第伍話 すすや

 煤屋


「さて、そろそろ夕食の仕度をしなくては」

 母さんがそう言って立ち上がったので、僕も立ち上がる。そのとき母さんがリボンを出して開けっぱなしにしていた引き出しが目に留まった。

 閉めようと近寄ってはっとする。

「母さん、この本って……」

 そこには「僕の可愛い黄色い人」という本があった。

「ああ、それはいつからかある本よ。興味があるなら読んでいいけど、戻しておいて」

「あ、うん」

 母さんはいつもの素っ気ない調子で言いながら、部屋の灯りを点けて出て行った。僕はしばらく、その本の表紙を見つめる。

 僕の部屋にあった絵本と同じタイトルだ。メイが気分転換にと差し出してきたあれ。装丁は似ているけれど、同じ本だろうか。

 表紙は火事の跡のような、黒ずんだ家の絵だ。僕の部屋にあったのも、こんなんだったかな?

 ともあれ気になったし、母さんが灯りを点けてくれたから、読んでみようと手に取った。

 ベッドに腰掛け、ぱらりと一ページ目をめくる。


 その子は黄色い髪をしていた。

 僕はその子が大好きだった。

 僕は煤で汚れた黒い髪をしていて、みんなから嫌われていた。たしかに僕は汚い。煤まみれで土まみれで、みすぼらしい子ども。

 僕のやることといえば、火事のあった家の後始末。炭になったそれを片付けて、そこを更地にするのだ。煤屋すすやと呼ばれていた。


 そう書かれた見開きには表紙に似た黒焦げの家と、真っ黒な髪、真っ黒な服、手も足も顔も黒く汚れた黒い男の子が炭を抱いていた。次を開くと、炭を山に運ぶ黒い子の姿と、黄色い髪の女の子が黒い子を見つめている後ろ姿が描かれていた。


 僕は煤で、土で、真っ黒かった。水ではどうしようもないくらい。

 地主さまは塵一つ灰一つ許さない。すぐ怒る。そのたび僕は打たれて、痛くなる。それが嫌だから、せっせせっせと炭を運ぶ。

 ある日、そんな仕事の最中、僕は黄色い子を見たんだ。

 肌は白くて、髪がきらきらと黄色い。とってもとっても綺麗な子だった。

 見ているとその子もこっちを見た。目が合って、目をまんまるにして、それから笑った。

見たことのない子、綺麗な子。きっと僕とは別な世界の子。

 それなのに、その笑顔が他の人が笑うのと違って、僕は何か言いたくなって──

 ぱらりとめくる。片側のページは文章で埋まっていて、もう片方のページは、金髪の女の子の満面の笑顔が描かれていた。

 この子、メイに似ている?

 そんなことを思いながら、文字に目を戻す。


「ありがとう」

 気がついたら、僕はそう言っていた。

 それを聞くと、その子はまた目をまんまるにした。それから、どういたしまして、とまた笑った。

「あなたはだぁれ?」

「僕は煤屋だよ」

「ススヤ? 変わった名前」

 その子はそう言い、くすりとまた笑ってから、行儀よくお辞儀をする。

「私はね、最近ここに来たの。向こうの学校に行くんだ。よろしくね」

 さわりと風が吹いて、それと一緒にその子は去った。

 次の日もその子は来た。

「昨日もだけど、何をしているの?」

「炭になった家を片付けているんだよ」

「あなた一人?」

「それが僕の仕事だから」

 炭は少し日が経つと、ぼろぼろに崩れて灰になる。それは街を汚す。だからそうなる前に僕が片付けているんだ。

「私と同じくらいなのに、仕事をしているのね。みんな、学校に行っているのに」

「そうだね。でも、炭も灰も体に悪いから、他の人はやらないんだ。僕じゃなきゃ、できない」

「どうして?」

「黒髪だからさ」

 黒髪の子は、体が丈夫。そういうものなんだ。だから体に悪い仕事は黒髪がやる。

「ねぇ、君は学校があるんだろ? 早く行かなきゃ」

「え? ススヤは行かないの?」

「だって、仕事があるもの」

 僕が答えると、その子は不思議そうにしながらも、学校に行った。


 数ページ、ぱらぱらと文章だけが続く。背景は黒く焦げた家屋の残骸。

 黄色い髪の子が学校に行く前、という状況からして、二人の会話は朝に交わされているに違いない。にも拘らず、ページの基本色は夕焼けみたいな赤だ。赤だ、赤……嫌な色だ。

 母さんの言っていた赤髪の具者は、こんな色をしていたのだろうか、とぼんやり思いながら次へ進み、息を飲んだ。

 そこにいたのは茶髪碧眼の少年と赤い髪と、茶色い目をした少年。

 赤髪、茶色い目——それは絵であるはずなのに、僕を、その向こう側まで射抜くような力強さと感情を纏ったほむらを感じさせた。

 一瞬、怖いとよぎった後に、なぜか不思議な感覚が湧き上がってくる。

 ——悲しいんだ。

 聞いたことのない男の人の声がして、どうしてか僕はその声をすんなりと信じることができた。この赤い人は、悲しんでいる、と。

 その理由を知りたくて、僕は文の中を探る。


 早く、早く。灰が散れば病が散る。病が散れば皆が死ぬ。働かぬなら、人殺し。

 みんながいつも、僕をからかうときの言葉だ。それでもそれは本当だから、僕は平気で煤を被って、炭を運ぶ。

「変よ」

 日が傾いても炭を運ぶ僕を見て、その子は言った。

「変よ。黒髪だから、あなたがやるなんて。昨日からちっとも進んでない」

 黄色い髪を揺らして、その子は学校の鞄を下ろした。腕まくりをして寄ってくる。声は僕を責めていないのに、その子は何故だか怒っている?

「私もやる」

「え、これは僕のし」

「手伝う」

「だからこれは僕が」

 その子が煤屋の仕事をやろうとしているんだとわかって、僕が止めに入ったそのとき。

 さあっと風が吹いた。

 途端に、その子は咳き込んだ。苦しそうに、ひゅうひゅうと喉を鳴らして。倒れそうになるその子を抱き止めようとしたけれど、僕は黒で、煤で、真っ黒で。

 その子の肌は白くて。真っ白くて。やっぱり別世界の子。

 黄色が土の上に広がった。

 僕はどうすることもできなくて、間抜けにもただぼーっとそこに突っ立っていた。

 僕は煤屋の仕事以外、ほとんど何も知らない。倒れたこの子をどうすればいい? 汚れたこの手で触れちゃいけないのはわかっているんだ。どうすればいい?

 僕がおろおろしていると、学校の方から子どもが二人、やってきた。赤いのと、茶色いの。僕をよくからかうやつらだ。

 赤いのと茶色いのは、黄色いその子を見て、大変だ、と叫んだ。赤いのがその子を抱き起こして、茶色いのは大人を呼びに行った。

「おいお前、この子に何した?」

 赤いのが言う。土みたいな茶色の目が夕日のせいで真っ赤に見えた。怖い。

「何したって、何も。その子が仕事しようとして、それを止めようとして、苦しみ出して」

「この子が仕事? 煤屋のか?」

「うん」

「最低だな」

 赤い瞳が僕を見下した。

「煤屋は煤屋がやりゃあいいんだ。こんな子にやらせようなんて。お前は煤屋だから生きてんのに!」

 赤いのはそう吐き捨てて、その子を連れ、去った。


 とても恐ろしい。

 僕はそう思った。けれど、もう手を放すことができない。文字を追うことを、毒々しく生々しく突き刺さってくる絵を見つめることを、やめられない。

 赤いのの去り際の一言が僕自身に向けられた刃のようで、痛い。僕は煤屋じゃない。僕は煤屋じゃないのに。

 煤屋の一挙手一投足が目に浮かんだ。そんな挿し絵、ないのに。

 赤いのの目に立つ炎も、めらめらと寂しさを携えて。まるで僕を知っているような、そんな錯覚に陥るほど、入り込んでくる。

 一言一言が、入り込んでくる。


 僕は炭を運んだ。

 只管ひたすら運んだ。

「煤屋は煤屋がやりゃあいいんだ」

 炭を、誰もいない山奥に捨てる。

「灰が散れば病が散る」

 炭を運ぶ。

「早く早く」

 炭を運ぶ。

「早く早く」

 病が散れば、皆が死ぬ。

 病が散れば、人が死ぬ。

 炭を、もっと、運ばねば。

「お前は煤屋だから生きてんのに」

 そう、僕は煤屋。

 煤にまみれて、炭を運べば、それでいい。

 さあ、運べ運べ。

「働かなければ人殺し」

 そう、僕は煤屋じゃなきゃ人殺しだ。

 本当は、黒髪というだけで生きていちゃいけない。

 だって伝承では黒髪は呪われているから。

 僕が生かされているのも確か。火事の跡で炭を拾っていたら、それをやるなら生かしてやろうと地主さまに言われたのだ。

 焼けたのは僕の家だったから、ただ愛しかっただけ。それだけ。家は焼かれたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 でも、そのときから僕は煤屋だ。煤屋じゃなかったら、とっくに本物の煤になっていたかもね。

「早く早く。灰が散れば病が散る。病が散れば皆が死ぬ。働かぬなら、人殺し。さあ、運べ運べ」

 灰が散れば、人は死ぬ。

 灰で、人は死ぬ。

 きっと、あの子も。

 だから僕は、煤にまみれて、僕は生きる。

 せっせせっせと運んで、朝日の昇る頃、ようやく黒い塊は消えた。ああ、終わった。

 ぱたりと更地になったそこに僕は倒れ込み空を仰いだ。

「スースヤ!」

 そこにひょこっと黄色い子が現れた。


「えっ!?」

 挿し絵で現れた黄色い子の顔に目を疑った。

 青空の背景に現れた少女は金髪で、その目の色は背景の空と全く同じだった。

「メイ?」

 呼び掛けても、絵は答えたりしない。

 そうは思っても、本の中のその子はやはり、メイにしか見えなかった。……偶然の一致だろうか。赤い具者に似た男の子といい……

 もやもやとした不安を抱えながらも、先の文が目に飛び込んでくる。


 僕は驚いて声を上げる。するとその子は可笑しそうに笑った。

 あまりにも長く笑い転げているので、ちょっとむっとしたけれど、すぐに昨日のことが気になり、訊ねた。

「大丈夫なの? 体……」

「うん、平気。ちょこっと灰を吸って、喘息の発作が起きちゃっただけだから」

 ぜんそく、や、ほっさ、の意味は知らないけれど、あのあとも苦しかったのだろうと当たりをつけて、へぇ、と漏らした。

「びっくりさせちゃった? ごめんね」

「いや」

「それにしても」

 その子は僕から更地に目を移して呟く。

「綺麗になったね」

「うん」

「ススヤがやったの?」

「うん」

「あのあと一人で?」

「仕事だから」

 そのうち、また地主さまがおうちを建てるみたいだよ、と言うと、その子は興味なさげに頷いた。

「炭や灰は、どこへやったの?」

「山の奥」

「山って、学校と反対の、ずっと向こうでしょ?」

「そんなに遠くないよ」

「うそぉ、ここから学校まででも遠いのに」

 またその子は目をまんまるにして、黄色い髪をたなびかせる。そしてなんだか、寂しそうに笑った。

「黒髪の子って、本当に丈夫なのね……」

 その声がとても悲しく聞こえた。

 僕は、その子との間に線を引かれたような気がして、かける言葉を失った。

 あ、学校、とその子は言い、遠くの方へ去っていった。

 街に火の手はない。

 僕の仕事もない。

 火で人死にが出ないのはいいことだ。呑気に僕はそう考えて、微睡まどろんでいた。

 そのとき、煤の香りが向こうの方からした。ぱちりと目を開ける。僕の仕事? いや、仕事は今朝終えたばかりで、地主さまも次まで束の間でも休めと——

 では火の手が?

 灰の匂いが熱をはらんで僕の鼻をくすぐる。嗅ぎ慣れた匂い。その先には仕事が待っている。地主さまに叩かれる前に行かなくては。火を消して煤を被り、炭を運ばなくては。

 いつもの仕事の気に切り替えるが、何か引っかかる。

 この匂い、どこから?

 そちらを見据えると、そこは山を下りて街を通り、その向こう側にある場所。その向こうにあるのは——学校。

 学校。赤いのや茶色いのがいるところ。僕は「黒いの」だから行けない。けれどそう、そういえば、黄色いあの子は最近ここに来て、学校に行く、と道を通って、いた……

 蘇るのは燃える家。僕の家。煤屋になる前の僕の居場所。

 家族がいて、笑っていて、呪われていると言われても、生きていることができた場所。燃えてもう消えた場所。

 学校が、燃えている。

 今、燃えているのは学校。僕が黒髪だから、行けない場所。でもあそこには黄色いあの子がいる。僕を黒いと差別しなかったあの綺麗な子が。


 赤い炎の中にいる。

 僕は走った。炭を持たない分、身軽だ。走った。夢中で走った。

 消えないで。黄色よ、灰に消えないで。僕に君を運ばせないで。

 僕は初めて街を抜けた。

 人の目も気にせず、障害になど目もくれず、足を打ちながら走った。大地を踏む、踏む、踏む。

 僕は煤屋。だから火事の元へ向かう。

 けれど何かが違った。僕は今、炭を拾いたくて行くんじゃない。僕は、僕はっ——

 走った先には燃え立つ学校。学校というものを僕は初めて見た。けれど僕は感動する間もなく、赤いそれに向かった。

 黄色い子を探す。

 ねぇ、どこ? どこなの!?

 熱い。熱くて声が出ない。煤が視界を歪ませる。熱くて役にも立たない涙がだらだらと零れ落ちる。ああ、でもこれで顔くらいは綺麗になるかな。

 赤い。赤い。真っ赤だ。ねぇ、黄色はどこ? 僕は黄色いあの子を探しに来たんだ。煤で汚れてしまわぬように。また苦しんでいないだろうか? ねぇ、ねぇ、どこ?

 黄色いあの子はどこ——!?

 声にならない声で絶叫した瞬間。

 赤が降ってきた。

 ああ、僕は死ぬのか。

 平然とそう思った。

 しかし。

「おい煤屋! 何やってんだ!!」

 目の前に赤いのがいた。背中を焼かれている。僕を焼くはずだった炎に。

「お前の仕事は火が止んだ後だ。なんでここにいんだよ!」

「君こそなんで、逃げてないの?」

「どっかのバカが、火の中に入ったからだろうが!」

 背中の赤を強引に払って、赤いのが答えた。それからいつもの疎ましげな目で僕を見る。

「黄色の転校生が五月蝿いんだ」

 だから来てやった。そう言った赤いのの目は、炎を照り返して赤く見えたけれど、怖いかんじはしなかった。

「ありがとう」

「呪いの権化に礼を言われても嬉しかねぇよ」

 赤いのはそっぽを向きつつ、僕の手を引いてずんずんずんずん進んでいく。そこで違和感に気づいた。

「茶色いのは? いつもいっしょなのに」

 赤いのはそっぽを向いたまま答えた。

「死んだよ」

 それはとても現実味のない言葉だったけれど、実際赤いのの隣は空っぽで、いつもいるはずの茶色いのはいなかった。

 だからそれ以上聞かず、それから喋ることもなく、僕らは炎から逃げた。

 学校は燃え落ちた。

「ここが、お前の次の仕事場だな」

 僕といっしょに煤まみれで出てきた赤いのが、何の感慨もなく呟く。「そうだね」と僕は答える。

 二人してぼーっと、燃え跡を眺めていた。

 そこへ、後ろからどん、と抱きつかれた。二人して、首根っこを掴まれて。

「二人とも、無事だったんだね!」

 誰かと思って見れば、黄色い子だった。快活に笑っていた。笑っている顔が眩しくて、赤いのの方に目をそらすと、赤いのはまたそっぽを向いていた。それがなんだか、面白かった。

 それに笑いかけて、表情を引き締めた。向こう側から、地主さまがやってきたのだ。

 僕はさりげなく二人から離れ、地主さまにあいさつした。地主さまは答えない。

 僕は、すぐに片付けを始めます、と告げ、そこを去ろうとした。そのとき、地主さまが言った。

「良い心がけだ」

 初めて褒められた。

 地主さまはすぐに行ってしまった。どうやら僕に仕事をしろと言いたかっただけらしい。

 僕は赤いのと黄色い子にお礼を言って、仕事を始めた。

 さあ、運べ運べ。

 赤いのは小さくそう言って、今度は黄色い子の手を引き、街の方へ消えた。

 学校がなくなって、学校のことがどうなるかなんて僕は知らない。僕はただ炭を運ぶだけだ。

 前より楽しい。

 早く、早く。灰が散れば病が散る。病が散れば皆が死ぬ。働かぬなら、人殺し。さあ、運べ運べ。

 病が散れば、人が死ぬ。あの子が死ぬのかもしれない。

 それなら、あの子を生かすために、僕はいくらだって運べる。

 それでいいんだ。


 そこが最後のページだった。

 物語としては不自然な終わり方だったが、それよりも僕は、本に引きずり込まれて、猛烈に疲れていた。

 黄色い子は、メイに似ていた。赤いのは母さんを苦しめたあの具者に。そして煤屋は、なんとなく、僕に似ている気がする。

 いや、因縁めいた考えは呪いを呼びそうだ。やめよう……

 そうしていつのまにか、僕の意識は闇に包まれていった。


 これは、始まりの物語にすぎないのだよ——夢の中で赤い具者が、そう囁いて、笑った。