第17話 接近一択/舞台の下で

「……ふう」


 トレーニングウェアを着た解恵かなえは、汗をぬぐいながらベンチに腰を下ろした。


 界雷かいづちマテリア総合学院、部室棟四階。ここではアイドル部に入った少女たちが、鏡張りの壁に向き合いダンスレッスンに励んでいる。全員、入ったばかりの新人だ。


 ここ最近ですっかり顔なじみとなった仲間たち。彼女たちの笑顔は絶えず、練習も楽しそうにこなし続けている一方で、休憩を言い渡されたメンバーは真剣に、仲間の動きやトレーナーのアドバイスに聞き耳を立てている。


 トレーナーの手拍子に合わせて体を動かす同級生たちを眺めながら、解恵はスポーツドリンクを呷る。


 体が重い。心も重い。精一杯動いた後の疲労が、心地よいと感じられない。


 自分も一緒に楽しみたいのに。


「……はぁ……」


 急に寂しくなって天井を仰いだ。トレーナーの厳しくも丁寧な指導の声が、次第に遠くなっていく。


 ―――お姉ちゃん、今日もアメフト部にいるのかなあ。


 退院した次の日、姉は妙にアクティブになった。


 朝は解恵かなえたちと登校し、ありすが心配だからとアメフト部に仮入部。授業時間は図書館で過ごしているらしい。


 悪いことではないはずだ。少なくとも、引きこもるよりずっといいはず。


 それでも不安がぬぐえないのは、彼女が倒れたあの夜のことがあるからだ。


 堪え切れずに寮を飛び出た際の危機感。無残な姉を見つけた時の、冷や水を浴びたような冷たさ。昏々と眠り続ける姉の横顔。そればっかりが頭に浮かんで、練習にも身が入らない。


 ―――お姉ちゃん、大丈夫かな?


 ―――あたしの知らないところで、苦しんでたりしないかな?


 ―――どうして何も言ってくれないの? あたし、そんなに頼りない……?


 両手の中で、ペットボトルがくしゃっと潰れる。


 悔しい。そんな想いが胸を焼く。


 昔から、鍵玻璃きはりはなんだってできた。勉強も、運動も、エデンズも。


 それに比べて解恵はダメな子供だったが、努力の末ここまで来れた。遠かった姉の背に、指が触れるぐらいにはなったはず。


 ―――なのに、なのに……なんでこんな遠く感じるの……?


 ―――ねえ、どうして? お姉ちゃん……!


 俯き、目を潤ませる解恵のうなじに、湿った冷たさがあてがわれた。


「ひゃんっ!?」


 解恵かなえは思わず飛び上がり、ひっくり返りかかる。


 その手をつかみ、引き戻したのはハニーであった。


「お疲れ、かなえん。隣、いい?」


「ハニー! い、いいけど……」


「よっと!」


 微笑んで、ハニーは隣に腰を下ろす。


 解恵かなえと同じく、涼しそうなスポーツウェア姿。すらっと伸びた手足は、解恵よりはやや細いものの、健康的な色香が漂う。


 火照った体にスポーツドリンクを入れて冷やすと、ハニーは指で頬を突っつく。


「ま~たきはりんのこと考えてたでしょ。まあ、ムリも無いけどさ」


「うん……。ハニーは?」


「そりゃあ、ね」


 そう言って、ハニーは肩をすくめてみせた。


 気まずい沈黙。きっと思っていることは、ふたり一緒だ。解恵かなえはそんな風に感じて、目を伏せる。


 授業に出て、部活に励む。もっと共通の友人を作って、休みの日は出かけたりして。そんな当たり前の生活を、鍵玻璃きはりと一緒に過ごしたい。


 でも、一向に上手く行かないばかりか、悪化しているような気がする。


 ハニーは飲みさしのスポーツドリンクを額にあてがいながら呟く。


「きはりん、今なにしてるのかなぁ。ありすちゃんといるのかな」


「多分。……わかんないけど」


 そんな答えが、ひどく情けないと思ってしまった。


 生まれてからずっと一緒。そのはずなのに、距離がどんどん開いていく。


 姉についていけない自分が、どうしようもなく惨めに感じられた。


 ハニーの顔にも、元気がない。


「かなえんさ、きはりんがなんで、ありすちゃんのこと心配してるか、知ってる?」


「えっ? ええっと……。……ごめん、わかんない」


「だよね、わたしも。おっかしいな、なんか……あった気がするんだけど」


 ハニーはペットボトルを額に何度も打ち付ける。


 変化したのは、鍵玻璃きはりだけではなくありすもだ。


 元々表情変化に乏しい少女ではあった。だが、ここのところはクールというより、どこか虚ろだ。


 何もない場所を見つめたり、自分のD・AR・Tダアトを見つめて固まっていたり。呼びかけに対するリアクションもやや遅い。


 鍵玻璃が心配するのもわかる。わかるが―――。


「……わかんないよ」


 解恵かなえが嘆くと、ハニーは顔を曇らせた。


 ハニーには、解恵に教えていないことがひとつある。鍵玻璃きはりが退院した日の夜、鍵玻璃とありすが何か話をしていたことだ。


 内容は思い出せない。しかし、ありすのすすり泣く声が、今もまだ鼓膜にこびりついている。同じ声を、病院でも聞いた気がする。鍵玻璃がアメフト部に仮入部すると言い出したのは、その翌日だ。


 ありすの身にも、何かが起こった。その何かとは、なんだ?


 解恵かなえに伝えるべきかもしれない。けれど、これ以上悩ませたくない。


 ―――どうしたらいいかな。何をしたら、綺麗に丸く収まるのかな……。


 ハニーが奥歯を噛み締めていると、強い拍手の音がした。


 ふたりはそろってビクッとし、おもてを上げる。いつの間にかふたりの前に、ハンサムな男性が佇んでいた。


 解恵たちのグループを監督するトレーナーである。


「アータたち、な~に暗い顔しちゃってんの! 入部する時に教えたでしょう? アイドルは?」


「「笑顔が大事っ!」」


「よくできました」


 ピンと跳ねるように立ち上がったふたりの声を聞き、トレーナーは破顔した。


 女性的な口調の彼は、直立したふたりの顔をじっと眺めまわすと、鏡張りの壁に並んだ他の部員たちに呼びかける。


「先にやっていてちょうだい! アタシの教えたリズムと関節ひとつひとつの動きを意識して! はい、復習!」


 よく響く拍手の音に従って、部員たちが動きを揃えて踊り始める。


 練習が始まったことに内心焦りを感じつつ、解恵かなえはうつむく。何か悪いことをしてしまったのだろうか。


 やや怯えるふたりに対し、トレーナーの声は思いのほか優しいものだった。


「そんな身構えないでちょうだい。別に叱りつけたりしないわよ! ただ……何か悩みがあるんじゃないかと思ってね」


 解恵かなえは内心ほっとしながら、上目遣いにトレーナーを見つめた。


 彼の表情が、優しい微笑みから真剣なものへと移り変わる。両手で解恵とハニーの顎をそれぞれつかみ、上を向かせると、静かに囁きかけてくる。


鍵玻璃きはりちゃんって言ったわよね。その子のことで何かあった?」


「え……」


 解恵かなえは目を丸くする。部員でもない姉のことを、どうして。


 ハニーもややぎょっとしたようだった。トレーナーは苦笑する。


「そんな驚くことないじゃない。あの子は有名人だし、何があったかは病院側から聞いてるわ。退院したって聞いたけど、何か問題でもあるの?」


「……はい」


 解恵かなえは首を縮こまらせて首肯する。


 本当は、軽々に言うべきではないのかもしれない。それでも、正直限界だった。


 行き詰っている。どうすればいいかわからない。放置はできないが、良いアイデアも浮かばないのだ。


 全身を小さく固めて震える解恵の姿を横目に、ハニーがかいつまんで説明をする。あくまで最低限、自分たちが確実に話せる程度まで。


 それを聞いたトレーナーは腕を組み、顎に手を当てて考え始めた。


「なるほど、そういうコト」


 ふーむ、と鼻を鳴らすトレーナー。ハニーは両手の指を合わせながら、ポツリと呟く。いつの間にか、偽らざる本音を口にしてしまっていた。


「……だから、あの子たちが何考えてるのかわからなくって。それが心配で……」


「ま、それはそうよね。アタシたちとしても、見過ごせないわ」


 トレーナーはそう言うと、ふたりの耳元に顔を近づけ、囁いた。


「いい、アータたち。もしその子が何を思ってるのか知りたいのなら……陰からこっそりついて、じっくり観察なさい。独り言の一言も聞き逃しちゃだめよ。決定的な場面に出くわしたら飛び出して、その場で詰めてやりなさい」


「えっと……それって、ストーカーしろってことなんじゃ……」


「そうね。バレたら嫌われるかもしれないわ。でも、考えても御覧なさい。教えてくれないんなら、自力で調べるしかないじゃない。正面からぶつかってダメなら、こっそり行くしかないないのよ。もちろん、無理にとは言わないけどね」


 ハニーのぼやきに、トレーナーは至極真剣な表情で言う。


 そうかもしれないと解恵かなえは思った。引きこもっているなら調べようもないが、今の姉はアクティブだ。外で何をやっているのか、ついていけばわかるかも。


 あるいは、ありすに聞いてみるのもいい。こんな単純なことに、どうして気づけなかったのだろう。


 ―――お姉ちゃん。やっぱりあたし、ダメなカナかも。


 ほんのり苦笑していると、トレーナーが強く肩を叩いてきた。びくっとして顔を上げると、真摯な瞳と視線がぶつかる。


「気になるんでしょ、その子のこと。練習に集中できなくなるぐらい。大切で、大好きで、だから死ぬほど心配してる。違う?」


「……はい」


 解恵かなえは迷わず頷いた。


 嫌われてでも、という注釈は、あまり心に響いていない。そんなことより、姉の心がどうなっているのかの方が重要だった。


 ―――教えてくれないんなら、自力で調べるしかない……。


 ―――そうだよね。うん、そうだよ。


 ハニーは何か言いたげだったが、解恵かなえが顔を上げたのを見て自重する。


 彼女は、完全にやる気だった。その鼻先を、トレーナーの人差し指が押す。


「たーだーし! 本当に危ないことをしてるとかだったら、誰でもいいわ。アタシでも他の教師でも、110番でもなんでもして助けを求めなさい。解決するまではお休みあげるから」


「お、お休み? でも……むきゅっ!?」


 口答えしかかる解恵かなえの鼻がつままれる。


 ちょっとしたスキンシップをとりつつも、トレーナーは真剣だった。


「アイドルは笑顔が大事って言ったでしょ? 作り笑いじゃだめなのよ。心から笑えないなら、とてもやっていけないわ。だから、これはアタシからの特別レッスン。悩み事を解決しなさい。心の底から笑うためによ! いいわね? 返事!」


「「は、はいっ!」」


「なら良し。ほら、今すぐ行く! ……何かあったら、いつでも連絡しなさいね」


 解恵かなえとハニーは顔を見合わせ、やや戸惑いながらも部室を飛び出す。


 活動中に突然走り去っていったふたりを、他の部員たちが怪訝そうに見送る中、トレーナーは手を叩いて発破をかける。


「はい、そこで止まらない! “一度始まった舞台は何があっても完遂すべしショー・マスト・ゴー・オン”よ! 一度始めたんならきっちりやり切る! 半端は許されないわ、いいわね!」


 はい、と威勢のいい返事とともに、少女たちはトレーナーの手拍子に乗った。