「場面なんだけどさ」
にやり、とリタリットは笑う。目は相変わらず笑っていない。
「たぶん、メトロだと思うんだよ、アレは。高い丸い石の天井に、蛍光灯のシャンデリアがあってさ。で、何かひでー音が、して、そおそお、何かひでー音。何つーのかな、布を一気に金属で引き裂いた様な音ってゆうか、じゃなかったら、黒板をこのドリルの刃を(ふいとリタリットはそれを持ち上げた)何十本と並べて一気に引っ掻いたような音っていうか。でもそんだけじゃないのよ。そこでずいぶん大勢の連中がざわざわざわざわしてんの。何やってんの、と思ってオレは…… たぶんオレなんだよね。見に行くワケよ。そーすると」
「そうすると?」
「人の輪の中にぽっかりと穴が空いててさ。オレはほら、そうゆう人混みって好きらしいから、何だ何だと首を突っ込むワケよ。で、そこでオレが見たのは、真っ赤に染まった床」
え、と彼は思わず問い返していた。
「オレもさー、何で床が赤いのかな、と思ったのよ。床のほかの部分はほらよくあるクリーム色のビニタイだし。それに何かべとべとしてるようだし。でオレはもっと近づくワケよ。で何か目を凝らすと、手があんの」
ひどく嫌な予感がした。
「濡れてんの。その手は」
聞くんじゃなかった、と彼は思った。
「何か半袖っぽくて、白い服だったのかな? 何かすげえ綺麗に真っ赤に染まっていたから、きっと白い服だったんだ、とオレは思ったね」
そういうのは、冷静に言う話じゃない、と彼は思った。だが止めることもできない、とも彼は思った。
リタリットは淡々と続ける。
「片方はそのまま身体についてたんだけど、もう片方はごろんとそこにあるのかな。足なんかもう、曲がっちゃってて。かろうじてついてんだけど。でやっぱり下のほうも真っ赤でさ。切れてるとこから、どくどくとずっと出てんの。で床がずいぶん真っ赤になっちゃってて」
「お前さ……」
BPは顔が自然に歪むのを感じていた。話している本人はひどく淡々としているのに、聞いている自分の方が、胸がひどく痛くなる。
「ドクトルKに言わせるとさ、オレみてーなくっきりした『場面』でそれが在るってのは珍しいんだってさ。でも何でそんな場面が出てくるのかは奴も判らねって言ってたけどさ」
「知ってる奴…… ってことは」
「どーだろ。そこまでオレには判んないよ」
そして目を半分伏せる。
「オレに見えんのは、その『場面』だけだもん。そこに出てるのが誰かなんて、オレには判んね。ああ、男だったとは判るよ。でもそれがオレに関係したヤツなのか、それとも通りすがりの誰かさんかどーかなんてのはさーっぱり判らないのよ」
BPは思わず口に手を当てていた。
「でもさあ、そのせいかオレどーもでかいエンジン音ってのはやでさあ。最初にあーやって行った時、吐いちゃってさ。オマエもういいから来るなって言われてはいそれまで」
そしてげたげた、とリタリットは笑った。
「オマエにはさ、BP、無いの? そんなモノが」
言われてBPは首を傾げた。
「ある…… 様な気はする」
「へえ。どんなの?」
そして今度は逆の方向に首を傾げる。リタリットは面白そうに眉を上げると、口を歪めた。
「判らない」
「判らない?」
「同じ夢をよく見るなあ、とは思うんだけどさ」
「同じ夢ねえ。ヘッドと同じよーなこと言うねオマエ」
「ヘッドが?」
ん、とリタリットはうなづく。
「カレはさあ、映像じゃあないのよ。概念だけが何か渦巻いてるんだって。でそれがぼんやりとした夢の中に出てくるらしいんだと」
「コンセプト?」
「『何か自分には女と子供が居るらしい』そぉゆうの」
コンセプト、というにはひどく具体的だな、とBPは思う。
「だからカレは誰がどう誘おうと、そぉゆう向きには靡かないね。可哀相なビッグアイズ」
げ、とそれを聞いてBPは思わず声を立てた。
「何、ちょっと待てそれじゃ」
「まじまじ。それはそれ。これはこれ。でもココだから良かったね。誰もここじゃ何かれどーしようなんてコト思えないから、いいんじゃない?」
「……」
「だいたいオマエ、ここでそうゆう気分になったコトあり?」
いや、とBPは首を横に振った。
確かに、考えてみれば、一度も無かった。健康な成人男子であるというのに、考えてみれば、それに気付いたことすらなかった。
「記憶を消されてるのが何か関係あるのか?」
「んにゃ、単に寒いから勃たないだけ」
リタリットはそう言いながら、ふにゃ、と肩をすくめた。
*
実際、そうだろうな、と言われてみて彼も思わない訳にはいかない。そうでなくて、この状況下で平気でいられるだろうか、と。
至近距離というのは、それが何であれ、至近距離まで近づいてもいい、という相手に対して、危険な感情を起こさせるものではないか、とBPも改めて思う。
「……んでもさあ」
ぼそぼそ、とその至近距離に居る男はつぶやく。
「オマエ元々、結構平気なヤツだったんじゃない?」
「何が?」
「女でなくても平気、な類じゃないの?」
言われてみたら。彼は想像する。しかしその想像は途中でどうしても暗雲がかかる。
「判らん」
「けどオマエ、オレがこーんなことしても」
首に手を回す感触。
「はたまたこーんなことしても」
更には軽く口にキスまでされる。
「何か平然としちゃってさ。その気全く最初から無い奴だったら、んなことされりゃ、馬鹿ヤロと叩き出すぜ? オマエ腕は強いんだからさ」
「そうかな」
「そぉだよ」
「お前こそ、そうだったんじゃないのか?」
「オレ?」
何を聞くんだ、という調子で相手は問い返した。
「どぉだろ。オレ別に女は好きよ。抱きしめてやらかくて、そういうのはいいよね。キモチよく中に入れてもらってとろとろしたいって感じ」
「んじゃ野郎は?」
だいたい何でこうもくっつくのだろう、と何故か冷静な自分の頭を改めて不思議に思いながらBPは問いかける。
「さーあ。オマエの前に誰か居たワケじゃないからさあ」
「そうなのか?」
「そぉなの。女はさ。別に知識の方であるのに、あっちはいまいちぼんやりしてるし。でもオマエのカラダは結構オレ好きよ?」
「何で」
「何でだろ」
リタリットは首をひねる。そして改めて思い当たった、というように、指をくわえ、すぐ上の天板に視線を移す。
「ヤッてみりゃ判るのかなあ?」
「って何を」
「ってナニを」
「寒くて勃たないんじゃないかよ?」
「だから暖かくなったらさ」
ってことは今って訳じゃないんだな、とBPは何となくほっとする。別にこのべたべたくっついてる男が嫌いではない。抱きしめられようがキスされようが、別にそれは彼にとって大したことではない。
だがそれ以上、そこまでしてもいいか、というとどうも彼の中で疑問が残るのだ。おそらくこの場合のリタリットが自分にしたいのは、「そういうこと」だろうし、ではその場合自分がやすやすとそのまま流されてしまうのだろうか、と想像すると、それもまた暗雲が思考の上に流れていくのである。
何か違うような、気がする。
「ま、いーさ。そん時まではおあずけ。寝よ寝よ」
「おあずけって」
きゅ、と手に力が込もる気配がする。数秒後には、相手は既に眠りの中に居た。
だけど。彼はその眠る気配を感じながら思う。そんな時が来るとこいつは思ってるんだろうか。暖かくなったら。この地でそれは無理な話だ。
だとしたら。
ふと彼は、そこが夢の中であることに気付いた。
ああまたあの夢だ。
ひどく風景が鮮明だった。石造りの建物の内部、ということがすぐに判る。
それが見覚えがあるもの、という気はするのだが、何処であるのかはさっぱり判らない。下手すると、それが建物であるということすら、自分の感覚からはするりと抜けだしそうになる。
自分はその建物の、暗い部屋に居る。だが自分の姿は見えない。自分なのだから。
未だに彼は自分の顔が判らない。房の皆が、自分の姿を言葉では説明してくれる。重そうな黒い髪、黒い大きな目、やっぱり黒い太い眉、少しとがり気味の顎、そして最近は雪焼けして多少色はついたが、元々は白いだろう肌……
言われてはいるが、実感は無い。触れてみる感触から、輪郭の予想はつくが、それを具体的に考えることができないのだ。
それと似た感覚で、ふと立ち上がる夢の中での自分の足取りは奇妙だった。ふわふわとして、雲の上を歩くように、実感が無い。
そしてその暗い部屋の一部分に急に光が差し込む。誰かが入ってくる。逆光で、シルエットしか彼の方からは見えない。だけどそのシルエットは、ひどく小柄に見える。長い髪をゆらゆらと揺らせ、自分に近づいてくる。
そして自分に向かって、泣きながら、何か言うのだ。何か言いながら、その腕は、自分を抱きしめようとするのだ。
だがそこでいつもその夢の光景は終わる。
その相手が、何を言ったのか、どうしようとしていたのか、彼には判らない。
そしてその夢を見た次の朝は、ひどく自分の額が濡れていることに、彼は気付くのだ。