第6話

 イソルデ修道女は、両手を組み合わせて、ロウソクだけの薄暗い部屋の中を苛々と歩きまわっていました。


「全く、あの男があそこまで強情だとは思わなかったわ。金持ちの軟弱者のくせに、何を言っても動じやしないんだから。怯えるだろうと思って、一番古くて狭い牢屋にわざわざ運んで放り込んだ甲斐が無いったら」

 椅子に座った、どことなく気弱い感じの男が、ホノリウス五世が着ていた外套を片手にイソルデ修道女を見やりました。

「いつもは、その辺に縛って転がしておくもんなあ。でも本当にあいつ、お忍びの教皇様なのか?確かにいい物を着て派手な手袋をはめてたけど、普通の貴族の服装だし……まあ金はそこそこ持ってたけど」

 彼女はは立ち止まって男を睨みつけました。

「しつこいわね、間違いないわよ。一人で歩いているのを村で見かけた時は私も驚いたけど」

「でも本当に教皇様だったら、誘拐はさすがに大騒ぎになってまずいんじゃ……国王ぐらいに偉いんだぞ?」

 イソルデ修道女は、鼻で笑いました。

「『白の大宮殿』のお偉い連中が、教皇がお忍びで出歩いて挙句に攫われたとか認めるもんですか。同行の従者も間抜けみたいだから、何も出来ないでしょうよ。とにかく早く自分は教皇だと白状させて、身代金を支払えと指示する手紙を書かせないと……」


 ホノリウス五世が気絶している間にこっそり確認した、右手の『教皇の指輪』の事はもう少し黙っていようとイソルデ修道女は考えました。黄金に目がくらんで指や手などを切断されたりして教皇を傷つけられるのは困ります。


「さあ私はそろそろ戻らないと。奴から取り上げた財布をお出し。とりあえず分け前を貰っていくからね」

 イソルデ修道女は、ホノリウス五世が持っていた財布の中から、ちょうど半分だけ金を取り出すと自分の懐にしまい込みました。

「半分も持っていくのかよ……こっちは人数もいるし実際に攫ったのは俺らだし」

「お黙り。ここに安全に隠れて色々危ない仕事ができるのは、私のおかげでしょう?」

「そりゃ、まあ、そうだけどさ」

「ぐだぐだ言ってないで、牢屋だけはちゃんと見張っていてよ。弱音を吐いたらすぐに教えなさい」

 そう言い置くと、イソルデ修道女はさっさと部屋を出ていきました。

 残された男は、やれやれと溜息をついてから財布をしまいこみ、外套を広げながらどこで売り払おうかと考えを巡らせました。

 小さな窓の外の暗闇からかすかな風が吹き込んでロウソクの炎を揺らしましたが、男は気にも留めませんでした。


 その頃、ホノリウス五世は青く光る鬼火の妖しい光を頼りに、生首のヴォルフ博士の先導で狭い地下道を慎重に出口に向かって進んでいました。


 牢屋から抜け出すのはさほど困難ではありませんでした。

 ヴォルフ博士が「ここから地下道に脱出できるのである」とホノリウス五世に教えた隠し穴は、部屋の隅に無造作に積まれた板や瓦礫の下に口を開けていたのです。つまりそれほど長い期間、牢屋が誰にも使われず放置されていたのでしょう。

 これなら生首と面倒な取引をしなくても良かったかな、とホノリウス五世は一瞬考えましたが、手首の縄をヴォルフ博士が妙に頑丈な歯で勢いよく嚙みちぎってくれたので、まあいいかと思い直しました。音がしないように注意しながら何とか隠し穴に潜り込み、なるべく元の隠した状態にして、こうしてホノリウス五世は牢屋から脱出する事が出来たのでした。


「あいつら、私を気絶させた後に眠り薬のようなものを嗅がせたな。鼻や喉が変に痛む」

 頭を天井にぶつけないように注意しながら、ホノリウス五世は小声で愚痴りました。

 ヴォルフ博士がのん気な口調で説明します。

「もう少し進めば出口である。出口は建物より離れているので汝も安全であろう」

「助かる。連中が追ってくる気配も無いしな。腹が減ったが、マリヌスが助けに来るまでの辛抱か……」

 ちなみにヴォルフ博士が牢屋のホノリウス五世の存在に気づいたのは、何気なく唱えた祈りの言葉がきっかけでした。

「聖なる言葉がどこからか耳に届き、それで気になって建物内に入って出会ったのが、汝だったのである。しかし教皇とは僥倖だったのである」

 ヴォルフ博士の説明を聞いて、つくづく自分は生首という妙な存在と縁があるのだな、と嘆息したホノリウス五世でした。


 地下道はひどく歩きにくいので、さすがに健脚のホノリウス五世も途中で立ち止まって息を整えつつ、ようやく出口に辿り着きました。隠し通路の天井にある、なかなか動かない木の扉を苦労して肩で押し上げると、そこは月の光に照らされた、古びたり崩れた墓石が連なる広い墓地の一角でした。

 墓地は牢屋のある建物より離れていますが同じ敷地内にあって、低い塀のすぐ向こうは森がずっと続いています。どうやらこの敷地一帯は森で囲まれているようだな、とホノリウス五世は考えました。


 扉にその辺の石などを適当に乗せて簡単に持ち上げられないようにしてから、ホノリウス五世が服に着いた土埃を払い、ヴォルフ博士がホノリウス五世を妻の墓に案内して場所を忘れるなよと念入りに教えました(妻の名はアデライードといいました)。

「妻は私が処刑されるよりずっと前に病で亡くなったのである。この世で最も愛情深い素晴らしい女性であった……私に起こった事は何も知らずに、安らかに眠っているのが幸いである」


 ヴォルフ博士は次に、自分の首が箱に入って埋められている台座(以前は彫像が置かれていたようですが、今は何もありません)の場所を教えてから、昔話を始めました。

「処刑は仕方ないが、死体は妻の隣に葬って欲しいと希望したのに、トビアス2世は許さなかったのである。だが何とか同じ墓地のここに首は埋葬はされたが、胴体は行方知れずである。処刑後に目覚めて胴体が無い時の驚きよ……。私は壁などをすり抜ける事が可能であるが、塀の外、敷地から外へ出られぬ。結界のような物があるのでな。なので自分では探しに行けぬ。普段はこの辺で墓地を眺めているのである」

 本人の首は土中にあるのに、ヴォルフ博士が実体のある生首として動き回っているのは不思議ですが、理由は本人にも不明との事でした。

 ヴォルフ博士は、ホノリウス五世の顔のあたりまで浮かび上がると悲しそうに大きな溜息をつきました。

「おそらく、胴体と離れて埋葬されているせいで、このような謎の存在になり果てて……」

「わかったわかった、私のせいではないが、約束もしたし同じ教皇としてきちんと埋葬し直してやるから」


 ようやくホノリウス五世は、大きな木の根元に座り込みました。

「さすがに疲れたな……博士、その鬼火を消してくれ。目立つのは困る」

「無理である。この鬼火たちは勝手に私に付属しているのであって、私が操っているわけではないのである。それに私もそろそろ元の場所に戻ろうと思うのだが」

「退屈しのぎに従者が来るまでここにいて喋っていろ。あと地面に転がってじっとしていてくれ」

 ヴォルフ博士は、やはり無礼であると文句を言いながら渋々と着地し、鬼火は地面できらきらと青く光りました。


 ホノリウス五世は欠伸をしつつ、月の光に浮かび上がる大きな建物を見上げました。かなり古く、真っ暗で人の気配が全くしません。あちこちが崩れ、屋根や壁にも穴が開いて不気味な雰囲気です。

「牢屋があったので使われていない砦を隠れ家にしていると思っていたが、聖堂の廃墟だったのか」

「これはルーメン大聖堂である。若造の汝は知らぬかもしれぬな」

「ルーメン大聖堂?確かに初めて聞く名だが……」

「昔はそれはそれは壮麗で素晴らしい大聖堂であった」

 ヴォルフ博士が厳かに話し始めました。

「大司教と大勢の修道士もいて、国王が華麗な行列を組んではるばる祭儀に訪れたものである。しかし私が処刑される少し前、戦が起こり攻め込んできた傭兵部隊に襲われ、徹底的に略奪されて建物も壊され燃やされ、修道士が何人も殺されたのである。惨い話である。流石に墓地にはあまり手を出さなかったので、私の首も適当ではあるが妻と同じ墓地に埋葬できた。だがそれ以来、建物はずっとそのままで墓地もやがて使われなくなり、今の有り様である」

 ホノリウス五世は首をひねりました。

「戦のせいとはいえ、大司教までいた大聖堂を教皇も知らぬままずっと放置されているのは少し妙だな……おまけに今は悪党どもが潜んでいるし」

 ヴォルフ博士が急に小さく飛び跳ねながら怒り出しました。

「あの連中は1年ぐらい前から出入りしているのである。別に何者でも構わぬが、墓地に手出しをするのは許されぬ。以前夜中に酒に酔ったような風情で大声を出したり墓石などを蹴ったり傍若無人な振る舞いをする若造がいたので、目の前に他の亡者たちと出現して思い切り驚かしてやったのである。泣いて這って逃げていってざまあみろである」

「ふーん。結構長く居座っているのだな。ともあれしかるべき方面に匿名で通報すれば、領主の警備隊あたりが踏み込んで捕まえてくれるだろう。そのうちにこの大聖堂の事も詳しく調べてみるか。月日はかかるだろうが、修復して復活させた方がこの地の為には良いかもしれぬ」

 ヴォルフ博士が目を輝かせました。

「それは素晴らしいことであるぞ、教皇。一緒に墓地も元のように立派に甦らせて欲しいのである。さすれば眠っている妻も安泰であろう」

「そうだな、善処しよう」


 その時。

 暗闇に、灯りがちらちらと見えたのでホノリウス五世は目を凝らしました。

 少し離れた場所に、どうやら石造りの建物らしき物があるのが暗闇に慣れた目にぼんやり見えます。

「あの建物には人の気配があるな。悪党どもだろうか」

「失礼である。修道女たちである。あれはセレニテ女子修道院である」

「何だと?女子修道院?」

 なぜかホノリウス五世は驚いてヴォルフ博士を振り返りました。

「別に不思議ではなかろう。昔は、ルーメン大聖堂付属のセレニテ修道院であった。大勢の修道士がいて見事な薬草園もあったが、大聖堂と同じように襲撃されて破壊されたので無人になり、やがて修道女たちがやって来て正式にセレニテ女子修道院としたのである。今は修道女の人数もごく少数のようで、聖なる祈りの言葉もほとんど聞こえないが」

「……博士はあの女子修道院の建物まで行けるのか?」

 ヴォルフ博士は不思議そうな顔をしました。

「当然であろう。大聖堂と墓地の隣の聖なる場所ではないか。もちろんしばしば訪れたりはせぬが、中庭に妻の好きだった花が咲く一角があるので、その時期は隠れて見物をさせてもらっている」

「なるほどな……日々の食事にも事欠く貧しい女子修道院か……」

 ホノリウス五世が深く眉間にしわを寄せた時、廃墟の方から指笛が響きました。

「ああ、あれはマリヌスの合図だ。やれやれ助かったぞ」

 ホノリウス五世は、手袋を素早く脱ぐと指笛を短く2回鳴らしました。

「素早く従者が到着したのであるな。実に優秀な従者である。では私も元の場所に戻ることにしよう」

「うむ。色々と世話になったな、ヴォルフ博士……そなたの胴体を調べる件は任せておけ」

 ヴォルフ博士は初めて髭もじゃの中から満面の笑顔を見せました。

「私も久しぶりに色々話せて愉快であったのである。汝は教皇でも一応無礼ではなかったな。おお、伝えるのを忘れていた。私に再度用がある時は、この墓地で私の名と汝の教皇の名を唱えれば気が付いて出現できるはずである。ではさらばだ」


 そう言うと生首のヴォルフ博士は鬼火と共に宙を飛んで見えなくなり、すぐに暗闇から黒い外套を羽織ったマリヌスが音もなく姿を現しました。手にはホノリウス五世の外套を持っています。


「お待たせして申し訳ありません、ホノリウス五世。お怪我などはありませんか?」

 マリヌスのひんやりとした口調を聞いて、ホノリウス五世は、急いで立ち上がると早口で労いました。

「ご苦労だったな、マリヌス。私は無事だ。おお!外套を取り戻してくれたか。流石だな」

 ホノリウス五世は外套を受け取り素早く羽織り、マリヌスは周囲を見回しました。

「財布も取り戻したので後でお渡しします……誰かと話しておられたのですか?」

「後で説明する。時間がない。悪党どもは何人いた?」

「4人です。あと5人ほどいるようですが、今は不在でした」

「修道女は見かけたか?」

「はい。連中と手を組んでいるようなので驚きました。財布から分け前を取り上げて建物から出ていきましたが、後は追いませんでした。さすがに修道女には何も出来ません」

「それで正解だ……すまぬが、もうひと働きしてくれ。その4人は動けない状態だな?」

「全員気絶しています。一人だけ刃物を出したので手加減をしませんでしたが、死にはしません」

 ホノリウス五世はうなずきました。

「私も手伝うのでその連中をあの塀の外の森に連れ出し、この建物から離れた場所に放り出してくれ。コマースウィック村はここから遠いのか?」

「いえ、さほど。この建物のあちら側の森を抜けるとすぐに村の防護柵が見えます」

「よし。悪党連中はあとでロドリックに相談して村の責任者に捕まえさせる。とにかく急げ。極力音をたてるなよ」

「……わかりました」

 マリヌスとしては、あんな連中は放置しておいてさっさとホノリウス五世を連れ戻したいところですが、ひどく急いでいる教皇に黙って従いました。


 マリヌスは馬に乗ってきていませんでした。そこで悪党たちが廃墟の中に隠していた数頭の馬のうち、大人しい馬2頭に意識の無い悪党たちを積上げてから、マリヌスとホノリウス五世は静かに馬を引き、塀の崩れた箇所から森に出るのに成功しました。

 しばらく森の中を進み、適当な場所で全員をマリヌスが手早く縛り上げ、木の根元にまとめて転がしておきました。

 そこからホノリウス五世とマリヌスは馬に乗ると森を出てコマースウィック村の近くまで戻り、ロドリックの屋敷を目指しました。

 そして後々ややこしい事にならぬよう、屋敷の近くで馬を降りて放す事にしました。

「勝手に連れ出して悪かったな。お前たちはこれから上手くやれよ」とホノリウス五世が優しく話しかけてやると、2頭は嬉しそうに暗闇の中をどこかへ去っていきました。


「市の前夜なので、裏口は一晩中開けているそうです。なので誰にも気づかれず屋敷内に戻れますよ」

 マリヌスが前を歩く教皇に話しかけますが、ホノリウス五世は何やら考え込んでいます。

「教皇、何か心配事でも?」

 ホノリウス五世は立ち止まり、マリヌスを振り返りました。

「本当に忌々しい。村で私を攫った連中はお前が叩きのめしたからそれでいい。だが私を見つけて攫えと指示した人物には私は手出しができぬ。たとえ教皇の権威を振りかざしてもな」

 マリヌスが教皇の剣幕に驚いていると、ホノリウス五世は更に言いました。


「私が捕らわれ、我々が抜け出してきたのは、セレニテ女子修道院の敷地だ。

 女性以外は絶対に立ち入る事が出来ぬ。そして教皇だろうが国王だろうが、男は許しが無ければ近づく事すら出来ぬ完全な聖域だ。お前も見たイソルデ修道女は、手を組んでいるどころか悪党連中の黒幕だ。彼女はセレニテ女子修道院の修道院長、そしてとんでもない食わせ者なんだよ」

 ホノリウス五世は足元の草を思い切り蹴飛ばしました。