第57話 傾く天秤

「狛、そろそろ着くぞ。起きろ」


 猫田の声に狛はハッとして目を覚ます。空中だというのに、まるで遮るものの無い野原を行くかの如く走る猫田の背中は、温かさと適度な揺れが心地よく眠りを誘った。ちらりとスマホで時計を見れば、家を出てからおよそ二時間ほど経過しているようだ。

 犬神家の屋敷がある中津洲市から、新成田国際空港までは二つほど県を跨いでいるはずなので、狛が自分で走ったり、車で移動するよりもかなり早い。感情のままに飛び出してしまったが、本当に猫田に着いてきてもらって正解だったと狛は思う。


 この間に眠った事で、少しは身体の重さがとれた気がするのも大きい。静かに意識を集中させてみると、今も他の狗神達が一つの場所に集中しているのが解った。つまり、まだ拍は無事、或いは命があるということだろう。


(あのお兄ちゃんだもん、きっと大丈夫!…大丈夫だよね?待ってて、今すぐ行くから!)


 そう自分に言い聞かせるように、狛は決意を胸に秘める。何があっても、兄を守りたい。兄だけではなく、自分が大事に思うすべての人を、だが。


「そう言えば、猫田さんは私が調子悪いの、新月だからって言ってたけど、今は昼間だよ?影響あるの?」


「…あるさ。というより、これからもっと影響が出てくるだろう。夜に近づけば近づくほど、今日のお前は力が弱まるはずだ。昼の内はまだ、休みを入れれば何とかなる、宗吾さんからはそう聞いてる」


 そう言って、猫田はまた少し速度を上げた。一刻も早く現地に着いて行動しなければならない、そう考えているのだろう。その甲斐あってか、それから五分もしない内に空港が肉眼で確認できる距離まで来れた。あとはほんのわずかな距離である。

 しかし、事態は楽には進まなかった。次なるテロリスト達の恐るべき魔の手もまた、すぐそこまで迫っていたのである。



 狛が猫田の背の上で目を覚ます、その数分前、管制塔の屋上にいたギンザは腕を組み、静かに報告を待っていた。先程隣にいた部下らしき女性はおらず、今この場にいるのは彼一人だけのようだ。場所的に風は非常に強いはずだが、風にたなびく黒い長髪はそこまで酷くは崩れていない。


 そこへ、再び部下の女性が音も無く現れた。風に揺れるニベールの下にはアラブ系女性特有の、整った美しい素顔が垣間見えている。


「ギンザ様、第一・第三ターミナルの制圧が完了いたしました。思ったより抵抗が激しく、予定の時間を超過してしまい、申し訳ございません」


「かまわん、よくやった、サハル。この国の自衛隊とかいう軍隊も中々やるということだろう。お前達の不手際ではないよ」


「いえ、抵抗してきたのは軍人だけではないようです。何らかの魔法生物…使い魔のようなものも複数配置されておりました。それらは全て私が排除し、現在は後詰めにドローンゴーレムを配置してあります」


「ほう。お前が自ら排除に出るとは、相当なものだな。他のマキ達では相手にならなかったか。噂に聞くシキガミというヤツかな?」


 顎を撫でながら、ギンザは少しだけ驚いたような言葉を口にしてみせた。しかし、その顔は余裕綽々といった表情であり、それだけサハルという女性の腕前に信頼を置いているのだろう。ギンザにとって、それは当たり前の結果なのだ。

 サハルが排除したというのは、槐を始めとした調査部に属する犬神家の退魔士達が使う式神の事である。狗神を持たない犬神家の退魔士達の中には、式神を操る術を会得している者もいて、調査部は特にその数が多い。それによって足りない人員をカバーしたり、戦闘を任せたりするのだが、サハルはその全てを単独で撃退したというのだから、かなりの実力者だと言える。


「まぁいい。軍とシキガミの両方を叩いたのならば、次の手に出るまで少し時間がかかるだろう。この国の上層部は判断が遅いと聞くからな…クックック」


 ギンザは、よく調べてこの国の弱点を熟知しているようだ。それでも、一国の王がテロに巻き込まれたというだけあって迅速に自衛隊を派遣したようだが、この通り結果は無惨なものであった。


「それで、第一と第三ターミナルに、王はいなかったのだな?」


「はい、間違いありません。やはり国王は第二ターミナル内にいるものと思われます」


「やはりか。何から何まで予定通りに動いてくれるものだ。こうも上手くいくと、逆に不安になるというものだがな」


 ギンザはニヤニヤと笑みを浮かべて、第二ターミナルに視線を向けた。国王は、既にこの国にギンザの配下である多数のマキ達が入国している事を解っていたはずだ。にも拘らず全て事前の予定通りに行動すると言うのは、王の行動としてお粗末に過ぎる。自分が狙われている事を知らないのならまだしも、カメリア国内では秘密裏に小規模ながら内戦が勃発しているのだから、警戒しない方がおかしい。


「能天気にも程がある。やはりあの男が国王では、我が国に未来はないな」


「その通りです。我らマキは、カメリアで最も強いギンザ様を王の座に据える覚悟で今回の行動に参加いたしました。必ずや国王の首を獲り、ギンザ様を新たなカメリア王にして御覧に入れます!」


 サハルの瞳に宿るのはとても強い意思だった。狂信者のそれに近い、狂気をも感じさせる目である。ニベールによって顔のほとんどが隠されている事もあって、その眼光はより強調され、見る者全てを圧倒する勢いが感じられるようだった。


「ふふ、お前は可愛いな、サハル。では、俺もお前達の忠義に応えねばなるまい…!」


 ギンザはそう言うと、両手を広げて高く掲げ、青空に向かって何事かを呟き始めた。呪文のようなそれは、カメリア王国の古い言語であり、今ではマキを始めとしたごく一部の人間にしか伝わっていない彼らの秘術の一端である。

 ギンザが呟き始めると、それまで雲一つなかった文字通りの青天がにわかに曇り立ち、やがて空一面を覆い隠すような暗い影が、空港の上空を包み込んだ。

 その下では、髑髏のような形の悪霊達が無数に飛び回り、逃げ遅れた人々や、警戒する自衛隊の隊員達を次々に襲い出していった。


 突如始まった悪夢の饗宴は、空港全域を阿鼻叫喚が渦巻く地獄へと変貌させていく。ちょうどその時、狛を乗せた猫田が滑走路近くに到着したのだった。



「な、なに!?これ…」


「魑魅魍魎共か。この数は近くにいた悪霊だけじゃねーな…自分達で殺した人間の魂までも操ってやがる。胸糞悪いことしやがって、ろくなもんじゃねーぞ、この、てろりすとってヤツらは!」


 空中を移動している狛達は、無数に飛ぶ魑魅魍魎達を防ぎながら空港へ向かう。空から下を見れば、猫田の言っている事がよく解った。霊的な存在に抵抗できない人々が襲われて命を落とした後、その犠牲者の魂が強制的に悪霊へ取り込まれ、新たな犠牲者を求めて暴れていくのだ。

 ここに人がいる限り、そのサイクルは無限に続くだろう。まさに人を人と思わない、醜悪極まりない魔術である。


「人が…!?助けなきゃ!」


「バカ野郎!そんな余裕があるか!お前の力はそれでなくても消耗してんだぞ?拍の奴を助ける力を残しとくのが先だろ!」


 猫田の言っている事はもっともで、これ以上ない正論だ。だが、目前で苦しむ人々を見捨てて先へ進めるほどの非情さは、狛の中には生まれていなかった。


「解ってる…けど!ごめん!」


「あ、おい!!」


 狛は猫田の背から飛び降り、急降下していく。常人ならば無事では済まない高度だが、すかさず身に纏って形を変えた九十九つづらがパラシュートのように展開して落下の勢いを削ぎ、さらに落下中にも襲い来る悪霊達に対抗すべく、狗神走狗の術を使って身体を強化した。


――ヒヒヒ…ヒヒヒヒッ!


「あ、ああああ…!」


「させない!!…伏せてっ!!」


 今まさに悪霊に囲まれ、餌食にされようとした子どもの隣に降り立った狛は、地上に降り立つと同時に子どもを抱えて、銀色に輝く尾を大型化させ、全力で振り抜いた。普通の人間には脅威となる存在であっても、相手はただの悪霊である。狛の霊力が込められた尾の一撃を受け、それらはまるで雪のように煌いて溶けていく。


「…怖かったね。大丈夫?」


「お、お姉ちゃん…ま、ママ、ママがぁ…!」


 助けてくれた狛の顔を見て安心したのか、その子は近くに倒れている女性に視線を向けた。既に事切れているようだが、最期までこの子を救おうとしたのだろう事は容易に想像がついた。涙を流す子どもを抱き締め、狛もまた静かに涙を堪えている。


 そんな感傷に浸る間もなく、次なる悪霊が集まり始めていた。その気配の数は先程までの比ではない、どうやら狛の抵抗に反応して集まってきたようだ。つまり、この悪霊の群れは、生存者より抵抗する者を探し求めているのだ。国王がまだ生きているならば、それを見越しての事だろう。狡猾で残忍な術者の考えを感じ取り、狛の心は悲しみを超える怒りに震えている。


「まだ来る…うぅっ!?」


 狛の身体から力が抜けていく。いつもならば、身の内からこんこんと湧き出てくるような霊力が尽きかけ、人狼化を繋ぎ止められない。異常を察したのか、狛の身体からイツが飛び出して、心配そうにその肩に乗った。流れ落ちる冷や汗を拭う余裕もないが、それでも狛はイツに微笑み、悪霊を睨みつける。


「この子だけは、守らなきゃね。…あっ!」


 泣き出す子どもを強く抱きしめた狛が呟くと、今にも狛達に襲いかからんとする悪霊達をその真上から紫に輝く光が照らし出す。その光に遅れて、熱波と衝撃が訪れた。


「狛!無事かっ?!」


「猫田さん!」


 猫田の魂炎玉が集結する悪霊を薙ぎ払い、轟音と共に二人の傍に降り立つ。初めて目の当たりにする炎と巨体の猫に驚いて、子どもは失神してしまったようだが、ある意味好都合ではある。狛は子どもを抱き抱えたまま、再び尻尾で猫田の背に乗せられた。


「上から見たが、向こうに大きな結界を張ってる連中がいる!そこへ行くぞ!」


「う、うん!お願い!」


 狛が答えを言い終わる前に、猫田は勢いよく走りだしていた。その道すがら、人を襲おうとしている悪霊を蹴散らして。

 そして、それを遠くから観察する視線に苛立ちながら。