第3話 招かざる訪問者

 桜並木が続く犀川さいがわでは鮎釣りの長い竿が何本もルアーを川面に投げ入れ初夏の味覚を求めている。御影大橋みかげおおはしの河川敷には小型犬のリードを持ち散歩を楽しむ高齢夫婦の仲睦まじい姿や、堤防に腰掛け賑やかな高等学校生たちの姿があった。

 そんな河川敷を見下ろす南向きの五階建てマンション、グラン御影みかげが菜月と賢治の自宅だった。


 何事にものんびりと浮世離れした菜月うれいた郷士父親が綾野住宅所有物件の分譲マンションを娘婿である賢治と菜月の新居にと当てがった。ただしマンションの登記名義人はとなっていた。

 グラン御影みかげはセキュリティ対策が万全で、マンションコンシェルジュ常駐は勿論の事、防犯カメラも複数台設置、防犯警備会社は365日24時間体制で監視に当たっている。マンションエントランスは暗証番号のオートロック式、自宅玄関にはモニターフォン、当然シリンダーキーと徹底している。さらに歩いて500mの位置に御影みかげ交番があった。


「ええ、お父さん、こんなの面倒くさい」

「お前は間が抜けているからな!これでも足りないくらいだ」

「えええええ」


 案の定、菜月は羽毛布団のセールス業者を招き入れ、りもしない羽枕はねまくらを買う羽目になり郷士に叱責しっせきされた。この件に関しては 湊 も頭を悩ませ、抜き打ちでマンションを尋ねてみればインターフォンで声を掛ける前にエントランスの扉が開いた。


「菜月、駄目じゃない!」

「えぇ?なんで・・・ 湊 だもの、普通開けるでしょう?」

「僕の後ろに強盗犯がいたらどうするの!」

「えっ! 湊 が大変!」

「それはもしもの話!大変なのは菜月だよ!とにかく誰彼だれかれ構わず簡単にマンションの中に入れない事!」

「はあ〜い」

「本当に分かってるの!?」

「うん!」


 菜月はそう笑顔で答えたが本当に分かっているのかいないのか、不安しか残らなかった。


 その日は朝から曇り空で菜月はソファに座りベランダに干した洗濯物を眺めながら迷っていた。このまま雨が降らなければ綾野の家に遊びに行ける、けれど雨が降れば庭先のハンギングチェアで微睡まどろみながら本を読む事は出来ない。


(雨が降って来たらお洗濯物も濡れちゃうし、今日は家にいようかな)


 大きく溜め息を吐いた菜月はキッチンに向かった。ケトルを火にかけぼんやりとそれを眺めた。


(・・・・このままで本当に良いのかな)


 賢治は優しい、けれどそれ以上でもそれ以下でもない。夫婦として在るべき形を成していない二人に一緒に暮らす意味があるのだろうか。離婚という選択肢はない、然し乍らこの状態で良い筈がなかった。

 ケトルがシュンシュンと音を立て蒸気が噴き上がった。慌てた菜月が取っ手を持った瞬間その熱さに思わず飛び上がった。


(あぁ、もう。イライラしちゃう)


 その時、不意にインターフォンが来客をしらせた。壁掛け時計を見上げれば宅配便の配達時間でもなければ来客の予定もない。


(・・・・湊かな?)


 湊ならば訪ねて来る前に連絡がある筈だ。不思議に思った菜月は応答呼び出しボタンを押した。モニターに映し出されたのは見覚えのない女性だった。


「はい、綾野です」


 応えた後で失敗したと思った。湊から口を酸っぱく「先に名乗らない事!分かった!?」と言われていた。


(でも、誰だろう?訪問販売?保険の勧誘の人かな)


 やや俯き加減のワンレングスの女性の表情はよく見て取れないが美しい人だという事は分かった。


「どちら様でしょうか?」

如月きさらぎと申します」

「きさ・・・・きさらぎさん、ですか?」

「綾野賢治さんはご在宅でしょうか?」

「いえ、主人は勤めに出ておりますが、何かご用でしょうか?」

「そうですか、お忘れ物をお届けに参りました」


 確かに手には大きめの封筒を持っていた。賢治の名前を知っていたとなれば会社取引先の社員ではないかと菜月は考えた。エントランスを解錠し玄関先で待っていると部屋のインターフォンが鳴った。モニターを覗くと先程の女性、湊が心配するような背後に暴漢が潜んでいるとは思えなかった。


「はい」

「如月と申します」

「今開けますね。お待ち下さい」

「はい」


 玄関のドアを開けるとせ返るような花の香りがした。


「綾野さん」

「は、はい」


 肩までの黒髪は艶やかなからすの濡れ羽色をしていた。


「お忙しいところ申し訳ございません」

「いえ、こちらこそ主人がお世話になっております」

わたくし、こういう者です」


 その女性は封筒を脇に挟んでショルダーバッグから名刺入れを取り出し、淡い桜色の名刺を差し出して微笑んだ。


きさらぎ広告代理店

如月倫子きさらぎりんこ


「如月倫子さん」

「はい、には日頃からお世話になっております」

(賢治、賢治さん?)

「先日、こちらをお忘れになられたのでお持ち致しました」

「はい」


 手渡された封筒は女性と同じ花の香りが染み付き、鼻が曲がりそうになるくらい臭かった。


(頭が痛くなっちゃう)


 如月倫子という女性は俊敏しゅんびんな女性秘書という印象を受けたが身なりに違和感を感じた。胸元を大きく開けた白いカッターシャツ、身体のラインが強調される黒いスリット入りのタイトスカート。


(黒いピンヒール)


 差し出された封筒は大きさの割に軽く底に柔らかな膨らみがあった。それは糊付けされておらずまるで中を見ろと言わんばかりで不自然だと思った。


「それでは失礼致します、

(また?)


 そこで如月倫子はワンレングスの髪を耳にき上げながら深々とお辞儀をした。黒いブラジャーから豊満で白い胸が見えた。下品だと思った。


「わざわざありがとうございました」


 すると彼女は菜月を品定めするかのように爪先から頭の天辺てっぺんまで見て真っ赤な唇を歪めた。


「・・・・失礼致します」

「ありがとうございました!」


 その仕草と表情がなんとも薄気味が悪く気分を害した菜月は如月倫子が背中を向けたと同時にドアノブを握り鍵を掛けた。


「なに、なんなの、なんなの、あの人気持ち悪い!」


 封筒をリビングテーブルに置いた瞬間、賢治のスーツに染みついた柔軟剤の匂いがした。


(・・・・え。これって)


 封筒を持ち鼻を近付けてみるとそれが柔軟剤などではなく香水の香りである事はすぐに分かった。


(如月さんの香水の香り)


 何が入っているのかと中を覗いてみると見覚えのある物が入っていた。それは封筒を逆さまにするとダラリとフローリングの床に落ちた。


(これ・・・)


 それは菜月が賢治の誕生日にプレゼントしたカルバンクラインのネクタイだった。


(これ、どういう意味?取引先にネクタイなんて忘れないよね)


 携帯電話を手に持ち賢治のLINEトーク画面を開いた。指先がどくどくと脈打つのが分かった。


(や、ちょっと待って)


 如月倫子の訪問になんの意味があるのか賢治に直接確認する事もはばかられた。


「湊に相談しよう」


 菜月は湊にLINEメッセージを送信した。