第十六話

 ああそっか。

 これを話したかったんだ。


「私は今、何者でもない。名ばかりの第一王子で、きっと今頃城では弟や妹が王位継承するものだと皆が思っているだろうし話も進んでいるだろう」


 彼の優しい体温を感じながら、私は彼の別れ話を聞く。


「でもここに来て君と出会って様々なことを知った、色んなことをした。何も出来ないと思っていたけど色んなことが出来た。だんだんと私はやってできないことはないものなんだと、知った」


 優しい語りは続く。


 彼に足りていなかったのは成功体験。

 そっか、もう十分成功を体験していたんだ。


 良かった。

 本当に良かった、良かったんだ。


 彼は快方し解放されたんだ。

 もうあんなに苦しむことはないんだ。


 良かったのに…………駄目だ、私は最低だ。

 心の片隅に無視できない「もう少しだけ」だけがチラついて離れない。


「乗馬や勉強、絵や仕事、会話や人形作り……人並みにこなせるようになって」


 頭の中がぐちゃぐちゃになる私をよそに、彼は続ける。


「そして今日、師範を投げるに至った。返し技を抜けて返して…………まあ細かいことは抜きにして、私は黒帯になった」


「え、すごっ」


 彼の報告に、私は素直に反応する。


 びっくりした。そりゃあ自信もつく。

 師範ってあの師範でしょ? 素人目から見てもめちゃくちゃ達人で、最初彼が何で師範と組むと転んじゃうんだろって思うくらいに、私にはもう投げてるのか何してるのか分からないくらいの合気道使いの師範を……。


 彼も道場に通いたての頃は「あの域に届くことはないだろう」って言ってたのに……、それは流石に自信になるというか才能を自覚する。


 そうだね。あの師範を投げられるんなら、やってやれないことなんてないよ。 


 私はこの別れ話に納得をして、同時に彼の成長に安心をする。



 そう言って、彼は私の腰に回していた腕に少し力を入れてぎゅっと強く抱く。


 より密着して彼の体温が伝わる。

 あったかい、このまま溶けてしまいたいと思うほどに彼の温度にあてられている。


「好いた女子に振り向いてもらえた、恥ずかしくなるくらい君を好きになった」


 彼のその言葉に私も、腰に回る腕に手を重ねて返す。


「愛してる。絶対に君を離さない……離したくない」


 これ以上ない、どストレートな愛の言葉を私に向ける。


 一切の比喩もなく、それ以上の言葉がないから他に言いようがない。

 百回言っても言い足りない、この感情を明確に表す言葉がまだ世界にない。言語の不備だ。


 でも私にはわかる。

 彼の重い思いと想いが、その一言にどれだけ乗っかっているのか。


 だって私もそうだから。

 私もあなたを愛してるから。


「だからこそ私は王都に戻らねばならない」


 やや力を込めた声で、彼は再びそれを言った。


 だから……? それとこれは反している気が……。


「私は王家として君の無実を証明する。そして君を次期王妃として王都に連れ戻す」


 彼は力強く、宣言する。


 まさか……そうなるの?

 いや……、だってそんなの……そんなのって。


 確かに私は無実、でも無罪にはなれない。

 イザベラの自作自演だと知られるわけにはいかないし、知れるわけもない。


 でもそれより私は、プロポーズに心がときめいてしまっている。乙女が抑えられない。


「簡単でないことはわかっている。私は安楽椅子探偵でもない、だが第一王子だ。しかも黒帯で君に愛された。やって出来ないことでもないさ」


 私の緊張が伝わったのか、彼は少しおどけるように甘い声で優しく続ける。


「必ず迎えに来る、僕を待っていてくれないだろうか」


 耳元で彼は私の心を溶かす言葉を囁く。


 その囁きに私は。

 振り返って首に抱きついて、唇を重ねてから。


「……うん、待ってる。迎えに来てね」


 私はだらしのない笑顔で返す。


 そして自分で自分の言葉に驚く。


 


 待ってる……?

 私の無実を証明するなんて不可能だ。

 真実には辿り着けないのに……。


 私は今、彼を気持ちよく王都に帰す為の嘘とかじゃなくて。


 心から彼の成功を、信じて答えた。

 いつでも奇跡を信じる乙女ヒロインである、メリィベルの言葉だ。


 これ以上ないほど、彼との別れになることが理性では理解出来ているのに。


 私は奇跡を信じずにはいられない。

 いちの望みに、すがらずにはいられない。

 彼を愛せずにはいられない。


 どうしようもない。

 別れ話にすらときめいている私は、本当にどうしようもない。


 そして、一週間。


 ローゼンバーグ公爵へアキ先生の診断書付きの退院許可を送って、城から辺境の地へと迎えの馬車がやって来るまでの時間だ。


 まあ私たちは穏やかに………………。

 いや、かなり淫らにただれていたか。前世も含めてこんなに乱れた日々を送ったことはなかった……、なぜか背中の右側と左の太もも裏がちょっと筋肉痛。多分変な力の入る癖があるんだな私……。


 閑話休題。

 つまり、別れの日って話。


「荷物は積み終えた。天気も良し、旅立つには良い日だ」


 診療所の前に付けられた数ヶ月ぶりの馬車の前で、彼は晴々とした空を見上げて言う。


「うん、変に荒れなくて良かったね……うん」


 私はそんな彼を見ながら返して。


「しっかり夜は寝ること、もう春だけど朝方は冷え込むから暖かくすること、湯船にちゃんとかること、あとちゃんと野菜も食べること、適度に運動すること、合気道もいいけど無理はしないこと、煙草は二十歳になってから……えっとそれから――」


「――あんまり可愛いと、行きたくなくなる。そのくらいにしてくれ」


 べらべらと時間を稼ぐ私の中身のない言葉をさえぎるように、優しく微笑んでそう言って。


「これは別れではない、だから別れの言葉などいらないんだ」


 真摯な眼差しで、私の目を真っ直ぐ見ながら安心する声で私をたしなめる。


「…………そうだね」


 私は胸の中の寂しさを振り切る精一杯の笑顔で返す。


 きっと心の機微に敏感な彼なら、私の胸中なんて容易く察しているのだろう。

 でも……、それでも絶対に、私が信じていようとも諦めていようと彼は絶対に王都で私の無実を証明すると決めているんだ。


 そして迎えに来る。

 それが彼の中での決心だ。


「では、また会おう」 


「うん、またね」


 笑顔の彼にそう返して、馬車を見送った。


 何度か馬車の窓から身を乗り出して、彼は私に手を振る。

 私も彼が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けて。


「…………………………っ」


 これ以上ない別れの言葉を、涙と一緒に地面へ落とした。


 しばらくは目を冷やして。

 腫らしては冷やして。

 やっとこさアキ先生に「マシになった」と言われた頃。


 私は春めいてきた空気を鼻の奥で感じながら、いつもの場所で煙草をくゆらせる。


 やっと、彼との別れに対して理性で心を抑え込むことが出来るようになった。


 全然今でも彼が好き。

 毎朝彼がいない喪失感で起きたくない。

 彼の夢を見た朝なんてもう……、いや考えすぎないようにしなくちゃ。


 これはもう時間しか解決しない。

 いい思い出にする……いや思い出になるのを待つしかない。


 失恋は初めてでもない。

 それに、こんなに優しい失恋ならきっと大切な思い出になってくれるはずだ。


 ………………現状はまだそんな気はしないけど。

 彼が好きで、今この時彼に触れられないことが胸を締め付け続ける。


 なんか趣味でも増やそうかしら。

 合気道で体を動かしていたら気が晴れるかしら。

 この辺りの散歩でも習慣にしようかしら。


 いや……、ここは彼との時間が絡みついて染み付き過ぎている。

 何してもどこにいっても、喪失感が心臓を握りつぶす。


 なんて考えながら二本目の煙草に火をつける。

 ちょっと本数が増えた。まあ嗜みのはんちゅうだとは思うけど……、如実に現れるわね。


 二本目をくゆらせていると。

 診療所に続く道の向こうから馬車が向かって来るのが見える。


 私は咄嗟に注視する。

 湧き出る「まさか」が止められない。


 でも、それは彼を乗せていった馬車とは違うものだった。


 一瞬で身体が重くなりつつも、見覚えのある馬車に記憶を辿る。


 あの形に、あの家紋…………。

 え、あれってイザベラの…………の馬車じゃ……。