第2話 カサブランカ 祝福

 マリア像と百合の花の装飾。祭壇のステンドグラスから差し込む色彩は神々しくその中に立つ洸平はいつもに増して凛々しく見えた。白いタキシード姿の息子の晴れ舞台に大塚 浩太郎おおつかこうたろうの目尻には涙が滲み、妻敏子としこから白いハンカチを手渡されていた。


「お父さん、泣くのはまだ早いですよ」

「そんな事は分かっとる」

「ほら、また泣く」


 長男の洸平こうへいは中肉中背の洸太郎に似ず長身で体格も良く、金沢大学人間社会学部卒業と高学歴で自慢の息子だ。また、勤務態度は好ましく営業成績も良い。今後の成長が楽しみだ。

 ただ年齢的に30歳になっても浮いた話がひとつもなく「もしかしたらこのまま身を固める気がないのではないか」と洸太郎は気を揉んでいた。そこに企業間取引のある高田家のひとり娘、夏帆との見合いの話が持ち上がり安堵した。


「夏帆ちゃんがお嫁に来てくれるなんて、こんな嬉しい事はないね」

「娘が出来たみたいでこれからが楽しみだわ」

「本当にそうだな」


 大塚家の親族一同はに縁がなく、産まれる子や孫は男児ばかりだった。洸平にも2人の弟がいる。常日頃から「生活に華がない」「買い物に行ってもつまらない」と愚痴をこぼしていた敏子にとって夏帆は可愛くて仕方ない花嫁だった。


「こんなにめでたい事はないね」

「本当にそうね」


 教会の鐘が鳴る。大塚夫妻はマホガニーの扉の向こうに待つ、愛らしいその姿を心待ちにした。




新郎の名前は大塚 洸平おおつかこうへい


 白のタキシードの胸元にはカサブランカを一輪添え、緊張の面差しで花嫁を迎える為に祭壇の前に立つ。

 洸平の父親と亡くなった夏帆の父親は常日頃から交流があり、洸平と夏帆は年の離れた幼馴染として育った。洸平が小学生の時、夏帆は幼稚園に上がったばかりで「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と懐きじゃれて来る姿が嬉しくて高田家の庭で遊んだ記憶がある。

 洸平が高等学校に進学して疎遠になったが、2年前に見合いの話が持ち上がり再会した。


(・・・・夏帆)


 夏帆の色白の頬、黒曜石こくようせきの瞳、紅に彩られたふくよかな唇、洸平はその美しさに心奪われた。一目惚れだった。しかも夏帆は姿形すがたかたちが美しいだけではなく思い遣りにけ、かつ、芯の強さを感じさせた。



パイプオルガンがワーグナーの結婚行進曲を奏でる。



 チャペルを埋め尽くした参列者席から拍手が湧き起こった。マホガニーの扉が重厚な音を立てて開き、逆光の中にウエディングドレス姿の夏帆と紋付き袴の修造の姿が浮かび上がった。深紅のバージンロードを一歩、また一歩と歩みを進める夏帆。洸平の心臓は激しく脈打った。


(俺が、俺が夏帆を幸せに出来るのか?)


 修造の杖が前に進む度、洸平は叱責されているような錯覚に陥った。


(俺が、こんな俺が幸せになれるのか?)


 あれは夏帆が24歳の誕生日を迎えたディナー席での事だった。洸平はワインで頬を赤らめた夏帆の手を優しく握った。突然の出来事に夏帆は驚いた顔をしたがすぐに真剣な面差しで洸平を凝視した。


「・・・・夏帆」

「はい、なんでしょう?」

「俺と結婚してくれませんか?」


 テーブルのキャンドルの灯りが揺らめいた。


「・・・・・・」

「結婚しよう」


 洸平は夏帆の返事を待たずに左手の薬指にプラチナの婚約指輪をめた。それはセンターのダイヤモンドに向け徐々に細くなるクラシカルな印象のテーパードリングだった。光を弾く薬指を見つめた夏帆は顔を上げた。


「私でよろしければ」

「あぁ、良かった」


 洸平は胸を撫で下ろした。


「どうなさったんですか?」

「返事が遅いから断られるかと思った」

「あまりに真剣な顔をされていたので怖かったです」

「ごめんごめん」


 洸平と夏帆は微笑みあった。そこへ深紅の薔薇の花束が届けられた。


「何本か数えてみて?」

「1、2、3・・・11本、11本ですね?」

「そう」

「なんだか中途半端な感じもしますが」

「薔薇の花言葉は贈る本数で内容が違うと花屋の店員が教えてくれたんだ」

「11本の意味はなんですか?」


 洸平はもう一度その手を握って囁いた。


「最愛」

「さいあい」

「夏帆を一番愛している、夫婦になって俺と人生を歩んで欲しい」


 その夜、夏帆と洸平は初めてひとつになった。目眩めくるめく夜、押しては引く興奮にどんな言葉を夏帆の耳元で呟いたのか定かではないが、朝の光の中、シーツに包まった夏帆は「嬉しかったです」と頬を染め下を向いた。



幸せだった。



 それが、どうしてなのかと洸平は自身をさいなんだ。気が付けば夏帆の手は修造の腕を離れ祭壇に足を踏み出していた。視界の端には大袈裟なほどに涙を流す父親とその背中をさする母親の姿が見えた。参列者席に腰掛けた修造も感慨深い目で夏帆を見ている。見回せば参列者席の誰もが笑顔で祭壇を向き拍手をしていた。


(どうしてあの時断らなかった)





「汝、大塚洸平は、この女、高田夏帆を妻とし、良き時も悪き時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、妻を思い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」


「ち、誓います」


「汝、高田夏帆は、この男、大塚洸平を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、夫を思い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻のもとに、誓いますか?」


「誓います」


 洸平の声は震えた。


(あの時、やめてくれと!どうして!)


「指輪の交換を」


 リングピローに並んだふたつの結婚指輪はステンドグラスの光にきらめいた。神父の「指輪の交換を」という言葉に思わず身体が強張った。


(このまま結婚しても大丈夫なのか)


 結婚指輪を摘もうとした人差し指がサテンリボンに絡まり指輪を床に落としそうになり足の指に力が入った。指輪をめる指先がガタガタと小刻みに震え、夏帆が不思議そうな顔をして微笑んだ。


(夏帆は大丈夫だろうか)


「誓いの口付けを」


 白いチュールレースのウェディングベールを上げる指先が震えた。喉仏がゴクリと上下した。夏帆の純粋な黒曜石こくようせきの瞳を直視する事が出来ず思わず視線を足下に落とした。誓いの口付けは明るい未来を約束するものではなかった。


(助けてくれ)


 洸平は祭壇に注がれる視線が己の愚かさを非難しているように思え居たたまれなかった。逃げ出したい、今の状況から逃げ出したい。過去の自分から、これからの自分から逃げ出したい。


(助けてくれ)


 それで逃げ出して夏帆はどうする。父親や母親はどうする。そしてあのはどうする。


(なぜあの時、断らなかった・・・・!)


 洸平と夏帆は腕を組み参列席へと向き直り深々とお辞儀をした。顔を上げた瞬間、洸平の表情は凍り付いた。


(頼む、もう解放してくれ)


 洸平はチャペルの一番後ろの参列席に漆黒のワンピース、漆黒のチュールレースのトーク帽で面立ちを隠し、黒い手袋で真紅の唇を歪ませた女の姿を見つけた。それは白い壁に影の様に浮かび上がり、舐める様な目が洸平と夏帆を凝視して離さない。背筋を冷たいものが伝い落ちた。


(お願いだ。もう解放してくれ)


 洸平は神の御前で夏帆に一生の愛を誓いながら、一生取り返しのつかない罪と罰を懺悔していた。



 そして夏帆と洸平は祭壇を降り、深紅のバージンロードを光に向かって歩み出した。