09.あてられたのは01

 ジークの意識は、夢と現の狭間を漂っていた。

 うっすらと汗を浮かべた額を、ふわりと揺れた前髪が撫でる。


 リュシーが部屋を出て行ってから、どれくらい経っただろうか。


 リュシーの予想通り、床にはブーツが転がっていた。

 けれども、あの時の物音の正体はそれだけじゃなかった。突風に煽られた窓が、一カ所開いた音でもあったのだ。リュシーが急いだせいか、完全には閉まっていないところがあったらしい。


「……っと」


 結果開け放たれていたその縁に、何かが飛来する。直前に空中浮揚を挟んだためか、着地の音はなく、降り立ったそれはするりと室内に入り込んできた。

 黒尽くめの影の背中には蝙蝠のような羽があった。それが霧散するように消える。


「――こいつか?」


 ベッドへと近づいて行く人型のそれは、ジークより高く、アンリより低い上背の男だった。浅めに被っていたフードを背中に落とすと、黒銀色の短髪と双眸が露わになる。褐色の肌。犬歯と耳の先が通常の人間より少々尖っている。


 男は身を屈め、眠るジークの顔を覗き込んだ。


「あ――。さっきよりかは収まったけど、それでもすげー匂い」


 確認するように頷くと、楽しそうに目を細め、そのまま首筋の肌をぺろりと舐める。味わうように意識すると、その甘やかな味と香りに僅かに目を瞠った。


 きわめて美味――とばかりに舌なめずりして、男はジークの顎先に指をかける。

 少しだけ上向かせると、開いた唇の隙間から熱っぽい吐息が漏れてくる。誘われるように、そこに自分のそれを重ねた。


「……っ! ぅえっ」


 けれども、次の瞬間、男は弾かれたように身を退いた。

 さっきとは別の意味で舌を出し、傍らにぺっぺと唾を吐く。


「まぁ――っず! なにこれ、薬の味?!」


 男は苦々しく顔を歪めながら、口元を拭う。

 蠱惑的な甘さはあるものの、その奥にどうにも不快な何かが潜んでいる。それを敏感に感じ取った男は、しばらくジークの唇を名残惜しそうに見つめていたが、再びそれを試そうとはしなかった。


 ――しなかったが、その手は改めてジークへと伸ばされた。


「キスがダメでも、やることはやれるからな」


 口元に笑みを貼り付け、男はジークの上へとのし掛かる。微かにベッドの軋む音がしたが、隣室まで届くほどのものではなかった。


 男はジークの首筋に顔を寄せ、すんと香りを確かめてから、再度素肌に舌を這わせた。



 *  *  *



 アンリは心持ち飛行スピードを上げた。

 その眼前に、ひらりと一枚の白い羽根が飛んでくる。

 僅かに顔を逸らせてそれを避けると、今度は前方に大きく翼を広げながら飛翔する人影が目に入った。


「――ラファエルか」


 呟きながら目を細め、そのまま一気に距離を詰める。


「やぁ、アンリじゃないですか。仕事ですか?」


 隣にさしかかると、ラファエルと呼ばれた男がアンリに気付く。

 ラファエルは白金色のつややかな長髪をなびかせながら、金色に煌めく瞳に柔らかい笑みを滲ませた。


 けれども、アンリは問われたことには答えず、


「お前こそどうした。天界に帰省中じゃなかったのか」

「あぁ、ええ……そうなんですけど。ギルベルトが……」


「あの低脳な悪魔阿呆とまだ付き合いがあるのか。お前も物好きだな」


 吐き捨てるように言って、さっさと箒の速度を上げた。


「そこが可愛いんですよ」


 アンリの速度に合わせようと、ラファエルが翼をはためかせる。苦笑気味に言いながらも、その表情は満更でもなさそうだった。

 アンリはやはり何も答えず、更に速度を上げた。


「で……お前はどこに向かっている?」


 詳細を聞くつもりはなかったが、無言のまま併翔されると問わずにはいられなくなる。

 アンリは飛行速度を落とすことなく――どころか、むしろ上げているのに――それにずっとつかず離れずで飛翔するラファエルを一瞥した。


 ラファエルは一つ瞬き、それからにこりと微笑んだ。


アンリあなたの家です」