18:―2002年6月6日 23時55分―

 堀さんは落ち着かない様子で、何度も腰を浮かしかけては、再びソファーにもたれかかるという動作を繰り返していた。視線はずっと、職員室の扉に向けられたまま。成美さんのことが気にかかるのだろう。


「やっぱり様子を見てきた方が……」

「化粧の手直しに、時間が掛かっているのかもしれませんよ」

「そうなんだよなぁ」


 このやりとりも、既に二、三度は繰り返している。堀さんが心配性なのか、それともそんなに成美さんのことが気になるのか。もっとも、廃校で一夜を明かすというこの異常な事態を考えれば、慎重になるのは当然だ。

 こんな時に化粧の手直しなんてと思う部分はあるけれど、それがどれほど大事なことなのか、正直男の僕達にはさっぱり分からない。当人にしてみれば大事なのかもしれないし、そんなの直さなくても良いとはとても言いづらい。女性に慣れた人なら、こういう時にも上手く対処が出来るのだろうか。悲しいことに、僕がその域に達する予定は、当分無さそうだ。

 そもそもが、化粧の手直しに入ったところがおそらく女子トイレということが問題だ。僕も堀さんも男だから、女子トイレに入るには抵抗がある。女子トイレの前で待つのも、急かすようで気が引ける。となれば、やはりここで待っていることになるのだが、先ほどから堀さんの膝は小刻みに揺れていた。


 成美さんを待ってやきもきする堀さんを宥めていれば、不意に、カツンと小さな音が聞こえた。それほど大きな音では無かったが、雨音が籠もるこの廃校内で、これまで耳にしていなかった音だ。そう、まるで小石か何かがぶつかったような音。

 物音に気付いたのは、僕だけでは無かった。堀さんと池中さんも顔を上げて、三人で音のした方を向いた。雨が叩き付ける、職員室の窓を。


 最初は薄汚れた窓ガラスの向こう、雨が降りしきる暗がりを背景に、ぼんやりと何かが浮かんでいると感じた。既に時間は深夜に差し掛かっている。月も星も灯りも無い、夜の廃校。皆が囲んでいる応接テーブルに置いた懐中電灯だけが、闇を照らしだしていた。

 視線の先、窓ガラスの外にある闇に濃淡を感じて、目を凝らす。瞬間、稲光が闇夜を切り裂いた。窓の外を覆う闇が払われ、そこにあった姿を照らし出す。


「うわああぁぁ!」


 甲高い悲鳴は、池中さんの物だ。僕はと言えば、声を上げるのも忘れて、一瞬誰かのシルエットが映し出された窓を凝視していた。あれは確かに人影だ。雷が逆光になって顔までは良く見えなかったけれど、確かに窓の外に、誰かが居た。窓から顔を出して、まるでこの部屋を覗いているようだった。

 遅れて轟く雷鳴も耳に入らないほどに、僕の心臓がうるさく鳴り響く。じんわりと、汗が滲んでくる。誰かが僕達の様子を盗み見ていた? あるいは、監視されていた? 一体、何故。一瞬の光景だったが、雷光に浮かぶシルエットが僕の脳裏にはしっかりと刻み込まれていた。腕が、肩が震えそうなほどに、恐怖がこみ上げてくる。ちらりと堀さん、池中さんに視線を向ければ、二人の顔は闇に溶け込むほどに青褪めていた。きっと、僕も同じ顔色をしているに違いない。


「今の――」


 見ましたか、と言葉を続けるまでも無い。二人も同じ物を見たのだと言うことは、その表情を見れば明白だ。上擦ってしまいそうな声を落ち着かせる為、一度ゆっくりと息を吸い込み、そして吐き出す。いまだ鼓動はうるさく響いているが、抱えたこの恐怖を吐き出さなければ、破裂してしまいそうだ。


「誰かに、見られていた」

「ああ……窓の外に、誰か居たな……」


 僕の言葉に堀さんが続き、池中さんも無言で頷く。堀さんが、懐中電灯を窓に向ける。明かりに照らし出された薄汚れたガラス窓には、今は誰の姿も浮かび上がりはしない。僕達が驚き慄いていたその一瞬で、姿を消してしまったのだろうか。

 見間違い――だったら良い。心からそう思う。だが、僕だけでは無く、堀さんと池中さんも、誰かが居ると感じたのだ。三人居て三人ともが見間違う可能性なんて、有る訳が無い。


「何だよ、一体誰だよ今の!」


 堀さんが応接テーブルに拳を叩き付ける。


「幽霊……とかじゃ、無いよね?」


 池中さんが震えた声で言った。幽霊だとしても恐ろしいが、実在する人間だとしても、やはり恐ろしい。その目的は何なのか……不安が悪寒のようにこみ上げてくる。


「幽霊のわきゃねぇだろうが。人間だよ、人間! くそ、誰だか知らねぇが、とっ捕まえてやる!」


 堀さんがソファーから立ち上がるのとほぼ同時に、廊下から物音が近付いてきた。皆ハッとして、一斉に扉に視線を向ける。どうやら、誰かが走ってこちらに向かってきているようだ。ごくりと唾を飲み込み、僕はガラガラと音を立てて開く扉を凝視した。


「大変、大変なの!」

「ま、舞子さん?」


 息を切らせて職員室に飛び込んで来たのは、事務室に居たはずの舞子さんだ。ここまで走って来たのだろうか、栗色のウェーブヘアを振り乱し、肩を上下させている。


「どうしたんですか?」

「こっちも大変なんだよ!」


 僕と堀さんが、同時に舞子さんに告げる。そう、こちらも大変なのだ。今見た人影について、話をしようとして――


「菜摘が……菜摘が、トイレに行ったっきり、戻って来ないの!」


 舞子さんの言葉に、言葉を失ってしまった。




「十分くらい前かしら。トイレに行くって言うから、一人で大丈夫かって、ちゃんと聞いたのよ、私。菜摘が一人で大丈夫って言うから、送り出したのに……それっきり、戻って来なくって……」


 トイレには、今、成美さんが行っているはずだ。僕の脳裏に、不安が過ぎる。


「トイレは見てきたんですか?」

「当たり前じゃない。でも、誰も居なかったのよ」

「誰も……居なかった?」


 おかしい、成美さんが居るはずでは無いのか。そう言いかけた時、ガラガラと職員室の扉が開いた。


「戻りました……って、どうかしたんですか?」


 両手に毛布を抱えて、成美さんがよろよろと職員室に入ってくる。ああ、なんだ、保健室から毛布を持ってきたのか。ほっと胸を撫で下ろす。こんな時でも彼女の元に駆け寄っていく堀さんの姿を見て、ブレないなぁと、思わず感心してしまった。

 毛布を置いた成美さんと、いまだ息が上がったままの舞子さんに、先ほどこの職員室で見た光景を説明する。そう、僕達が見た、謎のシルエットを。


「何よ、それ……誰が居たって言うの?」

「部屋の中を見ていたってことですか? 気味が悪いですね……」


 僕達の話を聞いて、舞子さんは眉を顰め、成美さんは不安げに両腕で自らの肩を抱いた。少し前には、彼女もこの職員室で話し込んでいたのだ。ひょっとしたら、あの時から見られていたのではないか――彼女がそう不安がったとしても、不思議は無い。


「……そういやあの校長、今何してるんだ」

「あっ」


 堀さんの言葉に、全員が顔を上げる。そうだ、今この廃校にはもう一人、三谷先生が居るはずだ。校長室に入ったっきり、一度も顔を見ていない。彼は今頃、何をしているのだろう。


「校長室に、様子を見に行きましょうか。ひょっとしたら、菜摘さんも一緒に居るかもしれませんし」


 僕はそう言って、皆を促した。そうだったら良いなという、あくまで希望的観測だ。本当を言うと、不安の方が強い。そう、


「さっきの僕達を見ていたのが、校長先生なんじゃ……」


 池中さんが言うように、あの後一度も姿を見せていない三谷先生に対して、不審を抱いていることは、どうしても否めない。


「どちらにしても、ハッキリとさせた方が良いでしょう。それに、菜摘さんも探さなきゃいけませんし」


 僕の言葉に皆が頷き、職員室を出る。ぞろぞろと廊下を歩き、校長室へと向かう。その間も舞子さんはキョロキョロと周囲を見回し、菜摘さんの姿を探しているようだった。




「おい」


 堀さんが幾分荒々しい様子で、校長室の扉を叩く。しかし、返事は無い。再び、今度は拳を叩き付けるようにして扉を揺らすが、やはり部屋の中からは何の反応も無かった。


「おい、開けるぞ!」


 痺れを切らした堀さんが扉に手をかけると、校長室の扉は、軽い音を立てて横にスライドした。


「あ……」


 校長室の中は、がらんとしていた。他の部屋よりも豪華な調度品、職員室よりも座り心地の良さそうなソファーが置かれているが、そこに人の姿は無い。菜摘さんの姿は勿論、ここに居るはずだった三谷先生の姿まで無いのだ。


「どこに行きやがった、あいつ」


 堀さんが舌打ちする。菜摘さんが居なくなった、誰かが職員室を覗いていた、こんな時に姿が見えなくなった三谷先生に、隠しきれないほどに不信感が募っていく。


「とにかく探しましょう、三谷先生も、菜摘さんも」


 僕達は全員で校舎内を見回り、二人を捜すことにした。最初は二手に分かれることも考えたが、今居るメンバーは僕と堀さん、池中さん、成美さん、舞子さんの五人。二手に分かれたら、二人と三人だ。もし何かあった時に、特に二人になった方では対処が難しいかもしれない。少し効率は悪いが、五人全員で纏まって行動することに決めた。