなく脳内での処理が一向に進まなかった。そして、男はいきなり口を開く。
「あの……すまないが。家にまで勝手に入って図々しいのは、承知なのだが」
「……は、はい?」
男はやけに言いにくそうに告げる。自分はその様子に何か只事でないことを想像した。
「ドアを閉めてくれないか……?」
情けなく男はそう懇願した。
「……」
確かに只事ではない……か?
ドアを閉めてあげると、ガチャ! とドアの鍵がやや乱暴にかけられた。どうやらよほど切羽詰まっていたみたいだ。何か申し訳ない気持ちが芽生えたけど、でも、あいつ不審者だよな? と思うと途端に馬鹿らしく思えてきたけど、でも、目の前からあの男の存在が消えたことにより、思考の猶予がうまれた。
……普通に勝手に侵入してるんだよね?
例え尊厳があるとはいえ、勝手に人の家に侵入してトイレを借りているんだよね。
え? ええっと、どうして?
いや、なんか、良識とかないのかな……。どうして勝手に侵入しちゃったんだ。
それも時間は深夜、外に人はいない。だから別に、言ってしまえば外で漏らしてしまっても誰かに見られるわけじゃない。だというのに、わざわざうちに侵入してきたというのは何かおかしいのでは?
まさか……家に侵入した本当の目的は泥棒で、その最中にお腹を壊してしまったのか?
所謂、盗人猛々しいとは、このことか?
状況から考えるにそうとしか思えなくなってきた。でも、わりにトイレの中で自分へ懇願してきたな。本当に泥棒ならきっと、自分を気絶させたりするんじゃなかろうか。まあ所詮そういう妄想だけど。悪意を持っている人なら何をしでかしてもおかしくないはずで、その悪意をどうして自分へ向けなかったのだろうか。腹痛でそれどころじゃなかったとか? でもさ、悪意をもって悪事を成す人が腹痛程度で良心を思い出すのか?
……でも一応、自分は一回見逃しちゃったんだよな。
どうしよう。個人的な事をいうと約束は守りたいけど、守ってあげるほど信用できる相手でもないしな……。
夜中にトイレの前で、なんて考えこんでいた。
思うと、状況から意味がわからない。ただしやはり目の前で起こったことへの理解が、半ばスムーズには進まなかった。如何せん寝起きだからね。
「……う、うーん」
「……そんなところでどうした?」
「うわっ」
考えて項垂れいた刹那、いきなり目の前に父親がやってきた。
「え、起きたの?」
と訊くと、父は細目を手で擦りながら、ほわあと手を添えてあくびを一度して。
「……ああ、ちょっとお花摘みたくて」
なんて見てくれにあわない表現をするが、どうやら父もトイレで起きてきたようだった。
まずい。トイレのドアの下から照明は漏れているから、誰かが入っているのは一目瞭然。このままだと怪しまれる。
「……」
その時だった。
自分はなぜか、そのトイレの中にいる男の事を、父に知らせるのは酷だと思ってしまったのだ。冷静に考えればそうではない。しかし、一度トイレの中の不審者の存在を肯定してしまったから、自分への否定というのか、分からないけど、ともかく一度「いいよ」と言った事に対して裏切るようなことをしたくないなんて思ってしまって、だから、途端に父に口走った。
「お、弟が入ってるんだ」
「ああ、そうなの?」
「うん」
苦しいけど笑顔を作ってそういうと、父はさほど興味もないような顔をしてから、ちょっと黙った。そして目を細めて、父はもう一度あくびをして、
「そうか。まあ、もう一回寝てくる。空いてる時に済ませるよ。お前も待っているんだろ?」
父はどうやら自分に気を遣ってくれたらしい。
「うん、ありがと」
それに普通にお礼をいう自分。後から考えると馬鹿者! と殴りたい。
ただし、ここで思わぬアクシデント!とテレビならテロップを入れるくらいのトラブルがやってきた。それは次の瞬間の事だった。
「ほ、ぅわああぁぁあ~」
「……ん?」
トイレの中ではっきりと知らない男のあくびが聞こえた。
父は立ち去ろうとしたのにそのあくびで振り返る。
あくびをすることは別に不思議な事ではない。しかしその声がこの家の人間では全くなかったのだ。恐らく不審者もあくびをしてしまったことは本意ではない。だが。
恐らく、父の二度目のあくびが伝染ったのだ。
父は不思議そうにトイレのドアを見つめる。これはまずいと思った。だから自分は咄嗟に。
「最近あいつ、声変わりしててさ?」
なんて苦しい嘘をついた。
「え? そうなの? お父さん忙しくて最近喋ってないから?」
「うん。夜遅くだもんね、帰ってくるの」
「そうか……ついに声変わりか。嫌だな~」
なんてぶつくさ言いながら、父は髪の毛をぼさぼさと触りつつリビングへ戻った。
どうやら何とか有事は避けられたらしい。
「……」
「……」
じゃなくて。
どうして自分は中にいる不審者の存在を知らせなかった?
いや、ちょっとでも意識が冷静だったらもっと正しい判断が出来たはず……。
なのに、くっそ、やっぱり冷静になるには時間が足りなかった。
「……」
なんて頭を抱えていると、ついに、トイレで何かが流れた音がした。
あっと思い顔を上げてドアを見つめると、ドアノブがくいと捻られ、その男が出て来た。
まずいと思った。もしこの男が悪い人間だった場合、きっと自分はこれから恐ろしい目にあう。ただしどうなんだ? この人は一体、何なんだ? それ次第で何が起こってもおかしくない。
「……」
「……」
静寂が流れて、気まずい雰囲気が漂って。
そんな中、男は伏目になりながら、自分をみて、言った。
「黙っててくれてありがとう。本当に、死ぬかとおもった」
「……ぁ」
「驚かせてごめんね。おじさん、帰るから」
男はそう言って、自分を置いて玄関の方向へ歩み出した。
それを聞いて、自分は迸る安心感に何故か支配されて、並々ならぬ感動が押し寄せて来た。どうやら男は、本当に泥棒などではなく、ただ尊厳を守るためにこの家に勝手に侵入してトイレを借りていたらしい。男は悪い人じゃなかったのだ。
自分は大きく息を零した。そして顔をあげ、男の後姿をみると、男が背負っていたリュックから四角い物がいきなり落下した。
「あ」
「……」
全然、親の財布だった。
いつの間にか来ていたパトカーに男は連行された。
それまでやけに無抵抗だったから、多分、泥棒の途中でお腹が痛くなってトイレにかけこんで、その後に自分に発見されたとき、バレても構わないから腹痛をどうにかしたいと思ったらしく、まるで一時休戦だと言いたい気持ちに苛まれた結果、大人しくしてしまったみたいだった。
どうして通報後に特に反抗もなく警察を待ったのかを考えた。もしかしたら、男も焦っていた中で自分が一度トイレを続けることを許してしまったこと、その善意に甘えたことに、何か引け目のようなものでも芽生えてしまったのかなと勝手に想像している。
そうだとしたら、まさか本当に服痛で良心を思いだすことがあるとは。
――いや、結局何だったんだ。
という感想しかない一連の事件だった。