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「何だそりゃあ?」
ざわめきの中でも、その高い声は妙に響いた。しまった、とケンネルは自分の口を塞いだ。一瞬彼等の方に向けられた視線も、すぐにざわめきの中に消えていく。夕刻のビアホールでは、ありふれたものに過ぎない。
柔らかな暖色系の灯りのもと、あちこちでジョッキやピルスナーがかちん、と合わされる音が聞こえる。笑い声とざわめき。ゆでたてのソーセージをかじるぱり、という音。リクエストがあった曲が、ピアノの即興演奏で流される。
そして彼等の前にも、そんな場所に似つかわしい暖かい食事があった。小振りなソーセージと、揚げたての長細く切ったジャガイモがそれぞれ皿に山を作る。それにカップ型の器に入った、茶色のシチュウ。
昇進祝いだ、とケンネルは元後輩の友人を久しぶりに夕食に誘った。
ところがこの友人ときたら、どうも様子が変なのだ。元々そう健康そうに見える訳ではないが、どうも何かそれ以上に疲れた顔をしていた。
よっぽど今度配置された部署は、性に合いそうにないのだろうか、とケンネルはメニュウから適当に選び出しながらも考える。
疑問は疑問としてお祝いの言葉を向けてみた。すると、ありがとう、と言いつつも、何かひどくテルミンは複雑な笑顔を浮かべたのだ。ふうん、とケンネルはそれを聞くと、うなづいた。
「で何、テルミン、何か嫌ぁな上官が居たんか?」
「ええ? いやいや、そんなことは無いよ!」
手を胸の前でばたばたと横に振る。
その間に、まずはビール、とジョッキが二つ運ばれてきた。ちん、と軽い音を響かせて二人の間でジョッキが合わされる。
そして一口飲むと、ケンネルはさりげなく、だがやはり同じ問いを角度を変え、容赦なくぶつける。
「いや、そんなことは無いんだって。今度の俺の上官のアンハルト大佐って人は、かなりいい人だよ。まだずいぶん若いんだ。すごく有能で」
「お前がその人の副官って訳だよね?」
「そう。一応大佐がそこの警備隊を仕切っている形になっているから。俺はだからその副官で」
「いい人で有能かあ。お前がそうやって言うの珍しいからなあ。いい人はいい人だし有能は有能って言うしなあ」
「先輩……」
「だってそうじゃん。お前結構そのあたり辛辣だからさあ」
「俺はいつも本当のことを言ってるだけだよ。だってそうじゃないか。無能は無能だし、有能は有能だよ。それと人がいいとは別の話」
「そりゃあそうだけどさ。だからお前が『有能で人がいい』ってのは珍しいと違うの?」
ケンネルは言いながら、ジャガイモを一つ二つ、と口の中へ放り込む。
「いや、だからいい人かどうかは本当は判らないだけどさ。少なくともいい人に見えるんだよ。それで満足?」
はいはい、とケンネルは肩をすくめた。
「じゃあ何が気になったのさ」
「気になんてなってないって」
「うっそぉ」
言葉は軽いが、一言のもとの否定。
「嘘なんてついてないって」
「だってほら」
ぴ、とケンネルはテルミンの指先をフォークで示す。はっとしてテルミンは自分の手を見る。
「あ」
気がつくと、自分の手が、近くのナブキンを依っていた。彼は口を歪め、一本の紐になってしまった紙を、スプーンの横に置く。
「……いいけどさ」
「だからさあ、隠したって出るんだから、愚痴があるんなら言えばいいじゃん。俺は別に関係無いんだから、聞くくらいはできるよ?」
「だけどなあ」
「だけど何?」
なおも言い渋る元後輩を、ケンネルは自分には珍しいと思う程に突き詰めていた。
実際、テルミンがこれだけ言いにくそうにしていることは珍しい。それだけ、自分には士官学校時代――― いや、もっと前から、言いたいことは言い合ってきた仲なのだ。
ふう、とテルミンは脇のナプキンさしから一枚引き抜くと、胸ポケットのペンを出して、さらさらとその上に何かしら書き付けた。
何、とケンネルはぐっとその上に視線を寄せ――― 眉を寄せた。
「ホントかよ? それ」
「守秘義務はあるけどさ。でも…… なあ」
確かにな、とケンネルもうなづく。誰かに言いたい気持ちは山々なのだろう、と。
テルミンは、その書き付けたナプキンに、水を染ませて握りつぶしてから丸めた。
ああこれもいつものクセだよな、とケンネルはそんな友人の動作を見ながら思う。言ってはならないこと、だけど誰かにどうしても聞いてもらいたいことがある時、テルミンはこんな回りくどいやり方をする。
しかしさすがに今回はそれでも言いたくなかった訳だろう、とケンネルは納得した。あの首相に、少年めいた青年の愛人が居るなんて。
「で、どんな奴?」
肝心なところさえ暗黙の了解ができてしまえば、その事についての会話はそう難しくない。
「その様子だと、会ったんじゃないの? その当の本人に」
「先輩にはかなわないよ。うん、出会ったんだよ」
しかも眠り込んだ時を見られた。だがそのことをどうしてもテルミンは今ここで口に出せなかった。
「何かさあ、だから、『少年』だなあって」
「何さ、それ」
食事を再開させながらケンネルは訊ねた。
テルミンの視線が天井に向いてしまっている。このままでは食事が冷める、とばかりにケンネルの手の中のフォークは、ソーセージやらジャガイモやらに刺さっていた。
「だからさ、俺達が日々見慣れた同じ男、とは思えないってこと」
「そんなガキに見えたのか?」
「というよりは、胸の無い女の子に見えた」
テルミンの脳裏に、あのはだけたシャツの間から見えた白い肌がよぎる。うす茶色の乳首が、浮かび上がる。
彼は慌てて頭を横に振った。何で俺はこんなに克明に覚えているんだ、と自分で自分にため息をつきたくなる気分だった。
「そんな綺麗だったのかあ?」
さすがにケンネルもフォークの手を止めた。テルミンは迷わずにうなづく。
「だって先輩、あれを俺達と同じ年代の男って言ったら十人が十人、冗談、って言うよ? 髪だって巻き毛で長いし、目はでかいし、くっきりはっきりしてるし」
「お前だってでかいだろう? でもお前がそこまで言うんだから、何か並外れてそうなんだろうなあ。あ、俺ちょっと興味出てきちゃった」
ケンネルはそう言って、両手を胸の前で組み合わせる。するとテルミンは手をひらひらと振った。
「やめてやめて。俺、出来れば二度と会いたくない」
ぶる、と思わずテルミンは肩をすくめた。
「へ? 何で?」
何故だろう、と自分で口にしてしまってから、テルミンは思う。だけど確かに、そんな気持ちだったのだ。二度と会いたくはない。
奇妙な気分が、背中を押していた。あの時の姿を思い出せば思い出すだけ。
「ま、いいよ。でも勤務先だろ? 会ってしまったら?」
「一応彼には構うな、って言われたけど」
「だったらそれにしっかり従うことだよな。上の命令はちゃんと聞くもんだよ」
「先輩がそういうこと言う?」
「俺はちゃんとやってるよ? 何せ優秀な庁員だからねえ」
だがしかし、その言葉が自分の中で、別の意味にすり替えられることになるとは、テルミンはまだ気付いていなかった。