疲れた足をひきずる様にして、彼はクローゼットを通り抜け、通路に出た。
通い慣れた、ほこりっぽい通路の中は、いつでもひどく暗い。彼は口紅ほどの大きさのライトを持って、足元を照らす。ひどく静かで、自分の足音だけが、妙に大きく聞こえる。
もう、どのくらい、こんなことを続けているのだろう、と時々テルミンは考える。
いちにい、と頭の中で数えてみる。もう五年だ。五年もの間、あの帝都からの派遣員と、ずっとこんな関係を続けている。
最初はどうだったろうか、と彼は時々思い出す。あれは、前首相とヘラの情事の光景を見せつけられた時だ。この通路を通って、この官邸の閉ざされた屋根裏に、連れられて行ったのだ。
だが彼は思う。どうしてついて行ってしまったのだろう。
あの時、スノウが自分にとって、危険な人間であることは気付いていたはずだった。図書館の書庫で、ひどく自分を試す様なことを繰り返すから、まともに向き合うことを避けるように、自分自身に危険信号を出していた程だ。
確かにヘラのこともある。だが、それだけなのだろうか?
闇は駄目だ、と彼はそこまで考えて頭を振る。
自分が何をどう思ったところで、相手は、自分を駒として考えているのだろう、とテルミンは思う。おそらくは、自分の前にも、何かと手を打っているはずなのだ。この男は。
それがどんな手であるのか、何となくおぼろげに見えてきた様な気はする。だが決め手は無い。
そしてまた、それを知ってどうする、という気持ちもしていた。知っていた方がいいのは判っている。派遣員が不意に方針を変更した時にも、自分やヘラが生き残るためには。
なのに、それを知ろうとすることを、ずるずると引き延ばしている。
この気持ちには覚えがあった。だが、それが何だったのか、彼には上手く思い出せないのだ。
彼は立ち止まり、ふう、と息をつく。
するとふと、彼の耳に、ほんの僅かに、くすぐるような笑い声が聞こえた。
何だろう、と彼はその声がする方に耳を傾ける。それは、壁の向こうからだった。彼は頭の中でこの官邸の配置図を思い浮かべる。その壁の向こうは、彼の唯一の上司の私室であるはずだった。
かつてこの部屋の上で、彼はあの姿を見、派遣員と関係を持ってしまったのだ。
そのかつてはゲオルギイ首相の私室だったそこを、現在はヘラが使用している。この官邸の主の部屋だ。なのに、そういう部屋に限って、壁や天井が薄かったりするのだろうか。テルミンは一度調べなくてはな、と思いながら、そこから立ち去ろうとして、―――はっと足を止めた。
こんな時間に、笑って?
ヘラは朝決して強くはないのだが、夜とてそうそうだらだらと起きている訳ではない。かつてと違い、夜は眠るための時間であるはずだった。
それに、一人で笑い転げるというタイプではない。それは五年以上も側に居れば、彼もよく知っている。
―――誰か、居るのか?
気が付くとテルミンは、あの道へと足を向けていた。いつも暇ができると人目を避けて陽の光の中でまどろむ螺旋階段を上り、通路と同じくほこりっぽい部屋の扉を開けた。
窓の外からは、衛星の光が冷たく入り込む。彼はライトをしまい、衛星の光だけで、そっとあの穴のあった場所まで音のしないようにゆっくりと近づいた。
夜で良かった、と彼は思う。昼間着る服ではないが、それでもこの部屋の床に積もっているほこりにまみれてしまう自分の姿はそう好きではない。
そして彼はあの時の様に、床に空いた穴から下をのぞき込んだ。
あ。
声が出そうになる。
何で。
彼は両手で、自分の口を強く塞ぐ。そうでもしないと、叫んでしまいそうだった。
何故彼が。何故彼らが。
自分の目が、信じられなかった。