ゆっくりと、首を横に振った。
理知的な彼が暴力を振るうなど、まず有り得ないと思った。しかし、ドッキリだとも考えられない。銀は目を伏せているし、美優は声を詰まらせながら泣いている。夏も本番に差し掛かる時期なのに、私は冷や汗が止まらなかった。
「駄文劇部も、暴力に頼ったらゴミだな。ゴミ」
開かれた扉の向こうから、見覚えのある男子がからかってきた。昨日「一般で受けろよ」と呟いていた男子だった。邪魔者の鏡花が起こした事件を聞いて、堂々と文劇部を批判できると思ったのだろう。事実、私たちは何も言い返せなかった。
文劇部の部室は学校の隅にある。何か目的でもない限り、校舎を往復するのは億劫だ。つまり「鏡花が生徒を殴った」という事実は、それに値する目的ということになる。
その後も、三回ほど冷やかしを受けた。ただ、銀が取り乱すことはなかった。冷やかしの足音が遠ざかるたびに「ふざけんな」と声を震わせるだけだ。
「真実なんかどうでもいいんだよ。何か起こったから騒ぎたいだけなんだ、あいつら。前島がどういう人間か知らないのに。出しゃばんなよ」
銀は一度、前島に面と向かって「駄文劇部」と呼ばれたことがある。個人的な恨みもあるのだろう。拳を机に置いて、声を張り上げた。
「鏡花。お前、何があったんだよ」
鏡花は、小学校の頃から無遅刻無欠席だった。私が部室に入ると、彼に先を越されていることがほとんどだった。扉を開けると、「今日もお疲れさん」と声をかけてくれる。その声を聞くことで、肩の力を抜くことができる。ここが居場所なんだと思える。
その彼が、文劇部に来ていない。
始業を告げるチャイムが鳴っても、私は立ち上がれなかった。「宇野、行かないと」と美優が声をかけてくれる。だが、足に力が入らない。生まれたての小鹿みたいに震える。
「先に行ってて」
二人にそう伝えると、銀は一度だけ振り返り、そのまま部室を出た。でも、銀に行ってほしくなかった。「行って」と口に出したのは私なのに。それが矛盾をはらんだ感情だと、私自身ですら分かっていた。
一方、美優は立ったままだ。しかし唇を震わせている。「行くよ」と何度も私の腕を引っ張る。それでも動けない。私が自分勝手なのは、心の深いところで十分に理解している。
「ずるいよ。わたしだって、行きたくないのに」
数分ほど経った頃だろうか。美優が語気を強めて、私を睨んだ。
「教室に行けば、みんなから馬鹿にされなきゃいけない。前島さんの、宇野の悪口に同調しなきゃいけない。それでも、文劇部があったから、教室に行けたんだよ」
私が美優の陰口を聞いていたように、彼女も私を罵倒する声に頷き続けたのだろう。あの日、美優が保健室で涙を流していた理由が、少しだけ分かったような気がする。
「文劇部が生きてこれたのは、鏡花が部長だったから。頭が良くて、明るくて、優しい鏡花が中心だから」
その言葉には、鏡花に対する特別な思いが含まれていたのだろう。そうだ、美優は鏡花が好きなんだ。私の友達に恋をしてしまったんだ。
「あろうことか、部長の鏡花が女子に暴力を振るった。わたしには、もう文劇部も居場所もない」
無性に腹が立った。「居場所もない」なんて、まるで私と銀が友達ではないかのような、自己中心的なな言い方だ。だったら、保健室で見せた涙は、元演劇部らしく演技だったと主張するのか。
鏡花に好かれるために、私を利用したのか。美優は。
「それでも、教室には行かないといけない。わたしたちは受験生だから」
うるさい。吐息のような声が漏れる。
「宇野は、自分だけが傷付いたって思ってるんだよ」
うるさい。今度は、部屋に響き渡るように叫んだ。美優がのけぞり、言葉が途切れる。沈黙を迎えることなく、私は座ったまま息を荒くした。
「『文劇部も居場所もない』って、私と銀を無視したようなこと言ったのに、偉そうに説教しないでよ」
正常ではなかった。反射的に、脊髄だけで喋っていた。
「本当は見下してるくせに。自分の方が美人だとか、成績が良いとか、思ってるんでしょ。前島さんの陰口も、本当にそう思って――」
最後まで言えなかった。美優が「絶対に、違う」と声を張り上げたからだ。
「宇野は友達だよ。だから一緒に来てほしいのに。ねえ、宇野がいなかったら、わたし、とっくに不登校になってる。信じてよ。どうして、どうして見下してるなんて思うの」
ようやく、自分が愚かだということに気が付いた。それからすぐに「ごめん」と呟く。しかし、目を合わせることができない。目を向ける資格もない。
鏡花が前島さんを殴ったなら、私は美優の心に包丁を突き立ててしまったんだ。
美優が部室に来なくなったら、私のせいだ。
「無理に説得して、ごめんね」
散らかった部屋みたいに乱れた感情が、大事な友達を傷付けてしまった。謝らせてしまった。それなのに、机の落書きを見つめることしかできない。大切なものが、どんどん手の中から離れていく。翼を広げずに、まるで零れ落ちるかのように墜落する。
「わたし、教室で待ってるから」
扉が開いて、また閉まり、足音が遠ざかる。
私だけが取り残された部室。現実から逃げるように、私は机に突っ伏せた。ほのかな木の香りだけを残して、何も分からなくなりたかった。
机に突っ伏した私に声をかけるのは、決まって鏡花の役割だった。それは小学六年生の頃から続いていたものだ。話す話題も「おすすめされた本読んだよ」とか「図書館に行こうよ」とか、いつも私に合わせてくれた。彼は昔からそういう人だった。
思えば、鏡花が変わってしまったのも、その頃からだった。彼はどんどん賢くなって、理知的になって、プールの授業に参加しなくなった。私の知らないところで、大人になってしまった。
小学六年生は、私がクラスから疎外された時期だ。
鏡花のお父さんが植物状態になり、鏡花が水泳をやめた時期だ。
私に声をかける友達は、もう部室の中にはいない。各々が考えて、自分の意思で行動している。自分が自分でいられる鳥かごから、翼を広げて、残酷で苦しい現実へと飛び立つ。
私だけが取り残された部室。
おもむろに顔を上げたとき、未だに置いてある『青い鳥』と、台本が目に入った。
ヴォリエラの景色が頭に浮かぶ。霧のような雲から垣間見える、あの青い空が思い浮かぶ。杉の下には、美しい少女が座っている。
台本に手を伸ばせば、私はフランに会える。しかし、美優を待たせてしまう。
右手を出した直後に、引っ込めた。それを何度も繰り返した。
空想に逃げることも、現実と向き合うこともしない。前にも後ろにも進めなくて、手を動かすこともやめた。それから、うなだれるしかなかった。
間もなくして、足音が響く。それからドアノブを回す音が鳴る。振り向くや否や、勢いよく扉が開かれた。現れたのは、銀でも美優でも、鏡花でもなかった。
「おはようございます」
乙黒先生だ。荒々しい仕草とは裏腹に、言葉と表情は穏やかだった。それがかえって息苦しい。文劇部に失望したのかもしれない、と思った。なぜなら、先生も事情を知っているはずだから。
先生は、机の上にある台本を見やった。表紙に書かれている「フランチェスカ」の文字を読み上げて、それから、台本に触れた。体が吸い込まれることはなかった。
まるでウサギを撫でるかのように、大事そうにページをめくる先生。疑問を抱いたものの「どうしてヴォリエラに行けないのか」なんて訊けるはずがない。その存在は、文劇部とフランの秘密だからだ。そこで、おずおずと、もう一つの疑問を尋ねる。
「どうして、私が部室にいるって分かったんですか」
「渡辺さんが教えてくれました」
どうやら美優は、自分が部室から離れた後も、私のことを案じてくれたらしい。一度でも「見下してるくせに」と彼女に言い放った事実が、今となって胸に突き刺さる。
先生曰く、美優とは廊下で出くわしたという。「桜井さんと一緒じゃないのですか」と尋ねたところ、正直に私と喧嘩したことを話したらしい。それから「教室まで一緒に来てくれますか」と頼まれて、二人で階段を上ったものの、途中で美優がうずくまってしまったという。
「今は保健室にいます。白石先生に任せているので、大丈夫でしょう」
それを聞いて、安堵と悔しさを同時に覚えた。
美優が教室に行かなかったことで、悪意の矢を向けられることはなかった。しかし、私は彼女のそばにいられなかった。感情が先走って、美優を怒鳴って、大事なときに一人ぼっちにさせてしまったのだ。
友達失格だ。スカートの裾を、しわになるほど強く握る。すると、先生が静かに台本を閉じた。
「渡辺さんを保健室に連れて行く途中に、伝言を預かりました」
伝言。思いがけず、去年の文化祭を回想した。乙黒先生に慰められた瞬間、感情を露わにした銀が泣きじゃくる。彼は「鏡花が止めなければ」と言った。
そういった恨み言が襲ってくることを連想した。「宇野がいれば」と、歯を食いしばる美優の顔が浮かんでくる。私は目を強く閉じて、それを受け止める覚悟をしていた。
ただ、耳に届いた言葉は、あまりにも想定外だった
「『あのとき保健室で言ってくれたことを、そのまま宇野に返します』と」
あのときとは、きっと、前島さんに「空気が読めない」と言われたときのこと。保健室のベッドで横たわる彼女に、私は声をかけたのだ。
「それも含めて、美優の友達になりたいって思ったんだよ」と。
身に覚えのある短所があるなら、それごと愛してしまえばいい。万が一、美優が本当に空気が読めなかったとしても、私の友達だということに変わりはない。そう思ったから言ったのだ。
そして、美優はその言葉を返してきた。
何が言いたいのか、ひしひしと伝わってくる。あのとき美優が流した涙の意味が、私の感情として伝わってくる。
たとえ喧嘩しても、自分が体調を崩すことになっても、宇野は友達だ。
なぜなら、それを含めて宇野だから。
私がどう思うかを見通して、その言葉を先生に預けたのだろう。奥手な彼女らしく、なんとも回りくどい方法で。
自分が一番苦しかったのにもかかわらず。
「一緒に、保健室に行きましょう」
先生の言葉に一つ頷いた。それからすくっと立ち上がった。私の友達でいてくれる美優には、これから最大限の敬意を示さなければならない。その敬意とは、一秒でも長く隣にいることだ。私が美優の居場所になるんだ。
背筋を伸ばした私を見て、先生は微笑んだ。
「そう、堂々としなさい。神崎くんが財布を盗んでも、みんなに罪はないのですから」
次の瞬間、私は後ずさりして、また椅子へと舞い戻っていた。
鏡花が財布を盗んだ。
先生は、一体なんのことを喋っているのだろうか。
鏡花が、窃盗。とうに頭が混乱していた私は、壊れたレコードのように「えっ」と何度も呟くことしかできない。
先生も私の異変に気付いたようで、ゆるめた頬を戻していた。そして、怪訝そうな表情を浮かべて「どうして落ち込んでいたのですか」と問いかけた。
私は、鏡花が前島さんを殴ったと聞いている。しかし先生は「財布を盗んでも」と言った。暴力と窃盗。私が聞いた話と、内容が食い違っているのだ。
「暴力は、結果のことです」
結果。そう復唱すると、先生が「部員として、事情を知る必要がありますね」と、私の向かい側にある椅子に腰かけた。いつもは美優が座っている席だった。美優と銀を交えず、私だけに話すつもりだ。いや、二人は既に事情を知っていたのだろう。三人の中で、最後に部室に来たのは私だったから。
「土曜日の夏祭りを、覚えていますか」
先生に訊かれた。もちろん覚えている。美優の浴衣、銀の甚兵衛、鏡花の制服姿が、今も鮮明に思い出せる。私の大切な記憶だ。文劇部の思い出だ。
「同じクラスの清水さんがいるでしょう。神崎くんは、清水さんの財布を盗んだのです」
耳を疑う。鏡花は物を奪う人じゃない。それどころか、与えてくれる人だ。居場所も、友達も、思い出も。何もかも彼からの贈り物だ。そんな鏡花のことだから、仮に暴力を振るったとしても、絶対に窃盗なんかしない。
とはいえ、先生の話は聞こう。私は居住まいを正した。
「翌日の日曜日、午前八時半くらいかな。神崎くんが職員室に来て『バッグに入ってました。清水さんという人に渡してください』と、財布を届けてくれました。私が立ち会って確認したら、中には二万四千円が入っていましてね。中学生にしては大金でしたから、よく覚えています」
ここまでは問題ない。財布は鏡花によって届けられたし、中身も入っていた。それにもかかわらず、どうして鏡花が悪者になってしまうのかが解せない。
「問題は、月曜日の放課後です」
先生が私の目を見据えた。「覚悟して聞け」と宣告されているかのようだ。
「財布を取りに来た清水さんが、お金が足りないと主張し始めたのです。『四万円を持って祭りに来たのに、一日で一万円以上減るわけがない』と」
その裏付けとして、家を出る前に、母親に財布の中身を見せたという。「今日はこれだけ持って行くよ」という意味合いを込めて。四万円だなんて、中学生が持つには大金のように思える。しかし、それは家庭の事情なのだろう。
「それを聞いて、すぐに清水さんのお母さんに連絡を取りました。すると、確かに四万円あったそうです。そこで、神崎くんを呼び出しました。ですが『自分は盗んでない』と反論します」
当たり前だ。鏡花に同調するように、私は「そうですよ」と小さく呟いた。
「だから、清水さんと一緒にいた前島さんも呼んだのです。前島さんも言ってました。『清水さんがお金持ちアピールをしてたときに、確かに四万円入っているのを見た』と」
前島さんも清水さんも、そのお母さんも、全員ピエロだ。そうとしか思えない。思えないのに、「現実から逃げるな」とでも言わんばかりに、先生は目を離さない。
「居合わせた私は、神崎くんと一緒にいた桜井さんたちを探そうと、一旦その場から離れたんです。今思えば、あのとき目を離してしまったから……」
月曜日の放課後、私は校舎にいなかった。台本のアイデアをまとめるために、すぐさま帰ってしまったからだ。今朝の銀と美優を見るに、二人も私と同じだったのだろう。
「他の先生が話していたのですが、前島さんは、神崎くんが盗んだと決めつけていたようです。だから、神崎くんの名前を何度も馬鹿にして、怒るように挑発した、と」
土曜日の朝、鏡花と前島さんが言い争ったことを回想する。彼女が「女の子みたいな名前」と失笑したとき、鏡花の顔が強張った。その顔を見ていたのは私だけだと思っていた。しかし、前島さんも同様だったに違いない。そうでなければ、鏡花を感情的にする手段は思いつかないはずだから。
「文劇部の誰も見つけられず、私が戻ってきたときには手遅れでした。前島さんがお腹を押さえながら、床に横たわっていました」
その横には、自分が殴ったと隠す気すらない鏡花がいたという。
「これで全てです。神崎くんは、最後まで窃盗を否定していました。ですが、暴力を振るってしまった以上、神崎くんのことを信じるのは……」
「窃盗なんかしません」
今度は、私が先生の目を見据えた。「聞いてください」と願うように。
「夏祭りで、私は鏡花とずっと一緒にいました。離れたのは、鏡花が銀と射的に行ったときだけです。そして銀は、たとえ友達だったとしても、自分の正義を押し通す人です。銀が隣にいるのに、鏡花が窃盗なんてするでしょうか」
頭に浮かんでいたのは、私と銀が言い争いをしたときに聞いた言葉だ。彼の「プライドはないのかよ。自分で自分が恥ずかしくないのかよ」という、部員である私に向けての軽蔑。
友達にも、高校生にも、平等に歯向かう銀だ。彼がそばにいながら、鏡花は窃盗という姑息な行為に及ぶだろうか。
「今からでも抗議しに行きます」
私が椅子から立ち上がる。しかし、すぐに止められた。
「まずは、当事者同士の話し合いの場を設ける必要があります」
「鏡花はどこにいるんですか」
「自宅です。一週間の停学処分ですから」
「前島さんは、どうなったんですか」
「今日は病院ですが、明日には登校するでしょう」
そういうことじゃない。あいつに罰は与えられないのか、という質問だ。拳を強く握りしめる。私の意図を察したのか、先生は「前島さんたちは被害者ですから、何もないですよ」と言い直した。
確かに鏡花は前島さんを殴った。でも、一生つきまとう名前を否定したことだって同罪だ。私だって、「宇野」という苗字みたいな名前だから、小学校の頃は何度も馬鹿にされた。それでも鏡花がそばにいてくれた。
その「鏡花」が否定されたとき、誰がそばにいてくれたのだろうか。誰が守ってくれたのだろうか。居合わせた他の先生は、どのような対応をしていたのだろうか。
「学年一位と二位が起こした騒動ですから、できれば穏便に済ませたいのでしょう」
さも当然のように、先生が話す。「生徒を信じないのですか」と訊くも、「どちらも生徒なら、私は中立的でいなければいけない」と返された。
乙黒先生と白石先生だけは、文劇部を助けてくれると思っていた。しかし違う。思い上がりだった。平等に指導して、平等に優しくする。「中学生なんて、こんなもんだ」と、物事を甘く考えているんだ。だから鏡花だけが苦しんて、文劇部だけが叱られるんだ。
友達のために声を張り上げた銀は、先生たちから問題児として扱われた。
財布を届けた鏡花は、自分自身を否定されて、停学になった。
私と美優だって、そうなるかもしれない。他人事なんかじゃない。
余り物だから、何をしても許されると思われているんだ。あいつらも、先生たちも。
「神崎くんが苦しんでいたとき、桜井さんがいればよかったのに」
先生が伏し目がちに、吐息のような声で言った。それが無性に腹立たしかった。
「その日は台本を考えろって言ったのは、先生でしょ」
声が震える。
「『自分の家で考えてくるだけでも違う』って言ったのは、先生でしょ」
拳が震える。
先生が「桜井さんがいれば」と呟いたのは、「文劇部の誰かがいれば、鏡花が暴力に頼ることもなかった」という思いがあったのかもしれない。
だが、考えれば考えるほど「お前のせいで鏡花は苦しんだ」としか受け止められなかった。鏡花は優等生で、私は劣等生だから。
だから私は、先生がいかに矛盾した存在で、いかに上っ面だけで喋っているか、証明しようとしたのだ。
「文劇部は、鏡花が守ってくれた居場所です」
八畳の部室。私が私でいられる場所。
「鏡花にとっても、居場所でもあるべきです」
落書きが目立つ木の机。
「顧問の乙黒先生が『もう信じることは』って諦めちゃったら、鏡花、もう帰ってこれません。一人になっちゃいます。そんなの、私が絶対に許しません」
机を囲う椅子が四つ。もう一度、埋まる日は来るのだろうか。
「文劇部は鏡花の居場所だって、教えに行きます」
席を立って、ドアノブに手をかける。
「待って。桜井さんの言いたいこと、分かりますよ」
「嘘つかないで!」
先生に対して、私は大声を出してしまった。去年の銀みたいに、私も問題児として扱われるのかもしれない。でも、鏡花が一人になってしまうよりは全然いい。
「分からないでしょう。鏡花が内気だったことも、どんな思いで文劇部を守ってくれたかも」
恥でも、若気の至りでも、なんでもいい。自分を奮い立たせないと、水晶玉のように綺麗な、鏡花の笑顔が壊れてしまう。二度とえくぼが見られなくなってしまう。
勢いのまま廊下に飛び出した。とっくに授業が始まっていた。美優は保健室にいるはずだ。銀は、たった一人で悪評と立ち向かっているのだろうか。
それなら、私が鏡花の元に行かないと。私がそばにいないと。歯を食いしばる。
次の瞬間、地面を上手く蹴れなかった。靴ひもを踏んでしまったのだ。
大きな音を立てて転ぶ。肘をぶつける。痺れるような痛みだった。
横には一年生のクラスがあった。初老の男性教師が私を一瞥して、大きく舌打ちする。教室の中から生徒が顔を覗かせた。その一人が、「夏祭りで窃盗犯と一緒にいた人だ」と声に出した。
立ち上がろうにも、肘が痛くて力が入らない。その間にも、私の無様な姿が晒される。悪意の目と、嘲笑の唇。「駄文劇部」と誰かが呟き、男性教師が私を睨む。先生のことだから「授業が中断された」とでも思っているに違いない。
なんとか立ち上がり、走る。しかし、もう熱意は残っていなかった。転んで、舌打ちされて、鏡花が窃盗犯と決めつけられた。屈辱だった。プライドを踏みにじられた。名前も知らない誰かに、顔に泥を投げられたのだ。
それでも私が走ったのは、もはや鏡花に寄り添うためではない。都合の悪い現実から、私一人で逃げるためだった。
先生は一度「堂々としなさい」と言った。できるわけなかった。田舎のようにすぐ噂が広まる中学校で、肩身を狭くして本心を隠すこと以外に、どうやって生き延びる術があるのだろうか。
ぶつけた肘が痛くて、頭が回らない。
どうして私は走っていたのだろうか。何から逃げていたのだろうか。さっきまでは鮮明に思い出せたことが、足音を響かせるたびに消えていった。
やがて、玄関に辿り着く。立ち尽くす。なぜ走っていたか、忘れてしまったから。
後ろから、パンプスの音がする。それが誰なのかすぐに分かった。
熱が冷めたからか、先生に向けた私の悪意が、どれほど残酷か分かった。
「ごめんなさい」
振り返ることもできない。呟くことしかできない。
「先生は、ずっと寄り添ってくれたのに」
銀の言葉が、ふと頭をよぎる。「真実なんかどうでもいいんだよ。何か起こったから騒ぎたいだけなんだ。あいつら」という、部室でのぼやき。
仮に生徒がそうであったとしても、乙黒先生がそうだとは限らない。さっきまでの私は、文劇部以外は敵だと思っていたのだ。それに、先生は顧問なのに。
感情的な私だから、乙黒先生という特別な存在が見えていなかった。確かに先生は、私よりも鏡花のことを知らない。でも、知ろうとしてくれた。
私を黙らせるのではなく「話し合いの場を設ける必要があります」と、大人らしく冷静に、中立的に考えてくれた。
何気なく「あのとき目を離してしまったから」と、鏡花のために後悔してくれた。
乙黒先生は、何か起こったから騒ぎたいんじゃない。そのことに私は気付かず、先生を悪者扱いした。怒鳴った。都合が悪いから排除しようとした。
それを教えてくれたのは、肘の痛みと、「駄文劇部」という嘲笑だった。
「鏡花みたいに、大人じゃなくてごめんなさい」
私はしゃくりあげた。泣きたいのは先生の方なのに、と思った。余り物の文劇部にも普通に振る舞う先生は、きっと職員室でも少数派だ。自分が窮屈になると分かっているはずだ。
それなのに、私たちを気にかけてくれた。その私から「何も分かってない」と言われた。
「大丈夫。子供だからできることだって、たくさんありますよ」
私が振り返った瞬間、先生が抱き寄せてきた。やけに冷たい肌なのに、温かく感じた。
「神崎くんにぶつけてあげてください。ありのままの桜井さんを」
どうしてだろうか。先生がフランのように思えた。本当にフランが現れたかのような、不思議な感覚だった。彼女はヴォリエラにしかいないのに。
それから、二人で保健室に寄った。白石先生は席を外しているらしい。美優はベッドに腰掛けているものの、顔色は悪くない。それを確認した先生は「私は授業に戻ります」と、そのまま行ってしまった。
このとき、先生は授業の時間を削ってまで、私を気遣ってくれたのだと知った。先程「ごめんなさい」と謝ったとはいえ、本当に無礼なことをしたと、心の中で反省する。
私は美優にも頭を下げた。彼女の優しさを踏みにじったことを、今になって思い出したのだ。思うに、私は学習能力がないのだろう。成績も悪く、過ちを次に活かせず、何度も身近な人を傷付けてしまう。
「それを含めて友達だよ」
美優が発したその一言で、どれだけ救われただろうか。少なくとも、ベッドに二人で腰掛けられるほどには、仲直りできたはずだ。
扉が開いて、白石先生が入ってくる。私を見て少しきょとんとしていたものの、一部始終を話すと、すぐに納得してくれた。それから、遠い目をして呟いた。
「乙黒先生、昔の自分と重ね合わせてるのかなあ。文劇部のことを」
昔の自分。どういうことか問う前に、白石先生は退室してしまった。とはいえ、追いかけてまで訊いては失礼に値すると思い、私はそのままベッドの上にいた。
一時間目が終わるチャイムが鳴る。そして数分後、銀が保健室に入ってきた。
「二人とも、今から鏡花の家に行くぞ」
やたらと興奮しているようだ。一旦落ち着かせて、何を計画しているかを尋ねる。
「一時間目が英語なんだけど、乙黒先生が遅れてきたんだ。で、授業が終わった後に呼ばれたんだよ。先生に」
先生が授業をしていたのは、銀のクラスだったようだ。相槌を打ちながら、話に耳を傾ける。
「『欠席扱いにはしないので、二人を連れて、今から神崎くんの家に向かってください』って。だって、先生だぞ。先生が、学校にいなくてもいいって言ったんだぞ」
白石先生の呟きも相まって、乙黒先生の立場が分からなくなる。教師という中立的でありながらも、私たちに執着している気がする。
乙黒先生は、ただの先生ではない。それだけが確かだ。
鏡花の家は、小さな二階建てだった。
神崎と書かれた表札には、三つの名前が並んでいる。一番下には、神崎鏡花。それだけが殴り書きというか、子供が書いたかのような字だった。
インターホンを鳴らすと、すぐに鏡花のお母さんが姿を見せた。髪を束ねていて、優しそうな人だった。表札を見るに、花江さんというらしい。
花江さんは、なぜ私たちが来たか察している様子だった。「ありがとね」とだけ言って、家に上げてくれた。言われるがままに、玄関に入る。
靴を脱いだ瞬間、汗の混じった男子の匂いが広がった。いつも部室で漂っていた鏡花の匂いだった。ワイシャツの袖を雑にまくって、茶色い前髪をかきあげて、えくぼを作って笑う鏡花の姿が、くっきりとした輪郭で、頭の中に浮かぶ。
場違いだと分かっているのに、心臓が騒ぎ立てるのを抑えられない。正体の掴めない感情。
花江さんが階段を上るので、それに続いた。ぎしり、と床が悲鳴を上げる。年季が入っているのだろう。
「口数が少ない子なのに、こんなに多くの友達がいたなんてね」
誰に言うともなく、花江さんが呟いた。
「パパも喜ぶだろうなあ」
花江さんが指す「パパ」とは、きっと鏡花のお父さんのことだ。子供の友達を見て喜ぶと思われているなら、絶対に優しい人だと思う。
一度も話したことはない。しかし、会ったことはある。鼻に管を通された状態で。
鏡花のお父さんは、植物状態だから。
「じゃあ、私はリビングに戻るね。お菓子とジュース、後で持ってくるから」
花江さんに頭を下げてから、扉に向き直った。鏡花の部屋に繋がる扉だ。真ん中には、「きょうか」と彫られた木のネームプレート。私の家にもある。小学校の図工で作ったのだ。鏡花とプレートを見せ合って、互いに褒め合ったものだ。
私は三度ノックした。それから、ドアノブを力強く握る。その一方で、ウサギと触れ合うときのように、そっと扉を引いた。鍵はないようで、扉は重くありながらも、徐々に、確実に開く。
全てが開け放たれたとき、ベッドの上で体育座りをする鏡花を見た。光を失った瞳。初めて会ったときとそっくりだった。
部室よりも小さな空間だ。部屋に入らずとも、内装が分かる。参考書が積み上げられた、膝ほど低い机、鏡花の身長では収まらないと思われるベッド。正面には、カーテンに隠れる形で窓が一つある。胸元まである三段の本棚は、ギチギチに本が詰まっている上段を除けば、泥棒に入られたかのように乱れていた。
鏡花の服は、オーバーサイズの白いTシャツと、黒い短パンだった。その彼自身は、右側の壁にもたれかかり、ベッドの上で足を伸ばして座っている。左側の壁をじっと見つめているようだ。時折口を開くものの、言葉が出ないのか、すぐに閉じてしまう。私たちを一瞥すらせず、口の開閉を繰り返していた。
彼の目は、赤く腫れている。泣いていたのだろう。
「来たよ、鏡花」
美優が声をかけて、ようやくこちらを向いた。第一声は「宇野」だった。
部屋に入る私たち。不安を誘うほど薄暗い。湿気がこもっていて暑苦しい。ずっと換気をしていなかったのだろうか。扉を閉める代わりに、窓を開けた。カーテンはなびかない。涼しくも暑くもならない。風の吹かない彼の部屋は、心地良くなんかない。
私たちは床に座った。鏡花から見下される位置だ。「鏡花が部長だからね」と私が言っても、彼が口角を上げることはない。
不意に、先程まで鏡花が見ていた左側の壁が気になった。目をやると、画用紙に描かれた絵が飾ってあった。上下左右をテープで留めただけの簡素なものだ。絵の中では、男性と女性が、子供と手を繋いでいる。親切なことに、人物の上には「パパ」「ママ」とクレヨンで書かれていた。
「俺は、財布なんか盗んでない」
小さな声を出す鏡花。間髪を入れずに「当たり前でしょ」と言った。そうだ、私はそれを伝えに来たのだ。
「鏡花は窃盗なんかしない。信じてる」
同調するように、美優も銀も頷く。やはり、二人も乙黒先生から事情を聞いていたのだ。何もかも聞いた上で、「鏡花が人を殴った」という変えがたい事実だけを私に伝えた。そして、窃盗の話題には一切触れなかった。
銀も美優も、最初から鏡花を疑っていない。だから窃盗の話題は出さなかったのだ。おかげで乙黒先生に迷惑をかけてしまったが、それ以上に、二人が鏡花に寄せる信頼を知れて良かった。
それでも、前島さんに手を上げたことは消えない。鏡花の様子からして、周りから窃盗を疑われることよりも、取り返しのつかない過ちを犯してしまったことに、深く傷付いているように見えた。
机の上にある一冊の参考書を、ふと美優が手に取った。それから「英検準二級」と呟く。私は知っている。準二級は、高校生で習う英語の範囲だということ。そして、英検は推薦にほぼ必須だということを。
「鏡花、推薦狙ってたよね。確か、特待生……だっけ」
美優が発した「特待生」という言葉の響きは、この空間では、あまりにも残酷だったように思える。鏡花も苦笑するしかないみたいだ。
「どこの高校も無理だろうな。三年間積み重ねてきたことが、一瞬で崩れた。崩してしまった」
震えた声。美優が「ごめん」と呟いても、彼が言葉を飲み込むことはない。
「家族で遊んだジェンガを思い出したよ。いつも父さんが積み上げてくれてさ。でも、当時の俺には退屈で仕方なかったんだ。だから、未完成のジェンガを崩して『焦るなよ鏡花』って父さんに構ってもらってた。それが、やたらと楽しかったんだよな」
鏡花がため息をついて、天井を見上げる。「子供だったからさ」と呟いて。
「父さんがいなくなって、俺が積み上げる番になった。理性的になって、大人になろうとしたんだ。それから三年間、積んで積んで、積み続けた。でも、完成間近のジェンガを崩したのは、感情的で、子供っぽい自分自身だった。そういうオチだ」
積み上げたものとは、学力のことだろう。机に積み重なった参考書の量が裏付けている。
美優が目を伏せながら、持っていた参考書を元の位置に戻した。その途端、雪崩のように押し寄せて、参考書が床一面に散らばってしまった。
それらを慌てて拾い集める美優に、「もういいんだ」と鏡花が穏やかに言った。参考書はどれもボロボロで、全てに名前が書いてあった。しかし、神崎鏡花とは一つも書かれていない。
その名前とは、私たちが中学一年生の頃に、文芸部に所属していた三年生のものだ。五人分はあるだろうか。
「全部、先輩からもらったんだ。参考書を買う金も惜しいから」
疑うはずもないのに、鏡花が説明してくれた。それから、ベッドに腰掛けて「先輩の期待まで、無駄にしてしまった」と、悔やむように声を漏らしていた。
突如、舌打ちをする音が聞こえる。沈黙の中だったから、聞き間違えることはない。この中の誰かが、何かを不愉快に思ったのだ。
「利用してたんだな」
声の主は、銀。
「利用することが、目的だったんだな」
「そんなわけないだろ」と鏡花が声を荒げた。ただでさえ暑苦しいのに、気まずい空気になってしまう。だが、私が口を挟む余地もない。
「先輩がくれるって言ったから、もらったんだよ。むしろ、俺の方が顎で使われたのに」
「そうじゃねえよ」
睨むような眼で、銀が鏡花を見つめた。私は一度、銀と口論に発展したことがある。しかし、これほどまで敵意に満ちた視線を向けられてはいない。
「文芸部と演劇部を合併したのは、お前の推薦が目的だったんだな」
銀の言葉に、私は思わず「違う」と反論した。それだけは絶対に誤解だ。しかし「黙れ」と怒鳴られて、一蹴されてしまった。その途端、鏡花の表情が引きつった。
「今、宇野になんて言ったんだ」
「聞いてなかったのか。お前みたいなクズの味方なんか、同じクズしかいないって言ったんだよ」
床の参考書を掴んだ鏡花が、それを思い切り振りかぶる。これ以上は容赦しない、と言わんばかりの目つきだった。
「去年の文化祭で、僕の言葉を遮ったよな。僕を止めたよな」
しかし、銀はまくしたてるつもりだ。「やめて」と叫んで耳を塞ぐ美優の姿は、きっと、どちらにも見えていない。彼女の背中をさするのは、私の役目だった。
「本気でみんなのことを想ってた。信じてた。たとえ僕の評定がどうなったって、みんなを庇うことができて嬉しかったよ。文劇部は居場所だと思ってたよ」
銀が目を見開く。
「今の、今まで!」
耳鳴りがした。だが、両耳を塞げない。背中をさする手を、震える美優を、二度と手放してはいけないから。
「本当は、お前が推薦をもらうためだけの部活だった。部長を引き受けた理由だって、推薦で有利になるからだよな。入試の面接で『廃部寸前の部活を立て直し、居場所のない同級生を救いました』なんて言ってみろ。常に学年一位で、夢物語を実現させたお前を、馬鹿な大人はみんな信じる。怒鳴れば素直に頭を下げて、機械のように働く都合の良い人材を、誰が見逃すかよ」
さっきから、心臓が体に悪い音を立てている。今にも逃げ出したい。でも、震える美優を残してはいけない。今朝のように、都合の悪い現実から一人で逃げようだなんて、二度と考えてはいけない。
「分かってないだろ。僕はな、進路のために外面を保つお前の態度が、本当に、本当に大嫌いなんだよ」
それから「お前だけじゃない」と銀が視線を向けたのは、私だった。鋭い目つきで、逃がそうとしてくれない。
そうだ。私は外面を保つために、前島さんの陰口に同調した。
「みんなのことを考えた僕は、みんなよりも怒られた。真っ直ぐに勝負できない元文芸部のお前は、副部長を務めてる。逃げたくせに。何もできなかったくせに」
次の瞬間、参考書が空を切り、壁に激突した。
鏡花が投げたのだ。友達に対して、参考書を。いや、もはや友達と呼べる仲なのかは分からない。分かるのは、お互いがお互いに向ける敵意だけだ。
「塾に通っても俺に勝てないような馬鹿が、理想だけをつらつら並べやがって。乙黒先生に甘やかされて、何もしなかったのは、いつだってお前なんだよ」
間一髪で参考書が当たらなかった銀は、まるで弱点を見つけたかのように「ほら、そうやって」と声を張り上げた。
「そうやって前島を痛めつけたんだよ。暴力にしか頼れないお前の方が、馬鹿に決まっている。ええっと、前島にどんなことを言われたんだっけな」
鏡花の顔が強張る。それ以上は、本当にダメだ。だけど、私が叫んでも相手にされない。二人に何を伝えることもできない。私ができるのは、第三者の美優だけでも、部屋の外に避難できるように動くことだった。
扉とは真逆の位置にいる私が、二人をなだめるように振る舞うことで、どうにか彼女は部屋の外に脱出できた。
しかし、扉が閉まった途端、銀が引きつった顔をした。
「女の子みたいで気色悪い名前、だよな」
二冊目の参考書。間髪を入れずに三冊目が飛ぶ。その間にも、銀がはやしたてた。どちらも狂っている。私も逃げなければならない。
だが、激しく参考書が飛び交っていたのは、部屋と廊下を繋ぐ扉の前だった。外には出られない。そこで、私はベッドの下に潜り込んだ。視界が奪われたが、もはや五感全てが無事でいられるとも思っていなかった。耳鳴りも、まだ収まらない私のことだから。
ようやく耳鳴りが収まった頃に、「鏡花」という鋭い声が聞こえた。花江さんだろうか。美優に助けを求められたのか、お菓子を運びに来たのかは知らないが、ひとまず騒ぎは収まるだろう。
落ち着きを取り戻したのか、銀の声も、物がぶつかる音も聞こえなくなった。聞こえるのは、鏡花の悲痛な叫び声だけ。
「どうしてだよ。大事なものを傷付けてきたのは、あいつからなのに。あいつが悪いのに。どうして俺が叱られるんだよ」
「あいつ、じゃないでしょ。鏡花」
花江さんが、諭すようにゆっくりと語りかける。
「友達だって、大事なものなんだよ」
大きなため息が聞こえた。それが鏡花のものだと分かったのは、聞き慣れていたからだった。
「何も知らないのに、偉そうに説教しないでくれよ」
今朝、美優に「偉そうに説教しないで」と吐き捨てたことを思い出した。今すぐにでも、ベッドの下から抜け出して、鏡花に反論したい。花江さんは、鏡花を知ろうとしてくれている。それがどれだけ救われることか。
ただ、私と鏡花は事情が違うことも知っていた。私がその言葉を吐き捨てたのは、自分を守るため。でも彼は違う。親からもらった名前と、クズと罵られた私を守るために、参考書を投げた。友達に向けて。
先輩から譲り受けた参考書を投げるほど感情的な鏡花が、どれだけの怒りを宿していたのかなんて、私に分かるはずもない。
「銀、母さん。ごめんな。もう、部屋から出てってくれないか」
少しの沈黙を挟み、二つの足音が響く。扉が閉まれば、それっきりだった。
五分ほど経っただろうか。とうに私は、ベッドの下から抜け出す機会を失っていた。暗闇に目が慣れてしまいそうで、無性に恐ろしくなる。闇が怖いのは、一人きりだからだ。だから孤独に慣れてしまいたくはない。
そこで、散らばる参考書の隙間から、部屋の様子を覗き見た。薄暗い部屋といえども、久々の光だ。眩しくなる。
壁が目に入った。物をぶつけられたからか、至る所が黒ずんでいる。穴こそ空いていないものの、少しでも喧嘩が長引けば、無事では済まなかったのかもしれない。
その中で、壁に飾られた絵だけは無傷だった。クレヨンが、依然として三人の輪郭を表している。周囲の黒ずみから比較しても、不自然なほどに維持されていた。
「ぼくのお父さんは、漁師です」
不意に、小学校の記憶が蘇る。六年生、授業参観の光景。教室の前に立つ鏡花が、原稿用紙を持ち、よそよそしく喋っていた。
「海に行って、魚をとります。休みの日は、一緒にジェンガで遊びます。ぼくがぐちゃぐちゃにしても、笑ってまた積んでくれます」
今や部長まで務める鏡花とは思えないほど、控えめで自信がなさそうだった。興味がないのか、小さな声でひそひそ話すクラスメイトさえいる。
「ぼくの名前は、そんなお父さんがくれました」
心の中で「静かにしてよ」と叫んでいた。私が黙ることで、喋り声を相殺できないかと考えていたものだ。
「海に行ったとき、お花が水に浮いてたそうです。かがみのように反射して、すごいキレイだったって言います」
そのお父さんは、漁に出るため、授業参観には出られなかったという。
「みんなに『女の子みたい』って言われるけど、ぼくは自分の名前が大好きです。どうしてかというと、大好きなお父さんが付けてくれたからです」
授業参観を終えた後に、「いつかお父さんの前でも言いなよ」と、鏡花に言った。恥ずかしそうにしながらも、えくぼを作って笑う彼の顔を、今でも思い出せる。
数週間後、鏡花のお父さんは植物状態になった。「二度と話せないかもしれない」と嗚咽する彼の顔を、今でも思い出せる。
思えば、鏡花の生活が苦しそうになったのは、この頃からだった気がする。参考書を買うお金すら惜しいほど、お父さんの治療は多額のお金を必要とするのだろう。算数が苦手な当時の私には、一千万円がどれほど貴重か分からなかった。
扉をノックする音で、私の意識はベッドの下へと戻された。鏡花が小さく「はい」と返事をすると、今度は女性の声が聞こえる。
「こんにちは。扉越しでいいから、話を聞いてくれますか」
乙黒先生だった。今朝、私に「おはようございます」と言ったときのように、穏やかな声だ。それを耳にすると、なんでも受け入れてしまうと思う。当事者の鏡花がどう感じるかは分からないけど。
「不甲斐ない先生で、ごめんなさい」
まず投げかけられたのは、謝罪の言葉だった。自分の力不足を嘆くように、訥々と語りかける先生。
私は何度「そんなことない」と声を張り上げようとしただろうか。否定の言葉が喉まで昇るたびに、これは先生と鏡花だけの空間だと考え直すことで、どうにか私は空気のように振る舞うことができた。
今は、私の出る幕じゃない。唾を呑み、言葉を腹へと戻す。
「桜井さんから聞きました。元々神崎くんは内気な性格で、何か特別な思いがあって文劇部を守ってくれたのですね。そのとき、痛いほど感じました。大人が生徒を分かったように思っても、それはほんの一部分でしかないって」
先生に言われた「子供だからできること」の意味が、なんとなく理解できる。立ち込めていた霧が、わずかに晴れただけなのかもしれないけど。
「さて、私から、伝えなければならないことがあります」
打って変わって、事務的で抑揚のない声だ。鏡花、更には文劇部にとって、都合の悪いニュースがあることを告げ知らせる。
「部員の三人は、神崎くんが財布を盗むわけがないと信じています。しかし、前島さんを殴ってしまったのは事実。だから、中学校から推薦状を出すことはできません」
淡々と話す先生だが、消え入りそうな声で「二人で勉強して取った英検も、もう使う機会はないでしょう」と続ける。薄暗い部屋の中に、角の折れた「英検準二級」の参考書が横たわっていた。
私たちがフランもヴォリエラも知らなかった頃に、鏡花は「英語の文法だって、分かるまで教えてくれる」と言っていた。その頃から、乙黒先生と勉強していたに違いない。彼が崩れたジェンガの重量など、私に分かるはずもない。
「その窃盗についてですが、私は教師という中立的な立場にあります。清水さんの肩を持たない代わりに、神崎くんの味方にはなれません。ごめんなさい」
「ごめんなさい」という言葉からして、鏡花を信じている可能性が高いだろう。それでも本音を隠し、中立的な立場になることを選べる先生は、感情と仕事を割り切れる大人なのだと思う。私とは違う。銀とは正反対だ。
ただ、もしも去年の銀みたいに、鏡花が一人で立ち向かっていたとしたら、先生は必ず味方になる。先生は、苦しんでいる生徒を見捨てない人だから。
「だから、神崎くんを信じてくれる、文劇部のみなさんを頼りなさい」
先生が鏡花の肩を持たないのは、きっと、私たちがいるから。信じてくれているから。それを暗にほのめかしているように聞こえた。
「俺、でも、銀に悪いことしたんです。大事なものをけなされて、腹が立って、物を投げつけてしまった」
吐息のような声で喋る鏡花に、先生が語りかける。
「佐藤くんも、同じように後悔していましたよ。今は、渡辺さんとリビングにいます」
「分かりました。俺、色んな人に謝らないと」
鏡花が名前を呟き始める。宇野、銀、美優、母さん、父さん、と続いたところで、言葉が詰まったのか、それ以降何も喋らなくなってしまった。
しばらくして、先生が口を開き「そろそろ行かないと」と呟いた。今が何時かは分からないものの、きっと授業の合間を縫って、鏡花の家に来たのだろう。感心を通り越して恐ろしい。先生は私たちの担任じゃないのに。
「最後に、これは桜井さんの言葉ですが」
部屋の外から、深く息を吸うような音が聞こえた。
「文劇部は、神崎くんの居場所です」
「俺の居場所、ですか」
一息おいてから、先生が続ける。
「ありのままの神崎くんを、見せてあげてください」
少しして、部屋には静けさだけが戻った。床には参考書が散らばり、壁は一面中黒ずみ。なにより、ベッドの下には私が潜んでいた。
暗闇に身を投じてから、何分ほど経っただろうか。沈黙が続くから、乙黒先生はとっくに学校へ戻ったのだろう。リビングにいる銀と美優も、私を置いて帰ってしまったのかもしれない。逆に、私が帰ったと思われている可能性もある。
確実なのは、まだ鏡花が部屋にいるということ。部屋に二人きりだということ。
まず「鏡花」と声をかけた。それから、返事を待たずにベッドから這い出た。
「宇野」
彼はベッドの上にいた。驚きと安心が混ざったような表情を浮かべながら、壁にもたれかかり、足を伸ばして座っている。心なしか、先程よりも目が赤く腫れている気がした。
不意に本棚が目に入った。上段に本が一冊だけ残っている。『青い鳥』だ。それ以外は、全て床に散らばっている。
「『青い鳥』だけ、投げなかったんだね」
「これには、願いが込められているから」
何気なく鏡花の隣に座る。心臓がうるさいけど、今は隣にいたかったのだ。
足を伸ばしたら、彼の足とも隣り合わせになった。私よりもすっかり長くなって、筋肉質な足。男子の足。叩けば折れてしまいそうな、私の足とは全然違う。
変わってしまったんだな、と思う。当たり前のように過ぎ去る季節が、私たちの当たり前を連れ去ってしまった。
「俺たちが友達になって、五年経つんだな」
鏡花が口を開いたから、私もそうする。
「私たちが共犯者になって、四年経つんだね」
揺れないカーテンの隙間から、わずかに青い光が差し込む。
小学五年生。始業式の日に、鏡花は転校してきた。桜が咲いて、強い風が吹く日だったことを覚えている。
転校生ということもあり、初日の鏡花は人気者だった。しかし、自分からは喋らず、話題を振っても言葉に詰まる彼だから、すぐに興味を失われた。
神様のいたずらかは知らないが、鏡花の隣は私の席だった。
当時の私は、向こう見ずというか、自由だった。好きなものを好きだと主張し、やりたいことを気ままにやった。夏休みの宿題は、慌てて最終日に取り組むも、しばしば間に合わなかった記憶がある。
友達は多かったように思う。男子も女子も、分け隔てなく話していた。当時、男女の体つきはさほど変わらなかったから、昼休みの校庭て、ドッジボールをするだけでも仲良くなれた。
だから、昼休みには読書をする鏡花と仲良くなる方法が浮かばず、同時に、それを考えるのが楽しみだった。
「『青い鳥』、いいよね」
そう話しかけるのに四日必要だった。なぜなら、教科書すらまともに読まない私が、鏡花に話しかけるためだけに本を読んだからだ。
窓からは、校庭でボール遊びに夢中なクラスメイトの声が聞こえた。その日の昼休み、私は教室に残り、黙々と読書に勤しむ鏡花と会話を試みたのだ。
「うん。結末が好きで、読み返してるんだ」
初めて私に向けられた声は、頼りなくて、しかし弾むようなものだった。
それから、話す機会は増えた。時には休み時間、時には授業中。話すたびに、彼の声は通るようになっていった。それがやたらと嬉しかった。
仲良くなれた私と、興味を失ったクラスメイト。どこに違いがあったのかと考えると、話題だったのだと思う。当時の鏡花に、ゲームの話もスポーツの話も、一切伝わるわけがなかったのだから。
「物語には、願いが込められてるんだよ」
私が鏡花に執着した理由は、話が面白かったからだ。小さな頃から本に没頭し、私と真逆の成績をもらう彼の言葉は、いつも私の知らない場所に置いてあった。知らないことを知ることが、どれだけ楽しいかを教えてもらった。
一方の私は、鏡花が知らないことを教えた。たとえば、水泳を習っているのに海水浴に行ったことがないと聞いたから、二人で海に行った。電車に揺られながら、鏡花と話していた往復二時間の記憶。服を着たまま海に入って、二人して水浸しで帰ったことだって、私の大事な思い出だ。
鏡花は本を一気読みしてしまうから、しおりを持っていなかった。そこで、誕生日プレゼントとして、名前入りの押し花しおりをあげたことがあった。鏡花が泣いて喜んでいたのを、今でも覚えている。
瞬きする間に、私たちは最高学年になった。その頃になると、鏡花は本と授業以外の知識も蓄えていて、私も国語のテストだけは得意になった。
鏡花は相変わらず人見知りで、クラスメイトとは話せるものの、どこかよそよそしかった。その様子を見るたびに、なぜか愉快だったものだ。その頃から、彼に対する独占欲があったのかもしれない。