「私って、どこで間違えたのかな……」
思わず心の声が口を衝いて出てしまった。
恥ずかしさしか含んでない独り言をごまかすように腕時計に視線を落とすと、精巧で繊細な針が午後八時を指していた。
ハイブランドには興味がなかった。バッグや財布も身の丈に合わない高級品である必要を感じたことはなかった。
でも、何か自分へのご褒美が欲しいと急に思った。去年の冬だ。私は初めて奮発して、ハイブランドの腕時計を買った。
気に入っていたはずの腕時計が、今の自分には不相応なものに見えた。
いっそ売っちゃおうか……そんな考えが浮かんでしまった自分も情けなかった。
冷たく乾いた北風が伸ばしっぱなしの黒髪を掻き分けて、首筋を無慈悲に撫でた。声を出せば負けな気がして、無言でトレンチコートの襟を立てる。
東京都武蔵野市吉祥寺南町一丁目。いま歩いてる場所の住所は、上京した際に入居したマンションの次に覚えた。この街に住みたいと思った十年前からお気に入りの場所。
今夜の七井橋通りは賑わっている。新型ウイルスのせいで無邪気には楽しめなかった数年分の
「これじゃ、逆効果ね……」
また、つぶやいてしまった。
この孤独感はマズイと思って独り暮らしの部屋を出たのは、どうやら間違いだった……いつも自分を温かく迎えてくれる吉祥寺が、今夜に限って冷たく素っ気ない。
最悪のクリスマス。
二十八年の人生の中で最悪の土曜日。二〇二三年十二月二十三日を私は忘れない気がする。それが余計に腹立たしい。
「何やってんだろ、私……」
井の頭公園の入り口にある大きな階段で、足が止まってしまった。
これは、ダメだ。このまま立ち尽くしていたら、私は泣いちゃう。それだけは絶対にダメ。
何を耐えればいいのかさえ分からずに、ただ、奥歯を噛み締めた。
その刹那、視界が真っ暗になった。
それは、瞬きの一瞬だった。
街灯が灯る夜の井の頭公園は、陽が射し込む白い部屋に変わった。
目の前にいるのは金髪碧眼の男性。
きらめく金髪に白い肌、整った鼻梁と碧玉のように輝く大きな瞳。幼い頃に夢中で読んだ少女漫画に出てきた王子様みたいな男性だった。
「えっ……?」
思わず声が漏れてしまった私の思考は、状況の変化にまったく追いつかない。
「美しい……」
男性の柔らかいテノールボイスが私の耳に届く。声まで美形だ。男性はまっすぐに私を見つめて、静かに語りかけた。
「これは失礼を。あなたを召喚したのは私です。ヴィクトル・オノレ・シャルル・アントワーヌ・ゴワイヨンと申します」
ヴィクトルと名乗る男性は、確かに「召喚」と言った。
「……召喚? 私は、召喚されたんですか? 魔法か何かで?」
つい早口になってしまった私とは対照的に、ヴィクトルは落ち着いていた。
「左様です。東方の賢者を召喚する術式を、私の魔力で行使しました。ようこそお越しくださいました。賢者殿」
困惑する私の足下で、淡いオレンジ色の光を発していた直径二メートルほどの丸い魔法陣が徐々に光を失い消え去った。
「賢者殿、御尊名をお聞かせ願えますか」
「乃笑、麻生です……」
私はファーストネームを先にして、素直に名前を口にしていた。何だかヴィクトルに訊かれると素直に答える気になってしまう……。
「ノエミ殿。アソーというのは御家名ですか?」
「あ、はい。そうです。あの……ここは?」
「リバージュ公国のポルティエ地区にある私の私邸です」
「リバージュ公国……?」
「ご存知ないでしょうか。ガリア共和国に囲まれた小国ですが」
「ガリア、共和国……ですか……?」
ガリアってガリア人のガリア? でも共和国って……初めて聞く国名だ。
歴史が好きで、大学でも革命史を専攻してた私が知らない国名?
「リバージュ
もう一人いた。年の頃はヴィクトルと同じ二十代に見える。黒髪で肩幅のある長身、意志の強さを黒い瞳の奥に秘める理知的な顔立ちの、こちらも美丈夫。
二人は同じ詰襟の軍服を着ていた。漆黒の軍服がスタイルの良さを際立たせている。
「あっ、乃笑です……」
間の抜けた返事しかできなかった。でも、思考は少し回り始めた。
公世子ということは平たく言えば王子様。なのに副官? このヴィクトルという王子様は軍人ってこと? 疑問は増えるばかり……。
「困惑しておられるでしょう。いきなりの召喚という無礼を、心よりお詫び致します」
「あ、いえ……」
「重ねて、誠に勝手ながらヴィクトル殿下と私も驚いているのです。東方の賢者が、このように美しい女性だとは想像できませんでした」
「えっ……」
私はもちろん当惑してたけど、アルフレッドの言葉に赤面しちゃっていないかのほうが気になった。
信じがたい状況なのは間違いないけど、身の危険はとりあえず無さそうだと感じて少し気が緩んだのかもしれない。
私の反応を見て、アルフレッドが微笑を浮かべた。
「どうか、ご安心ください。ヴィクトル殿下と私は、東方の賢者に助言を求める者。決して賢者殿に危害を加えるようなことは致しません」
「あの……私は、異世界の住人かもしれません」
「異世界……ですか? それは東方の国という意味ではなく、でしょうか?」
「はい。全く別の世界という意味です」
アルフレッドが私の言葉を考察する表情を浮かべ、一呼吸置いてから口を開いた。
「ノエミ殿が、そう思われた理由を教えていただけますか?」
私は一度深呼吸してから答えた。
「まず、私はいま自然に母国語でお二人と会話していますが、ここは日本というわたしの母国ではないという不自然さ。そして、私は歴史や地理に関する学問を多少なりとも修めていますが、リバージュ公国やガリア共和国という国名を聞いたことがない。さらに決定的なのは、私のいた世界では召喚魔法が実在しません」
私の返答に驚きの表情を浮かべたヴィクトルとアルフレッドは、無言で顔を見合わせた。