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ところで、テルミンは「警備員」という任務をもらってしまったばかりに、彼はそれまで暮らしていた士官の独身寮を引き払って、この官邸の一室に住居を与えられた。
専属の「警備員」と言ったところで、本来の意味でヘラの身をも含めた官邸のそれは、結構な人数が交代で勤務していた。よって彼は、自分の任務はそういう「警備」ではなく、殆どがその「首相の愛人」の暇つぶしの話相手なのだ、ということは理解していた。
実際厄介だ、とは感じていた。無論同時に、この官邸でのアンハルト大佐の副官としての任務も兼ねているのである。軍に入った以上、プライヴェイトな時間など殆ど無くなるだろう、と覚悟はしていたが、少しばかり彼もため息をつかずにはいられなかった。
だがしかし、彼の予想は多少外れた。
彼はヘラの専属の、「私的な」警備員だったから、朝から晩まで、ヘラが必要とする時には、側にいなくてはならないはずだった。
ところが、その時間が、意外にも少ないのだ。
まず朝。任命された次の日に、軍人としての彼がごく当たり前に「勤務時間」として訪ねていったら、当の本人は、まだベッドの中だったりする。
目が半分閉じたままのヘラによく聞いてみるとこう言った。
「奴がしつこいんで、俺は寝不足なんだよ」
翻訳すると、夜が遅いので、朝も遅いのだという。
だったら、とテルミンは、まず出勤すると、アンハルト大佐の元に出向き、その場で必要なことを手際よく進めておくことにした。
彼は大佐の副官である以上、大佐の任務をスムーズに進める準備をしておかなくてはならない。必要な下調べや、準備を自分の部下に手分けして命じておくのだ。
下手に彼が一日中詰めているより、それは効率が良かった。任された方は、振り分け方の上手い若い上官に対し、それなりに真面目に仕事をこなしてくれる。彼は「警備員」の仕事が退けてからそれをとりまとめるだけで済んだ。
無論それはアンハルト大佐と、彼の元に居た元々の部下の質が良かったから、ということもある。テルミンは自分の力を過信することはなかったので、そのあたりはきちんと心得ていた。
そうこうしているうちに、陽も高くなり、一段落したところで、ようやく彼はヘラの元に出向く。
すると大体この本人は、最初出会った日の様に、ボタンを一つしかはめなかったり、髪は解いたままだったり、だらだらとした格好で「朝食」を摂っているのだ。時計の針は、どう見ても「昼食」の時間だったが。
しかし確かに、話し相手でもいないことには、何をすればいいのか判らない様な暮らしだ、とテルミンはヘラに一日ついてみてよく判った。
何をしているか、と言えば、何もしていないのだ。
朝起きて、食事をして、昼間何をするでもなく、広い部屋の中で、フォートの綺麗な雑誌を眺めたり、大きな画面のヴィジョンを眺めたり、この星系外で流行っているという音楽を聞いたり……
遊んでいる、というにも気力が足りない生活だった。そんな生活に縁が無いテルミンは、もしそんな生活を強いられたら、自分には耐えられないだろうな、と考える。
しかし不思議なことに、外出することはまず無い。
買い物やキネマや何やら、そう言ったことでもしていれば退屈は多少紛れると思うのに、ヘラは滅多にしなかった。
何かを強烈に欲しいと思うこともないらしく、部屋の中のクローゼットの中身も、皆似たような、シンプルな形のシャツとパンツばかりが数だけは多く並んでいた。
しかしそうやって考えると、この長く伸ばした巻き毛も、単に面倒だから切らないのではないか、とかんぐりたくもなってくる。恐ろしいほどそれは似合っていたのだが。
だが、ヘラは官邸の敷地内はよく動き回っていた。
この首相官邸自体が、ひどく広い敷地の中にあった。あちこちに作り込まれた庭もあった。放って置かれた荒れ野もあった。
その広い敷地の中を、ヘラはぼうっと歩き回ったり、時には池の中に足を突っ込んだり、自転車を乗り回しているらしい。専用の自転車が、窓の下に置かれているのをテルミンも目撃した。
だがそれでも、その敷地の外に行くことはまず無いのだという。雨が降ったら、それこそこの広い官邸の中をひたすら歩き回っているだけのこともあるという。
実際この官邸は広かった。入植当初から、この建物はこの地を統治する人間の持ち物であり、代替わりするごとに少しづつ増築していくものなのだ、とテルミンはアンハルト大佐から聞いた。
当初はひどくシンプルな建物だったらしい。だがそれは次第に入る人間や、増築を命じられた人間の趣味が入り交じり、現在ではひどく複雑怪奇な内部の建物になってしまっているのだ。
そしてヘラはそんなこの官邸の中を歩き回るのが好きらしく、よくこの中で行方知れずになっては、見つけようとする警備員をからかったりするのだという。
夕刻に、「昼食」を摂り、夜中に首相のゲオルギイが戻ってくる。来ない日もある。
また逆に、昼間に空き時間ができた、ということで首相が戻ってくることもある。
いずれにせよ、そんな時間に、テルミンはその場を離れなくてはならない。無言で、一礼して、ヘラの細い肩を抱いて部屋の中に入っていくのを見て見なかったことにしなくてはならない。
彼は小さな胸の端末が自分を呼び出すまで、何処かで待機していなくてはならない。
あまり遠くてはいけない。予想はつくのだ。あの首相が、あの愛人と逢っている間、だけなのだから。ただそれはどれだけの時間なのか判らない。三十分なのか、一時間なのか…… それとももっと長いのか。
テルミンはその中途半端な時間を持て余した。もともと根が真面目なので、その時間を何やら他の暇な兵士や士官と共に遊んで過ごそう、と思うことはできなかったのだ。
そんな時に、彼の目に飛び込んできたのが、最寄りの首府中央図書館だった。そうだここなら、と彼も思った。
この程度の距離なら、呼ばれても十分小走りに駆ければ、元の場所に戻ることができる。
そして、数日その場所に通ううち、彼は書庫の存在に思い当たった。自分の勤務先を司書に述べたら、あっさりと彼はフリーパスを手にすることができた。
そして、地下の書庫に、彼は足を踏み入れたのである。
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一度足を踏み入れると、そこは彼にとって興味深いものが多いことに気がついた。例えば、入植当時の資料。例えば、長い戦争の間の人々の生活の記録。
彼は士官学校では、どちらかというと社会科学系のものが得意だった。友人で先輩のケンネルが自然科学系のものが得意だったのに対し、彼の興味はあくまで人間と、それが作り出す社会にあったのだ。
実際その学んだ知識が現実のこの職務の上に役立つことが無くとも、それはそれで面白いものだ、と考えていたのだ。
だがさすがにこんな資料が目の前にあると、自分の気持ちが晴れやかになっていくのを彼は感じていた。何せ、そう一般人には見られるものではないのだ。一般兵士であったとしても。
そんな心地よい、夕刻近い時間を彼はこの場で過ごすことが多くなっていた。上階のオートショップでパックの飲み物を買うと、この「休憩所」で、あまり無理しない程度の資料に読みふけることが多くなっていた。
そしてその日も、そんな風に一日が過ぎていくはずだったのだ。
だったが……
「熱心だね」
と、声がしたのでテルミンは顔を上げた。あれ、と彼は思った。先刻通路ですれ違った男がテーブルの脇に立っていた。
「ええまあ」
彼は曖昧に答える。そしてもしかしたら、自分は実は前に会っていた人物なのだろうか、と記憶の中をまさぐる。いや、やはり見覚えはない。
「最近、よく見かけるけど、君はこの近くに赴任しているのかい?」
「……ええ。すぐ近くの邸宅に」
それで通じたのだろう。男はにっこりと笑った。
「それは奇遇だな。僕も近くに赴任しているんだよ」
テルミンは首を微かに傾げた。すると男はそんな彼の様子に気付いたのか、こう付け加えた。
「僕は帝都からの派遣員なんだよ」