最終章 フランチェスカ

 次の日、私は部室にいた。いつもの椅子に座って、光が差す窓を見ている。銀と美優は机に突っ伏して、鏡花は文庫本を読む。

 普段の文劇部。ただ、暇なわけではない。乙黒先生を待っているのだ。

「訊きたいことですか。今からクラスの準備を手伝いに行くので、みなさんは部室で待っていてください。終わり次第、私の方から出向きます」

 職員室で言われてから、ちょうど三十分が経つ。いつ来るか分からないのだから、ヴォリエラで時間を潰すこともできない。だから部室で待つしかなかった。

 窓を見飽きたので、今度は机を見つめた。落書きがある。髪飾りをつけたウサギと、情けない表情を浮かべるオオカミの絵。そして、鳥かごから飛び立つ鳥が描かれている。何度も見たことがあった。落書きも、ウサギとオオカミも。

「それ、きっと『フランチェスカ』の絵だよな」

 鏡花が絵を覗いている。読書は中断したようだ。

「ウサギと髪飾り、それにオオカミの顔。どう考えても、悩みを相談してきた二匹に似ている。偶然とは思えない」

 それから、鏡花が私と視線を合わせた。平然とした顔だ。彼が昨日泣きじゃくっていたことは、私だけが知っている。だって共犯者だから。

「でも、最後の悩みを相談したのはフランだ。そしてヴォリエラに鳥はいない。じゃあ、この鳥は一体なんのことだろうか。不思議なものだな」

 そのとき、聞き慣れたパンプスの音が響く。一歩ずつ大きさを増す足音は、私たち四人に同様の人物を連想させるはずだ。なぜなら、冷やかし以外で文劇部を訪れるのは、白石先生か、顧問の先生くらいだから。

「失礼しました。遅くなってしまいました」

 額に汗を浮かべながら、乙黒先生が入ってきた。首筋も汗でびっしょりだ。気を利かせて私の席を譲ろうとするも、「このままで構いません」と断られてしまった。

「それで、訊きたいこととは」

 訝しげな表情の先生に、銀が切り出した。

「ネロって、先生のことですよね」

 次の瞬間、先生は顔色を変えて、奪うように台本を手に取った。それから、ぱらぱらとめくり始める。それを何度も繰り返しながら「どうして」と呟いている。

「台本には書いていないはずです。どうしてネロという言葉を知っているのですか」

「杉の根元に彫られてました」

 美優が澄ました顔で答えた。挙動不審になり、私たちの顔色を窺おうとする先生。

「本当に、誰かからネロのことを聞いたんじゃなくて?」

 首を横に振るのは鏡花だ。「この目で見ました」と言い切って、先生の目を見据える。銀と美優もそうするので、私は三人に従った。

 観念したのか、先生はうなだれて、台本を元の位置に戻した。表紙には「フランチェスカ」。作者は書かれていない。故意に名前を伏せたのだろう。なんらかの意図をもって。

「ネロと言われたら、もはや隠せません」

 それは、先生が台本を作ったという自供に変わりなかった。フランもヴォリエラも、ウサギもオオカミも、全て先生の物語だった。その裏付けだ。

「じゃあ、同じく所有者不明の『青い鳥』も、先生のものってことか」

 机の上に放置されている『青い鳥』をちらりと見ながら、銀は独り言のように言った。美優も納得したように頷いている。

 ところが、先生は否定した。自分が置いたのは台本だけだという。私は驚きを隠せなかった。思わず「えっ」と言葉を漏らす。まだ全ての謎は解けていない。ヴォリエラが縮む理由も含めて。

 そのとき、また扉が開いた。白石先生だった。

 のんびりとした足取りで、白石先生は乙黒先生に近付く。それから、おもむろに口を開いた。

「悪いけど、全部聞かせてもらったよ。乙黒先生」

 乙黒先生が顔を背ける。恥ずかしがっているのだろうか。その様子に微笑みながら、白石先生は机の『青い鳥』を手に取った。

「覚えているかな。当時、私は演劇部で、あなたは文芸部。お互いに芸術家気取りだったから、廊下ですれ違うたびに睨み合っていたよね」

 二人は同級生だったのだろうか。頭の中で情報を整理しながら、白石先生の思い出話に耳を傾ける。

「三年生の文化祭。あなたに張り合うつもりで、私は『青い鳥』を演じた。でも、あなたは未完成の『フランチェスカ』を展示した。戸惑ったよ。廊下で睨み合うほど創作に熱心だったあなたが、欠けた物語を展示するなんて」

 押し黙る乙黒先生。その表情から感情は読み取れない。一つため息をついてから、白石先生は続ける。

「だから、嬉しかったんだよ。同じ職場になって三年目、小説から台本になった『フランチェスカ』があってさ。それに応えるつもりで、『青い鳥』を置かせてもらっていた」

 白石先生が「ちょいと失礼」と机に腰を掛ける。白衣が垂れて、おぼつかない凧みたいに揺れている。

「私にも教えて。どうして今になって『フランチェスカ』を台本にしたのか」

 昨日の私は、ネロと白石先生が親しい関係にあると考えていた。どうやら的を射ていたらしい。二人は同僚で、同じ教員で、中学時代は文化部に所属していた。この瞬間だけは、名探偵の心地だった。

「いいけど、机に座るのはやめて。子供たちが見ているから」

 苦笑いをこぼした白石先生が「もう大人だもんね」と立ち上がる。どういうわけか、二人の間には懐かしいような雰囲気が漂っていた。

 扉に背を向けて立つ乙黒先生を、私たち五人が見つめている。緊張と緩和が入り混じった感覚だ。部室という気が引き締まらない場所で、先生という遠く離れた存在が喋ろうとしているから。

「単刀直入に言います」

 乙黒先生が、口を開く。

「それは、文劇部に『フランチェスカ』を演じさせるためです」

 銀が「マジか」と身を乗り出した。前向きな意味ではないだろう。それよりも、「先生に利用されていたのか」という心地なのだろうか。

「どうか恨んでください。なにしろ、私が台本を作った理由は、みなさんを侮っていたからです。文化祭までに台本が完成することはないだろう、と」

 つまりは見限られていたのだ。台本が作れないことを見越し、自ら作った台本を部室に置くことで、怠惰な私たちに利用させたかったのだろう。

「構いません。事実なら受け止めるまでです」

 こういった状況での鏡花は潔い。余計な口を挟むよりも、まずは相手に喋らせた方がいいと分かっているに違いない。去年の文化祭でもそうだった。

「それより、小説の『フランチェスカ』が未完成だった理由を訊きたいです」

 美優が真剣な眼差しで見つめる。白石先生もだ。最初は黙りこくっていた乙黒先生も、その気迫に押されてか、ゆっくりと口を開いた。

「本当は、文化祭の準備期間前に完成していたんです」

 白石先生が目を見張った。それから「じゃあどうして」と間髪入れずに問う。すると、まるで感情を押し殺すかのように、乙黒先生が深呼吸した。

「破かれたのよ。知らない誰かに」

 言葉を失った。先生たちよりも芸術に向き合ってきたという自負はない。しかし、積み上げてきたものが崩れた瞬間の感情なら、人一倍理解できる。去年の文化祭で、劇を批判された私たちだから。

「文化祭の二週間ほど前です。部室に行くと、床に破かれた原稿用紙が散らばってました。それが私の書いた『フランチェスカ』だとは、今だって、考えたくもありません」

 白石先生が、固まったまま動かない。

「急いで書き直しましたが、『終章』が間に合いませんでした。文化祭が終わる頃には、終章を書く気力すら失っていました。どれだけ努力しても、破られて、笑われて、無駄になってしまうのですから」

 思わず、中学校時代の乙黒先生を想像してしまった。白石先生に負けないように、なんとか書き終えた『フランチェスカ』。それは名前も知らない誰かに破られて、笑いの対象になっている。フランもウサギもオオカミも、中学生の子供じみた悪意によって命を奪われてしまう。どれほど怒り狂ったか、どれほど悔しかったか。

 原稿用紙に涙を垂らしながら、もう一度命を吹き込もうとしても、五体満足で蘇ることはない。クローンが生まれることはない。

 物語はプログラムじゃない。ガラス玉のように、繊細で透明な感情から生まれるんだ。

「私の無念を、みなさんに押しつけて申し訳ありません。しかし、文劇部は廃部がほぼ確実。しかも台本はまだ作られていない。だから、身勝手ながら、私の物語を……」

 すると鏡花が立ち上がり、乙黒先生の前まで歩み寄った。背中越しから表情は見えないものの、きっと笑いかけている。鏡花はそういう人だから。

「物語には、願いが込められてます」

 一瞬だけ、小学生の鏡花が見えた。その頃の私は、彼の話を聞くのが好きだったものだ。なぜなら、知らないことを知ることが、どれだけ楽しいかを教えてくれたからだ。

 ただ、今回は違う。私と鏡花、それに乙黒先生は知っている。物語には願いが込められているのだと。

「『フランチェスカ』の終章を教えてください。俺が責任を持って、フランの願いを受け継ぎます」

 劇的な言い回しも、文劇部の鏡花には似合っているように思えた。「フラン」という愛称で登場人物の名前を呼ぶからか、乙黒先生も少し動揺する素振りを見せている。「フランとは友達だもんな」と銀が話しかけると、鏡花は当然のように頷いた。

 これで、最後の悩みも解決されるのだろう。安堵するように、私は口角を上げる。

 ところが、乙黒先生は目を伏せた。

「それが、思い出せないんです」

 話はそう簡単ではないらしい。白石先生も、台本を手に取って「確かに最後がなかったね」と呟く。美優が分かりやすく肩を落とした。

 最初の『フランチェスカ』は破り捨てられた。文化祭で展示されたものも、終章が欠けた未完成の小説。つまり、乙黒先生が覚えていなければ、終章はどこにもないのだ。

 だからといって、好き勝手に創作するのも違う。ウサギとオオカミの物語に、炎を吐くドラゴンを登場させるわけにはいかない。中学生だった乙黒先生が思い描いていた、本来の終章を書かなければならない。それをフランも願っているはずだから。

「無理だよ。これじゃあ、完結できない」

 美優が声を震わせる。それを聞いて、乙黒先生も寂しそうな表情を浮かべた。一難去ってまた一難だ。窓を開けているのに、淀んだ空気が滞っている。

 文劇部の雰囲気は最悪だ。なぜ最悪か、それは無理だと思っているから。いや、できるかできないかで判断するのは違う。

「これは、悩みなんだよ」

 呟いたのは、私だ。全員の視線が集まるのを感じる。今までは怯んでいたかもしれない。ただ、それは今までの話だ。これからの私は、向こう見ずだから。

「判断の基準は、可能か不可能かじゃない」

 いつか聞いた銀の言葉だ。「時間を巻き戻す」という無理難題に諦めかけたとき、投げかけられた言葉だ。それを強く心に留めて、今日まで過ごしてきた。

「思い悩んでいたことを、勇気を出して打ち明けてくれたんだよ」

 先生たちには、なんのことかさっぱりだろう。それもそのはず。これは、まだ子供でいられる三人に向かって呼びかけている。それに、子供だからできることもあると教えてくれたのは、乙黒先生だから。

「フランのために、最後までできることを探そう」

 一緒にラインカーを押して、寝転がりながら笑った。ありのままでいることを教えてくれた。そして今も、台本の中で、孤独に耐えながら私たちを待っている。

 物語には願いが込められている。『フランチェスカ』もそうだったとしたら、きっと彼女自身のことだ。

 友達を見捨てちゃいけない。そして、希望を捨ててもいけない。

 私たちは子供だ。

 全部欲張って、全部手に入れるんだ。

「さすが副部長さん。頼もしいよ」

 鏡花に声をかけられた。笑いながら、彼は自分の椅子に戻っている。それから銀が「僕もそう思ってた」と調子外れに喋って、「わたしもそうかも」と美優も続ける。「美優は違うだろ」と鏡花が指摘すると、なんだかおかしくなってきて、四人で笑い声を上げた。

「それでは、大人は退散しようかな」

 白石先生が微笑んで、部室を出ていく。律儀な鏡花は「ありがとうございました」と頭を下げた。続けて銀と美優も。油断していたからか、私だけ言いそびれてしまった。

 乙黒先生も、白石先生に続くようだ。私も鏡花の真似をしたくなって、口を開こうとする。しかし、鏡花の声によって遮られてしまった。

「そういえば、『ヴォリエラ』ってどういう意味なんでしょうか」

 それを聞いて、先生が足を止めた。顎に手を当てて、考えるような動作をする。なぜ鏡花がヴォリエラの意味を訊いたのかは、薄々勘付いていた。私が白石先生にネロの意味を訊いたときのように、なにかしらの意図が隠れていると踏んだのだろう。

 乙黒先生は、鏡花の目を見据えて、ゆっくりと口を開いた。

「鳥かご」

 扉が閉まる音と、遠ざかるパンプスの足音。鏡花は目を見張ったまま、数十秒固まっていた。

 沈黙が部室を包む。これまでの沈黙は、私たちに不幸をもたらしてきた。しかし今は違う。たとえば、それは雲から差し込む一筋の光で、地獄から逃れられる蜘蛛の糸だ。だが、今回は私たちらしく、駄文劇部を打開する突破口と言い表すべきだろう。

「分かった」

 そう言うや否や、鏡花は台本に手を伸ばした。ただ、分からないことが多すぎて、何が分かったのかが解せない。それを知るために、私も彼に続く。

 ヴォリエラに着くと、フランが出迎えてくれた。純粋な笑顔だ。それを見るたびに、いつも晴れやかな気持ちになる。今だけを除いて。

 銀と美優も台本から出てくると、鏡花が深刻そうな顔つきをした。

「三人とも、今から話すことを受け入れてほしい」

 嫌な予感がする。それも、とびっきり。笑顔を浮かべていたフランも、鏡花の雰囲気に飲まれたのか、神妙な面持ちになっている。

 嫌な予感は、私を嫌な気持ちにさせる。だから、頭の中を空っぽにして、鏡花が切り出すのを待つことにした。そのときは、すぐに訪れた。

「結論から言うと、もうフランには会えなくなる」

 それを聞いて、一番寂しそうな表情をしていたのは、やはりフランだった。なんだか悪いことをしている気がして、思わず彼女の手を握ってしまう。

「分かってくれ。そうじゃないと、フランが眠ることはできない」

 同意を求めるように、鏡花が視線を送る。銀は一度だけ頷いた。美優も、戸惑う様子を見せながらも、最終的には受け入れたようだ。

 私はというと、うつむくフランに「大丈夫だよ」と声をかけている。部長の仕事を補助するのが、副部長の役目なのだから。

「さて、まずは間違いを訂正したい。それは、ヴォリエラが台本の中だと思い込んでいたことだ」

 今までの鏡花の考えは、ウサギやオオカミといった生物が物語のキャラクターで、ヴォリエラも物語の舞台だというものだ。フランの悩みは『フランチェスカ』を完結させることだったが、作者の乙黒先生が覚えていない以上、悩みを解決するのは不可能だと思われていた。

 それに加えて、どうしてヴォリエラが縮むのか、納得できる理由が思い浮かばない。八方塞がりの状態だ。それを打開するような考えを、鏡花は持ってきたのだろう。

「ヴォリエラは、台本の中にあるんじゃない」

 それから、鏡花は杉を見上げた。

「中学生だった乙黒先生の空想にあるんだ」

 荒い息をするフランに、乙黒先生のことを教えた。先生こそがネロで、世界を創った神様。今は私たちの先生だということも。「優しい神様で良かった」と、弱々しい声で呟いている。

 一方の鏡花は、杉の根元を指さす。私たちが視線を向けると、「ネロ」の字があった。

「乙黒先生曰く、ネロという言葉は台本の中に存在しない。これは、ヴォリエラが台本と繋がってないことの裏付けになる」

「でも、文化祭で展示された、小説の方の『フランチェスカ』って可能性もあるよ」

 美優が指摘した。しかし、鏡花は首を横に振る。

「ヴォリエラはどこにもない場所。物体としては存在しない空想ならまだしも、文化祭で展示して公開したなら、それは存在するんじゃないかな」

 辺りを見渡しながら、更に話を続ける鏡花。

「それに、さっき聞いたことを思い出せ。乙黒先生は『文化祭が終わる頃には、終章を書く気力すら失っていました』と言った。じゃあ、こんなことは考えられないだろうか」

 鏡花が、美優の目を見据えた。

「ヴォリエラが縮まっているのは、空想が失われているから。つまり、乙黒先生の中で『フランチェスカ』が忘れ去られようとしてるから」

 確かに、物語は空想から生まれる。最初の『フランチェスカ』を書き終えた後でも、頭の中にキャラクターが残っているのはおかしい話ではない。

「それで、どうする気なんだ。どうすれば『フランチェスカ』が完結するんだよ」

 杉に寄りかかりながら、銀が尋ねる。すると、鏡花は平然とした態度で「下」を指さした。

「飛び降りる」

 唖然とした。銀も美優も、フランの手を握っていた私までも。

 空からパラシュートもなしに飛び降りるなんて、鏡花は何を考えているのだろうか。

「確かに、乙黒先生は終章を覚えてないかもしれない。でも、ちゃんとヒントはあったんだよ」

「ヒントはあった」

 私が復唱すると、鏡花は一つ頷いた。

「机の落書きだよ」

 すぐに思い出した。ウサギ、オオカミ、それから鳥の落書き。中学生の頃か、この中学校に就いてからかは知らないが、あれを描いたのは乙黒先生だったのだろう。

「ヴォリエラは、イタリア語で鳥かご。その鳥は、きっと俺たちのことなんだ。だから飛び降りるんだよ」

 手がくすぐったいと感じて、それがフランの仕業ということに気付いた。彼女は「鏡花さんはすごいな」と寂しく笑っている。

「それに、ヴォリエラが空想の産物なら、まだ『終章』の記憶があるかもしれない。雲の先に結末があるなら、俺は知りたいんだ」

 すると、銀が声を荒げた。

「落ちたら死ぬかもしれないんだぞ。大丈夫だって確証はあるのか。想像の中だから羽が生えるとか言ったら、僕は信用できない」

 魔法陣を描いたとき、一番端で怖い思いをした銀の言葉だ。重みを感じる。

 ところが、彼の必死な抗議も「確証はある」という鏡花の反論で潰えた。

「乙黒先生が『フランチェスカ』を書いたなら、先生の創作論だって含まれてるはずなんだ。思い返してみろ、夏祭りに聞いた先生の言葉を」

 回想するのに、少し時間がかかる。私が無愛想な表情を浮かべていたからか、フランが心配してくれた。「気にしないで」と声をかける。一番心配なのは、フランの方なのに。

 少しして、記憶の底で煌めくものを発見した。それは乙黒先生の言葉だ。

 多少こもるような声で、その言葉が再生される。

「物語を作るコツがあります。それは、序盤に大事なものを持ってくることです」

 私が経験した『フランチェスカ』の物語が、想像の中でも同じだったとしたら、私たちが出会った初日に手がかりが隠されているはずだ。

「はじめまして、みなさん」

 あの日、杉の上から声が聞こえた。目を凝らすと、枝と葉の裏側に人影が見えた。

「『ヴォリエラ』へようこそ。さて、自己紹介をしましょう。私の名前は――」

 バランスを崩したのか、フランは大きく手を回し始めた。助けようと走り出すものの、強い風が吹き、あえなくフランが落下する。

 ところが、地面に激突するかと思われた彼女は、空中で速度を緩めた。あたかも階段を降りたときのように、足からすたりと着地した。杉の高さは、優に十メートルは超えていたはずだった。

「私の名前は、フランチェスカ」

 それが、フランとの出会いだった。

「フランだけが落ちても無傷なんて、どうも思えないんだよな」

 上から声が聞こえて、鏡花が杉を上っていることに気付いた。フランよりは遅いものの、そろそろ頂上に届きそうな速さだった。

 ところが、鏡花が突然手を離した。重力に囚われて、真っ逆さまに落下していく。美優が目を背けた。一方、銀は凝視している。見届けるつもりだ。

 地面に激突寸前の鏡花は、しかし、速度を緩めた。まるで散りゆく桜の花びらみたいに、優雅に舞い降りて、ゆっくりと地面に足をつけた。

「ビンゴだ。みんな、無傷だぞ」

 鏡花がはしゃいだ。高い所から落ちても大丈夫なのは、フランの特権ではなかったのだ。

 それを見た銀は、自分も試そうとしたのか、杉に上り始めた。頂上から落下して、結果は同様。痛がる素振りもない。ようやく安全だと気付いた美優は「男子って、こういうの好きだからね」と苦笑いしていた。

 ともかく、高い所から落ちても無事だということが証明された。今思えば、これがヴォリエラで行う最後の実験だったのだろう。呼吸が少し苦しくなって、自分が寂しいと感じていることに気付いた。

「宇野さん」

 フランが、私の手を離す。汗でぐっしょりと濡れていた。

「『望むもの』は、台本でしたよね」

 そういえば、悩みを解決する対価に台本を受け取る約束だった。様々なことが起こったものだから、つい忘れてしまっていた。

「いや、台本はもういいかな」

 ただ、もう台本は要らないだろう。私は美優と顔を見合わせて、忍び笑いをした。それから、不思議がる様子のフランと向き合う。美優は「面白いアイデアが思いついたんだ」と話していた。

「それでは、『望むもの』はどうするんですか?」

 いつの間にか、隣に鏡花が立っている。銀も跳ねることに飽きたようで、こちらに向かってきた。そこで、三人と『望むもの』を相談する。驚くことに、満場一致で決まった。

 代表して、副部長の私が言う。

「乙黒先生に、『部員全員が写った、卒業アルバム用の写真』を頼まれてるんだ」

 副部長の私だから言えることだ。

「私たちの『望むもの』は、五人の写真だよ」

 その途端、フランが勢いよく抱きついてきた。強い力で杉に押しつけられる。息苦しさを覚えながら、私も抱き返した。たんぽぽの良い匂いがする。

「写真、私にもください」

「もちろん。写真を望めば、フランも寂しくないって思ったんだ」

 台本は「面白いアイデア」を活用すればいいのだから、『望むもの』はフランのために使おう。そう三人と相談していたのだ。

 当然だ。全部欲張って、全部手に入れるのだから。

 美優が三脚とカメラを持ってきた。元演劇部の部室にあったという。その幸運に感謝しながら、五人で杉の前に並んだ。

 せっかくだから、何十枚も撮った。シャッターの音が鳴り、そのたびに誰かが変な顔をしていた。腹から笑って、呼吸が上手くできない。それが幸せだと気付けて良かった。

 ひとしきり撮り終えて、私たちはヴォリエラの端に立った。もっと一緒にいたかったものの、そろそろ下校時間だった。悩みも解決しなければいけない。

 一歩進めば、落下。二度と戻れない。フランにも会えなくなる。

「ありがとう。楽しかった」

 振り向かずに言うのが精一杯だった。声が震えていたかもしれない。でも、フランの顔を見たら踏みとどまってしまう。それではいけない。全ての悩みを解決しなければ、彼女との写真を残すことができない。

「みなさんのこと、忘れません」

「俺だって、ずっと忘れないからな」

 鏡花が微笑む。青い空を見つめながら、後ろにいるはずの彼女に向けて話した。

 それから、私たちは手を繋いだ。右には美優、左には銀と鏡花がいる。フランと約束したのだ。飛び降りるときは、背中を押してほしいと。それが私たちの勇気になるから、と。

「押して」

 語りかける。後ろから、深呼吸するような音が聞こえる。

 木を蹴るような音。草を踏み荒らす足音。

 強い風が吹いて、また止んだ。

 吐息のような声が聞こえる。

「さようなら」

 背中に衝撃を受けた。

 視界が、青から雲へ。繋いだ手はチェーンのように繋がって、三人を道連れにする。遂に足が地面を離れて、風だけが私を支えている。

 今、私は、鳥かごから飛び立った。

 雲を貫く。ただ真っ白な視界。瞼が重力に引っ張られて、遮ることも許されない。時間にして十秒ほど。そして、プールに飛び込んだときのような、あの感覚が訪れた。

 体が竜のようにうねる。視界が二転三転する。青空を翔けて、獣の遠吠えが轟く夜の丘を飛び、黄色い花畑に鼻を支配される。

 突如視界が暗転した。少しして、ペープサートのような光景が飛び込んでくる。舞台には、ウサギとオオカミ、そして栗色の髪をした少女がいた。

 懐かしい誰かが、優しい声で語りかけている。

 たんぽぽの可愛い髪飾りをつけたウサギは、食べてもいないニンジンを食べたと、濡れ衣を着せられてしまいました。

「もしかしたら、本当にニンジンを食べてしまったのかもしれない」

 ウサギは自分を見失ってしまいます。そこにオオカミがやってきて、言いました。

「僕だけでも信じましょう。僕があなたのそばにいましょう」

 すると、それを見かねた美しい少女が現れました。フランチェスカです。彼女はウサギを励まし、こんなことを提案しました。

「自分を信じてください。ありのままの姿でいてください。それを信じてくれる、素晴らしい友達がいるのですから」

 フランチェスカに心を動かされたウサギは、自分を信じました。そして、ありのままを周りに伝えることができました。

 大切なのは、自分を信じること。そして、大事な人のそばにいること。

 フランチェスカは、今もあなたの中で眠っています。いつか、あなたが自分自身を信じられなくなったとき、彼女は目覚めるでしょう。

 ありのままのあなたでいるために。


 文化祭当日を迎えた。私たちにとっては、中学校最後の行事だった。

「ダンス部の公演でした。みなさん、もう一度盛大な拍手をお願いします」

 司会がそう喋ると、大きな拍手が響いた。体育館の舞台袖にいる私に聞こえるほどの喝采だった。

 次は私たちの番だ。激しく鼓動を打つ心臓を押さえながら、これまでのことを回想する。

 ヴォリエラから飛び降りた後、私たちは部室で目が覚めた。机に突っ伏していたからか、体が所々痛むようでもあった。しかし、それを気にかけることはなかった。下校時間に追われていたからだ。

 あれから、ヴォリエラには行けなくなった。台本は、ただの台本となってしまった。

 フランもヴォリエラも、本当は夢だったのだろうかと今でも考える。しかし、カメラで撮った写真には、確かにフランが写っていた。何十枚も撮って、全てに彼女がいた。それを見るたびに、自分は大人に近付いてしまったのだろうと悲しくなる。

 写真を望んだ代わりに、台本は「面白いアイデア」を使って、自分たちで作った。

「簡単だったな」と鏡花は笑っていた。当たり前だ。なにしろ、作った台本は『フランチェスカ』を参考にしたのだから。

「続いては、文劇部の公演です」

 司会が言うや否や、とても大きな声で「駄文劇部」と叫ぶ生徒がいる。文化祭だから、何を言っても許されると思っているのだろう。

「今回の劇は、衝撃作です。それもそのはず。なんと、原作は乙黒先生が書いた小説です」

 会場がざわめく。中には「乙黒先生」と連呼する生徒も現れた。愛されているのか、馬鹿にされているのか、いまいち分からない。

「冤罪をかけられたウサギと、大切なものを守りたいオオカミ。そして、『本当のあなた』を伝える女の子が織りなす物語は、文劇部の部室にて展示されています」

 私たちは、乙黒先生に『フランチェスカ』の結末を伝えた。すると「思い出しました」と遠い目をしつつ、文劇部から原稿用紙を取っていった。先生曰く「今度こそ完結させる」という。結果的に、文化祭当日になって完成した。これでフランも眠れることだろう。

「文劇部の公演は、乙黒先生の小説と、実際に部員が巻き込まれた冤罪事件が基になっているといいます」

 またもやざわめく会場。舞台袖から観客席を見ると、清水さんが分かりやすく動揺していた。前方の席に座る前島さんも、目が泳いでいるのが確認できる。

「あの夏祭りなんて、もう思い出したくもないんだけどなあ」

 鏡花がそう呟くから、私たちは笑った。劇だというのに、私も鏡花も制服姿だ。一方、銀はセーラー服を着ている。元々坊主だからか、かつらが新鮮だった。

「もう一人部員がいればなあ。僕がスカートを履くことはなかったのに」

「しょうがないよ。わたしがフラン役なら、まえし……犯人役は銀しかいないもん」

 同性の私から見ても美形な美優だから、ぴったりな役目が存在した。乳白色を基調としたフリルのドレスに身を包めば、フランス人形の生き写しとまではいかないものの、それでも二度見するほど美しい。事実、銀が何度も横目で見ている。頬が赤いのは、化粧のせいではないだろう。

「それに、鏡花も宇野は本人役だからね」

 私たちは、あの夏祭りを再現しようとしている。前島さんと清水さんの自供を聞いた以上、私たちには公表する権利がある。それは冤罪を晴らすためかもしれないし、鏡花のありのままを伝えるためかもしれない。

 どちらにせよ、今度こそ鏡花を救える。文劇部を守れる。大事な人のそばにいられる。

「それでは始めましょう。文劇部で、題名は――」

 舞台幕が閉まっているステージ。スポットライトのない、暗い場所。

 それを明るく照らすために、私たちは、一歩を踏み出した。

「劇場版フランチェスカ」