Ⅵ話:顔面着地は物理的に痛い

 ぜぇはぁと息をして立ち上がれない聖愛の前に、アシャンティがしゃがみこむ。


「聖愛……大丈夫?」


「大丈夫だと、思ってんの?」


「お前体力無ぇのな」


「はぁ〜? はぁ……もういいや……」


 打ち付けた鼻が痛かった。骨が折れていないといいのだが。この世界にレントゲン写真は無いだろうから折れていても一目じゃ分からない。


 アシャンティは聖愛の髪についた土汚れをパッパと払うと、無理矢理聖愛を立たせる。


「ほら、もう少しだからさ」


「アナタの言う、『ギルド』?」


「そう、ギルド。

 転んだのに泣かなくてえらいじゃん」


 ぽんぽんと頭を撫でられるが、殺意しか湧かなかった。その手をベシッと払って、聖愛は仕方無くゆっくり歩き出す。アシャンティは聖愛の隣を歩いた。


「そんなちんたら歩いてたら日が暮れるよ?」


「じゃあアシャンティだけ先に行けば? 置いていってくれていいよ」


「なんで拗ねてんの?」


「疲れたの。“お嬢様”らしさを取り繕ってもられないわ。

 ……なに?」


 実際聖愛は拗ねていた。こちとら本日腹を刺されたというのに、その後にする運動ではない。そもそもアシャンティが本当にギルドの人間なのか、善人なのか悪人なのかもわからない。人気ひとけの無い所に連れて行かれて後ろから気絶させられるなんてことが普通に起こりそうな治安だというのに。アシャンティが第二の暗殺者だという可能性だって否定出来ない。


 そんなアシャンティはといえば、何を思ったのか聖愛の髪をさらりと持ち上げ掻き分けるとうなじに鼻を寄せる。


「——良い香りがする」


「はァ!? なんなのさっきから突発的行動と発言!!」


「最初に会った時から思ってたって。なんか良い香りするなぁって。俺香水とか嫌いなんだけど、これは好きかも」


「あっそぉ……でもアタシ香水なんて付けてないわよ」


「じゃあこれ、マリアの香りなの?」


「知らないけど……アタシ花じゃないから香りの自家製生とか出来ないし……」


 先程から思っていたが、アシャンティは言葉が足りなすぎる。それとも聖愛が汲み取る力が足りないのだろうか。


 嗚呼、今頃メリンダは無事に家に着いただろうか。あまりにも粗末な小屋に悲しくなっていたら申し訳が無い。にしても、聖愛の暗殺を企てたのがエラだとして彼女は次にどんな手に出てくるのだろうか。アンドレイによってエラが聖人君子ではないことが露見してしまったのだが、彼女はこれから社交界でやっていけるのだろうか。最早蝶となった聖愛には、芋虫であるエラのことなど気にかけてやる余裕は無いが。


 芋虫は安定している。蛹から蝶になった瞬間から、命の燃え尽きへのカウントがスタートするのだから、それを知らずにのうのうと生きていられる芋虫は幸せなのだ。マリア・ギルベルタ・ソフィー=レヴァンタールも芋虫であったうちは幸せだっただろう。芋虫から蛹とされ、梦視侘聖愛となり蝶に羽化したのだから、あとは休まらない足場で空を飛びながら他者の蜜を吸い、鳥などの脅威に脅かされながら冬まで交尾をし卵を生み命を使い尽くす人生が待っている。蝶々万歳だやってやると思っていたが、こうも意味不明なものが重なると心も折れてくる。