「・・・・うん、良い仕上がりだ」
「そうだろう?」
宇野は得意げにテーブルに手を付いた。
「このテーブルと椅子は特注品だったな」
「ヒッコリーの強度は抜群、衝撃にも強い」
「それならあいつが暴れても壊れないな」
「あいつ?」
「木古内和寿だよ」
宗介は店内と庭園を仕切る全面ガラスの扉を恨めしく見た。
「ま〜だ根に持ってるの、果林ちゃんの怪我も軽傷で済んだことだしあとは警察と弁護士に任せておけば問題ないだろ」
「一発殴っておけば良かった」
「なに、聞こえなかった」
菓子工房の中が慌ただしくなった。
「宗介さん!お疲れ様です!」
「果林さん!」
菓子工房から顔を出した果林の声色は上向き加減だ。仕事のみならず私生活でも共に過ごす時間が増えれば自然と距離は縮まり
「あの2人どうしたの?」
「副社長の顔、デレデレじゃん」
「果林ちゃんもなんだか嬉しそうだし」
「まさか」
果林と宗介の同居生活は混乱を招かぬよう、おおやけにはしていなかった。
「まさか・・・あの2人付き合っているとか」
「ええ〜果林ちゃんと辻崎副社長が!まさか〜!」
「そうだよね」
「そうだよ」
スタッフたちの噂話に機嫌を損ねたのは宇野だった。宇野はこれまで宗介から<羽柴果林>に対しての相談を受けていた。当初は興味本位だった。しかしながら
「はいはいはい、宗介は自分の業務に戻った戻った!」
「なんだよ!」
「ここはおまえの仕事場じゃないだろ!さっさと出て行けよ!」
宇野は丸めた書類で宗介の頭を軽く叩くと
「さぁ、休憩、解散、解散」
宇野に促された企画部スタッフたちはタオルで首筋の汗を拭いながら店の外に出た。バックヤードで鍋や皿を片付けていた果林も顔を出した。そこには思い詰めた顔つきの宇野が立っていた。
「宇野さんは休憩に行かないんですか?」
「果林ちゃん話があるんだけどちょっと時間ある?」
「はい?」
果林は宇野に勧められヒッコリーの椅子に腰掛けた。
「なにか不手際でもありましたか?」
「いや、そうじゃないんだ。個人的な事で果林ちゃんに聞いて貰いたいことがあるんだ」
宇野の喉仏がゴクリと上下した。
「なんでしょうか?」
「果林ちゃん」
「はい」
「付き合って欲しいんだ」
微妙な間と緊張感が走った。
「それはその・・・交際という事でしょうか?」
「うん、結婚を前提に付き合って欲しいんだ」
果林は宇野に心を許していたとはいえ男性として意識したことがなかった。これまで上司として尊敬していた相手からの突然の告白に果林は戸惑い返答に困った。
「駄目かな?」
「ちょっと驚いています」
「そうだよね、驚くよね」
「はい」
「返事は
「分かりました」
宇野は無言で立ち上がると丸めたポスターで果林の頭を軽くポンポンと叩いてドアを開けた。そこには宗介が立っていた。
「なんだよ聞いてたのか」
「ああ、すまん」
一旦エレベーターに乗った宗介だったが宇野に伝達する事案があったことを思い出して
「盗み聞きなんて趣味悪いぞ」
果林は宇野の背中越しに宗介の姿を見つけた。
「宗介さん」
「・・・・」
宇野は2人を見遣りながらその場を後にした。
「宗介さんは知っていたんですか?」
「いや、気が付かなかった」
「宗介さんと宇野さんはお友達ですよね、私、どうしたら良いんでしょう」
「それは果林さんが決めることですよ」
「宗介さん」
「私が口出しすることではありませんから」
そう言った宗介はエレベーターのボタンを押した。無言で閉まる扉、
(これで、宗介さんと仲直り出来ると良いけれど)
果林は気分を害した宗介の気持ちが少しでも和らげばと考え、好物のタルトタタン(りんごケーキ)を焼いて振る舞うことにした。14階食堂の板前の板さんとすっかり打ち解けた果林は厨房を借り林檎の皮を剥いていた。板さんは慣れた手付きの果林の一挙一動に感心した。
「はぁ〜手慣れたもんだね」
「初めはオーナーに叱られてばかりでしたよ」
「うちの娘なんざ目玉焼きひとつ満足に作れねぇんだ」
「大丈夫ですよ!」
「おっ、バターと砂糖の次は小麦粉かい?」
「タルトを作っているんです」
「タルトぉ?」
「ケーキで言えばスポンジの部分です」
果林は宗介に思いが届くように願いながら小麦粉を
ぽーーーん
「あっ、やばっ!」
エレベーターの扉が開いた。宗介に内緒で作る筈のタルトタタンだった。果林は慌ててキッチンの下に隠れたがそこに立っていたのは宗介によく似た雰囲気の白髪の男性だった。
「お帰りなさいませ」
「おや、可愛らしいお客さまだね」
「あ、あの」
「果林ちゃん、社長さんだよ」
「えっ!」
(やっぱりそうですよねーーーー!)
辻崎株式会社 代表取締役社長 宗介の実父
「私が宗介の父親の宗一郎です」
「羽柴果林です」
「果林さんには宗介が世話になっているようだが失礼はないかね」
「えっ、そんな失礼だなんて!」
果林は深々とお辞儀をし宗一郎の顔を凝視した。
「あっ!あの時の社員さん!」
「覚えていてくれたんだね、あの時はお世話になったね」
「いえ!とんでもない!」
果林が
「ナッツ類が駄目なんです」
「かしこまりました」
果林は的確にナッツ類が含まれないケーキを数種類紹介した。その接遇に感心した宗一郎はもう一度
「社長さんだとは気が付きませんでした」
「果林さんの機転には感心したよ、宗介には勿体無いな」
「も、勿体無いとは?」
「おや、宗介はまだプロポーズをしていないのか。甲斐性のないやつだな」
(ぷ、プロポーズ!?)
果林はこれまでの宗介の行動や言動を振り返ってみた。
(あれがそうか!?)(いや、あの時!)(いやいやあれか!)
思い当たる節が多すぎて脳内は支離滅裂状態だった。
「で、果林さんは今はなにをしているのかな?」
「りんごのケーキを焼こうと思って板さんとりんごの皮を剥いていました」
「そのケーキには」
果林は満面の笑みで答えた。
「ナッツは入っていません!」
「大当たり!いやいや、俺が嫁に貰いたいくらいだ」
宗一郎は「後で食べに来るよ」と手を振った。エレベーターの扉が閉まると板さんが目を見開いて果林に詰め寄った。
「果林ちゃん、やっぱり宗介さんと出来てたのか!」
「いやいやいやいや」
「いや、そうだと思ってたんだよ」
「いやいやいやいや」
「若い、いや宗介さんは若くねぇが、男女が一緒に暮らしてたら自然とそうなるわなぁ」
「ちがっ、違います!」
「いや、違わねぇ」
果林の顔がりんごのように真っ赤に色付いた。
「やっぱりそうじゃねぇか、めでたい、めでたい!」
言葉に詰まっていると板さんが包丁を研ぎ始めた。
「さぁ、仕事仕事!」
「はい!」
果林は皮を剥いたりんごを薄くスライスし、砂糖とバターで炒めてキャラメリゼにした。
ジュウウウウ
厨房は香ばしい匂いに包まれた。
「こりゃ美味そうだな」
「タルトの生地に詰めて焼くんです」
「果林ちゃんのタルトなんたらに合わせて今夜は洋食だな」
「あっ、もしかして和食の予定でしたか?」
果林は慌ててまな板の上の食材を見遣った。
「いや、鮭の塩焼きをムニエルに変更するだけだ、問題ねぇ」
「ありがとうございます、突然ごめんなさい」
チーーン
宗介への思いが詰まったタルトタタンが焼き上がった。
「はじめまして」
上座から宗一郎、妻の
「宗介の母の佳子です、果林さんね。お会いできて嬉しいわ」
「羽柴果林です、副社長さんにはお世話になっています」
「あら、まぁ副社長だなんて、今更ねぇ?」
「そうだな、なぁ宗介」
「はい」
宗一郎と佳子は顔を見合わせて頷き合った。
(い、今更とはどういう意味なのだろう)
その
「あ、それではケーキを切って参ります」
「あら、今更参りますなんてねぇ?」
(い、今更?)
宗一郎はうんうんと頷きながらコンソメスープを口に運んでいる。果林はこの雰囲気はなんだろうと戸惑いながら冷蔵庫で冷やしたタルトタタンを裏返し包丁を当てた。そして包丁の刃先がスッと入った感触に安堵した。
(良かった、久しぶりに焼いたから上手く焼けるか心配だったけれど美味しそう)
6等分に切ったタルトを白い小皿に取り分けてゆく。それにしてもカトラリーや皿はどれも上質な物ばかりで指先が震えた。
(そうだった、ここは社長宅の食堂!)
厨房の果林を期待の眼差しで凝視する3人の微笑みに思わず顔が引きつった。
(・・・・・っうっ!)
「お待たせいたしました」
「あら、まぁ美味しそう!これはなんと言うの?」
「タルトタタンです」
「母さん、食べてみて本当に美味しいから」
「そうだぞ、果林さんのケーキは今まで食べた中で一番美味いぞ」
「そうなのね!いただきます」
佳子が焦げ目の付いた飴色にフォークを入れるとカリッとひびが入りその隙間から甘酸っぱいりんごの香りが広がった。底に敷き詰められたタルトはしっとりと柔らかくタルトタタンを口にした佳子の表情はパッと明るくなった。
「本当!美味しいわ!」
「嘘なんか言わないよ」
「そういう意味じゃないわ!果林さん、温かい味がするわ!」
宗介が表現する温かい味は佳子から引き継いだものなのだろう。
「これからずっと果林さんのデザートが食べられるなんて幸せだな」
(・・・・・ずっと?)
やはりここでも怪しげな言葉が転がり出て来る。
(宗介さんはなにを企んでいるんだ)
果林は隣の席で澄まし顔で紅茶とタルトタタンを味わう宗介の顔を見た。
食事を終えた果林と宗介はエレベーターの箱の中に居た。気まずい雰囲気を破ったのは宗介だった。
「今夜はお疲れ様でした」
「はい」
「タルトタタン、美味しかったです」
「ありがとうございます」
「父と母も喜んでいました」
「私、社長さんと奥様にお会いするなんて思ってもみませんでしたから驚きました」
ぽーーん
「果林さん」
「はい、なんでしょうか」
靴を脱ぎながら顔を上げると神妙な面持ちの宗介が果林を見下ろしていた。やはり宇野との出来事で気分を害しているのかと姿勢を正すと微妙な間と改まった口調で「シャワーを終えたらリビングに来て下さい」と言われた。
「分かりました、なるべく早く準備します」
「いや、それは大丈夫です。私も心の準備をしますから」
「・・・・・・は?」
「いえ、なんでもありません」
(なんなんだ)
果林がリビングに行くと天井の照明は落とされ間接照明がオレンジ色の仄かな明かりを灯していた。
「お待たせしました」
リビングテーブルには赤ワインとワイングラスが2つ置かれ重々しい空気が漂っていた。
(やっぱり宇野さんとの事で怒ってる?)
果林は唾を飲み込んだ。
「果林さん、座って下さい」
「はい」
(な、なんなんだ)
「はい、果林さん。お疲れ様です」
「あっ、私が注ぎます!」
「私に注がせて下さい」
深紅のワインは芳醇な香りを漂わせた。宗介は驚く早さで一杯目のワインを飲み干した。
「宗介さん、大丈夫ですか」
「はい」
「飲むペース、早くないですか」
「はい」
宗介は二杯目のワインを飲み干すと《アフォガートはイタリアでは溺れるという意味です》と果林の耳元で
「私は2年間、毎日あなたに会いに行きました」
「お仕事だったとお聞きしていましたが」
「アフォガートをオーダーしていたのは、つまり」
「つまり?」
「毎日、あなたに”好きです”と告白していました」
(あれはそういう意味だったの!?)
果林が慌てふためいていると宗介はおもむろに立ち上がりチェストの引き出しを開けた。
「果林さん」
(これは・・・ドラマでよく見るあれだ)
婚姻届と印字された紙、薄茶の枠線の中には辻崎宗介の現住所、本籍、両親との続柄が丁寧な字で書き込まれ印鑑が捺されていた。証人欄も記入済みだ。
「これはいつの間に」
「先日、市役所に出向く仕事があったので一緒に頂いて来ました」
「この婚姻届はどういう意味でしょうか?」
「宇野と結婚をするのか、私と結婚をするのか決めて下さい」
宗介は果林の手を握った。宗介の手のひらは緊張で汗ばんでいた。
「結婚を決める」
「はい、決めて下さい」
宗介からの突然のプロポーズに面食らった果林は婚姻届を眺めながら溜め息を吐いた。
翌朝、目が覚めると宗介は既に出社していた。
「・・・・宗介さんと結婚」
洗濯機のドラムの中で2人のインナーが絡み合っている。果林はそれを座り込んで眺めていた。
「結婚」
いつの間にか洗濯物を一緒に洗うようになっていた。
(同居生活と同棲生活の違いってなんだろう)
この部屋の中で宗介の手が果林に伸びる事は無かった。
(これって同棲生活になるのかな)
昨夜、たった一度手を握っただけの清く正しい関係だがいつの間にか宗介の両親は2人が結婚を約束した仲だと思い込んでいる。そしてついに宗介からは婚姻届を手渡された。
(これは一考の余地も無いという状況なのでは?)
果林は手を広げて1本、2本と指折り数えた。
1、手を握っても嫌じゃ無かった
2、言葉使いが優しい、気性は穏やか
3、イケメン
4、仕事が出来る、家柄が良い、金持ち、副社長
5、一緒にいると嬉しい、楽しい
(プロポーズを断る理由が見つからない)
宇野には大変申し訳ないが答えはひとつしか考えられなかった。
その日、
「あ〜もう少しこっちです」
「ここ?」
「あ〜もうちょっと右です」
「右?右ってどっちだよ」
「そこ、そこです」
宇野は脚立を使って天井からぶら下がったガラスシェードのペンダントライトの位置を調節していた。首が
「あっ!」
宇野の身体がグラリと傾いた瞬間それは投げ出され床へと叩きつけられそうになった。
「宇野さん!危ない!」
「痛たたたたたた」
「大丈夫ですか?」
「オープン前に怪我するとか信じらんねぇ」
「宇野さん、頭を打たなくて良かったですね」
「災難だよ」
「良かった、大丈夫そうで」
宇野は産業医に「絶対安静、動かないように」と指示され、救急車の到着を待っていた。
「大丈夫もなにも、果林ちゃんこそ女の子が飛び出すなんて無茶しすぎだよ」
「だって、気が付いたら身体が動いていて」
「男前だね」
果林は左腕を強く打ったが「骨には異常がなさそうだ」と産業医は湿布薬を貼り鎮痛剤の処方箋を手渡した。
「ねぇ果林ちゃん」
「はい」
「
「三途の川って、おじいちゃんみたい」
「田舎の父ちゃんが言っていたんだよ」
果林は宇野の顔を凝視して悲しげに微笑んだ。
「果林ちゃん、それって駄目って事?」
「宇野さんは良い人だと思います」
「良い人ねぇ、一番聞きたく無い言葉だなぁ」
「優しくて頼り甲斐があって一緒に居ても楽しくて」
「でも駄目なんだ」
果林の目には熱いものが滲んだ。
「ごめんなさい」
「そんな謝らないでよ、あ〜あ、果林ちゃんとわっさわっさしたかったなぁ」
「そのわっさわっさってなんですか?」
「分かんね」
人影が宇野の顔を覗き込んだ。
「うおあっ!なんだよびっくりするだろ!」
「宗介さん!」
「俺の大切な部下と婚約者が怪我をしたと聞いて駆け付けた」
「はぁ?」
「誰と誰が婚約者なんだよ」
「昨夜、果林さんと婚約した」
「や、ちょっとまだお返事していません!」
宇野は大きな溜め息を吐いた。
「な〜んだよ、宗介、それを先に言えよ!」
「まだ未確定な案件だったから告知しなかった」
「なんだよ、案件だの告知だの誤魔化しやがって、いつの間に出来てたんだよ!」
宗介は腕組みをすると勝ち誇った顔で宇野を見下ろした。
「実はもう一緒に暮らしている」
「はぁ〜!?」
「まぁそういう事だ。残念だったな、だからおまえと果林さんはわっさわっさ出来ない」
「信じらんねぇ!」
そこへストレッチャーを手に救急隊員が駆け付けた。
「怪我人はこちらの方ですか」
「はい、ちょっと頭がわっさわっさしているみたいなので念入りに検査して下さい」
「ちょ、おま!」
「はい、静かにして下さいね。はい、ストレッチャー通ります!どいて下さい!通ります!」
「これで虫は消えたな」
「宗介さん、なんだか宇野さんが気の毒です」
「虫は徹底的に駆除すべきです」
「そうですか」
「はい、それよりも果林さんも怪我をされたんですよね!」
「あぁ、打撲程度です」
ふと見ると腕が膨れ上がっていた。
「こ、興奮していて気付かなかったんですが・・・・やっぱり痛いみたいです」
「早退して下さい!」
「は、はい。そうします」
果林はエレベーターの中でうずくまった。
耳元に風を感じた。
(・・・・・・ん)
鎮痛剤を服用した果林はいつの間にかリビングのソファで眠り込んでいた。西日が差し込む光の筋、肩に触れる温もりと心地良い重さに目を見遣ると隣で宗介が寝息を立てていた。
(!?)
見回すとそこは宗介の部屋で果林が仰向けになっているのはシダーウッドの香りがするキングサイズのベッドだった。
(これは、ベッドまで運んでくれたんだな、ん?)
宗介の部屋はリビング続きで抱えて運ぶには丁度良い距離だと思われた。
(ングググぐ)
起きあがろうとするが鎖骨に伸びた宗介の腕が兎に角重い。
(脱力した人間の重さ・・・・・・半端ない)
果林が身体をよじっていると宗介の腕から力が抜け、
「宗介さん、宗介さん起きて下さい」
「・・・・・ん」
「宗介さん」
夢か
(・・・・・ちょっ)
「宗介さん、起きていますよね!」
指先がルームウェアの裾から中へ差し込まれた。
「宗介さん!」
「ちっ、ばれたか」
(・・・・・ちっ!?今、ちって舌打ちしたよね!?)
果林が宗介に向き直ると優しい眼差しが捉えて離さずゆっくりと唇が重なった。
「・・・・・!」
「腕、やっぱり痛いですか?」
「腕よりも!今、き、キスしましたよね!」
「キスなら一度しているじゃないですか」
「あ、あれは、なんて言うか雰囲気に流されて!」
宗介は果林の額に口付けで呟いた。
「宇野ではなく私を選んでくれたんですね」
「そ、それは」
「ありがとうございます」
宗介の指先がルームウェアの裾をめくった。
「ちょっ」
「ちょ?」
「こういう事は、怪我が治ってからにして下さい!」
すると宗介は
「分かりました。怪我が治ったらにします」
「ぐっ、ぐぬぅ」
「でも気持ち良かったでしょう」
「ぐっ、ぐぬぅ」
「我慢は禁物ですよ」
「宗介さんは我慢して下さい!」
穏やかな物腰に見え隠れする素顔の宗介に果林の心はときめいた。
「もーーー!」
「牛ですか」
「もーーー!」
「美味しそうな牛ちゃんです」
「もーーー!」
果林はクッションを宗介に投げ付けた。
「さぁ、夕食ですよ。今夜は食べやすい献立をお願いしました」
「なんですか?」
「冷たいお素麺です、それならお箸で摘みやすいでしょう」
「ありがとうございます」
これまで木古内和寿から身体の具合を気遣われる事など皆無で熱があっても働かされた。宗介とは互いを思い遣れる穏やかな暮らしを営むことが出来るだろう。2人の結婚生活の輪郭が見えたような気がした。
「なんですか?」
「宗介さんといると幸せだな〜って思いました。」
「それなら婚姻届に印鑑を捺して下さい」
眩しい笑顔が屈み込んで来た。
「そ、それは」
「お素麺を食べたら捺しましょう」
「それは」
エレベーターの中で詰め寄られて汗が滲んだ。
「うーん」
そして素麺を
「え、そうなんですか!?」
「そうなんだよ、こいつは
「父さん、虫の横に靴を《置いただけ》です」
「あらまぁ、困った子ねぇ」
「え、そうなんですか!?」
「果林さんに慰謝料600万円払えと殴ったらしいぞ」
「父さん300万円です。あと300万円は割られた窓ガラスの賠償金です。それに殴ってはいません」
「あらまぁ、暴れん坊さんねぇ」
「え、そうなんですか!?」
「今日は果林さんを婚約者だと叫んで女性社員が泣いているらしい」
「叫んではいません」
「同じようなものだろう」
「父さん、今夜婚姻届が仕上がりそうです」
「あらまぁ、情熱的ねぇ」
和やかな一家団欒、果林に逃げ場はなかった。
(印鑑捺すか)
宗介は無言で素麺をすすり続けた。
満面の笑みとはまさにこの事。
「はい!ボールペンと万年筆、どちらが宜しいですか!?」
「・・・・・・・」
「朱肉は丸と四角がありますが、どちらがお好きですか!?」
「・・・・・・・」
宗介はクッションを抱えテーブルの横で果林の顔を覗き込んだ。
(犬みたいだ)
飼い主にボールを投げてくれと尻尾を振る大型犬が隣に座り目を輝かせている。確かに婚姻届に印鑑を捺す事を断る理由などなにひとつ無い。
「では、書きます!」
「ボールペン、万年筆、丸、四角!」
「そのどれも要りません」
「え、なんですかそれ」
果林はシャープペンシルを取り出すとカチカチカチと芯を出した。
「シャープなペンソー」
「はい」
「間違えると困るから?」
「いえ、
宗介の眉毛は八の字になり眉間にシワが寄った。
「それはまた面倒な」
「私なりのけじめです」
「真面目」
「
カーペットの上に伏した宗介は恨めしい面持ちで果林を見上げた。
「じゃあ《あっち》もお預けですか」
「あっち?」
「夕方の続きです、愛の行為です」
「なっ、生々しい表現しないで下さい!」
「じゃあ、セッ・・・・・」
「それも言わないで下さい、分かりますから!」
「ですよねーー」
「ですよねーー」
「で、そちらはご検討頂けるのでしょうか」
「・・・・モチロンデス」
「はい!?聞こえませんでした!もう一度!」
「勿論です!そちらの相性も大事ですから!」
「38歳なのでお早めにお願いします」
「現実的ですね」
「重要事項です」
宗介は携帯電話を開いてGoogleカレンダーを果林に見せた。
「なんですか?」
「10月5日
「はい、間違いありません」
「この前日、10月4日が私の誕生日です」
「そうなんですね!おめでとございます!」
「ありがとうございます、39歳です」
「なんだか暗いですね」
「なんとなく祝う気分にはなれません」
「そうですか」
「はい」
「しかし!誕生日の翌日に婚姻届!神様が私に下さった贈り物に違いありません」
「はぁ」
「なんですか、その気のない返事は」
「なんとなく」
「そうですか」
「はい」
果林は1人で盛り上がる宗介を横目に婚姻届記入欄にシャープペンシルで一文字、一文字丁寧に 羽柴果林 と書き込んだ。
「宗介さん」
「なんですか」
「ありがとうございます、私、今すごく幸せな気分です」
「そうですか」
「はい」
宗介は果林の顎を優しく摘むと唇を重ねた。
「早く怪我が治りますように」
「ありがとうございます」
「《あっち》が出来ませんから!」
「そっちですか!」
素麺をすすった夜、婚姻届に印鑑が捺される事はなかったがシャープペンシルで2人の思いが繋がった。