「ふぁ…おはよー」
寝起きでまだ覚醒しきっていないのか、ぼやっとした表情をしているのは狛である。
今時は、花も恥じらうなどという時代ではないものの、女の子がパジャマの中に手を突っ込んで腹をボリボリと掻く姿は、人によっては目を覆いたくなるものだろう。
幸いというかなんというか、ここにいるのはアスラと猫の姿の猫田だけなので、気が緩んでいるのかもしれない。
狛は起き上がっては気怠そうに座りこみ、中々立ち上がろうとしない。それどころか気を抜けば二度寝三度寝に入ろうとする有り様だ。
かたや猫田もベッドの隅で香箱座りをしながら、ウトウトと舟を漕いでいた。どうやら二人共に体調が良くないのか、今日はやたらと眠気が強いようだ。季節が春の頃ならば暁も覚えまいと言った所だが、生憎今は秋真っ盛りである。
アスラは狛が動きを止める度、前足で肩や背中をドンと押して、目覚めを促す。一日の始まりは、そんな朝であった。
「ねぇ、ハル爺。最近のお兄ちゃんの仕事って一体なんなの?もう一ヵ月くらいまともに顔を見てないんだけど」
重い腰と頭を上げて、いつもよりゆっくり時間をかけて台所に入った狛は、ナツ婆の作った朝食を食べながらそんな言葉をこぼした。狛の言う通り、拍はこの所、ずっと帰りが遅く、朝が早い。日によっては帰宅すらしていない事もあった。
いくら実力のある兄であろうとも、狛は妹としてさすがに心配になる。ほとんど家に寄り付かない父とは違い、兄である拍はずっと自分を可愛がって面倒を看てくれた存在なのだ。仕事の内容次第では、家族にすら話せない場合がある事も理解はしているが、そろそろ狛の我慢も限界なようだ。
「ふむ…まぁ、そろそろいいじゃろう。ナツ」
「ん」
ハル爺が時計を確認してから一声かけると、味噌汁を片手にしていたナツ婆が待っていたかのようにTVの電源を入れた。時間的にどのチャンネルもニュース番組ばかりだが、いくつかザッピングをした後、とある番組で手が止まる。
「このニュースがどうかしたの?」
「まぁ見とけ。そろそろ映るじゃろ」
ナツ婆はそれだけ言うと、リモコンをテーブルに置いて食事に集中し始めた。狛は何の事だかよく解らないながらも、言われた通り、その番組を注視している。
流れているのは、某国際空港からの中継だった。政府専用機というのだろうか、緑と青の特徴的なカラーリングをした大きなジャンボジェット機が、今まさに空港に着陸しようとしている。機体の正面には国旗が描かれていて、それがどこの国のものなのかを主張しているかのようだ。
「これって、確かカメリア王国の国旗だよね。あ、そう言えばカメリアの王様が日本に来るって、ちょっと前から話題になってたっけ」
カメリア王国とは、昔から宝石や鉱石などが豊富に産出される中東の輸出国である。同じ中東の産油国とは違い、オイルマネーの恩恵こそ受けていないが、珍しい鉱物がよく採れる事から、かなり羽振りがいい。
あの地域では珍しく独自の宗教を持っている為に、時折過激な組織と衝突する事もあるが、とある理由から軍事力も高く、長い間独立性を保っている事がその力を証明するものでもあった。
その理由というのは、カメリア王国で特に多く産出される特殊鉱石『霊石』によるものだ。霊石は、よく悪魔の体内などから発見される、高濃度の魔力の凝縮体である魔石と違い、限られた場所でなければ採掘出来ない。
一説によると、その正体は生物の魂の欠片が寄り集まったものであるとか、命が散って終わる際にのみ作られる鉱物であると言われているが、はっきりとしたことは解っていない。ただ、非常に霊的に優れた力を内包した石であり、それは主に護符やお守りなどに使われる事が多い物質である。
かなりオカルティックな産物である事から、表向きにはその存在はほとんど知られていないが、その筋では頻繁に、しかも高額で取引される事も多いようだ。
そう言った事情から、資金力が産油国に負けず劣らず高いだけでなく、霊石を積極的に軍事技術にも応用しているようで、それらに護られた自国の軍隊もかなり強いという、かなり特殊な国であった。
今回の日本訪問は、確かひっ迫する世界情勢…特に中東和平の為に日本の総理大臣と会談する名目だったはずだが、それと拍の仕事は、狛の中ではまだ結び付かない。ナツ婆達が何を言いたいのかと頭に疑問符を浮かべていると、画面の向こうでは飛行機が空港に着陸し、そこからカメリア国王、カメリア・ディーアモンズが現れる所だった。そして目を疑ったのはその後の光景である。
「この人が王様なんだ。…え?ちょっと待って、そこに映ってるの…お兄ちゃん!?」
そう、黒服のSPに混じって、琥珀色の和服に身を包んだ兄、犬神伯がカメリア国王の警護に当たっていたのだ。これにはさすがに不意を打たれた、驚きのあまり開いた口が塞がらないとはこの事だろう。まさか久々に見る兄の顔が、TV画面越しのものになるとは、誰が予想できるものだろうか。
「ほっほっほ!驚いたじゃろ?あちらさんの王様は、最近国内情勢が不安定らしくてな。
「テロリスト…!?」
カメリア王国には、常備軍とは別に独自の宗教観に基づく兵士達が存在する。それらは現代ではほとんど姿を消してしまった魔法使い達や、シャーマンのような人々だ。カメリア王国は古くから霊石の活用をしてきただけあって、そう言った方面でも国を挙げて理解が深いらしい。
日本ではとても考えられない事ではあるが、犬神家のような霊能集団も、結構な数が存在しているという。その中で、現国王と対立する者達が、暗躍しているというのだ。
その対立している派閥の筆頭が、ギンザ・ジュワイチュールという男である。
ギンザは、カメリア王国で古くから伝えられている『マキ』という魔法使い達の棟梁であり、優秀な戦士でもあるらしい。彼らは、カメリア国教の独自解釈によって、王国が自分達マキの手によって管理運営されるべきものと訴え続けてきた。
国王はシャーマニズム穏健派である為、その独自解釈を認めていないのだが、ギンザという男がマキ達を従えるようになってからその過激思想は勢いを増し、度々暗殺紛いの事件や事故が起こるようになってしまった。
しかも、国王を始めとしたシャーマニズム穏健派は、国教徒同士の争いを許さない為、過激派が付け上がる一方なのである。
今回のカメリア国王の訪日は、彼らマキに対抗する手段を得る事も、隠された大きな目的であった。
そして、既にカメリア王国からは、かなりの数のマキが日本に入国していることも判明している。
だが、厄介な事に例えその力が本物でも、一般的に魔法使いや霊能者などがテロリストだなどと言った所で、どの国もまともに取り合ってはくれないだろう。それは日本も同様である。正当な理由がなければ入国を拒否する事など出来ないし、彼らが霊的な力を持ったテロリストだなどと、国家として言えるはずもないのだ。
その辺りは適当な理由をつけてしまえばいいと思う所だが、それも国教徒同士の争いを許さないという教義が邪魔をしているらしい。
そういう事情から、犬神家に依頼が来たというわけだ。拍を始めとした犬神家の退魔士達は、一ヵ月前から入念な下準備とシミュレーションを行い、入国済みのマキ達を抑えたり情報収集を行ってきた。それ故に、拍はハードスケジュールに追い込まれていたのである。
この件を知っていたのは、調査部の面々と拍を始めとした数名の退魔士、それにハル爺とナツ婆のみであり、それ以外には身内であっても漏らしてはならない事になっていたのだ。
この情報は、カメリア国王到着と同時に解禁される手筈だったようだ。
「なんだかよく解んねーが、異国の殿様が来たのか?」
「お殿様…はちょっと違うけど、だいたいそんな感じみたい」
猫田は鮭の切り身を骨ごと齧りながら、TVに映るカメリア国王を見つめている。狛としてもそれ以上説明を求められた所で、詳しい話が出来る自信はない。
滑走路に降り立ったカメリア国王が、日本の外務大臣達と握手をした後、拍を連れて黒い高級車に乗り込んだ所で、映像がスタジオに切り替わった。
空港で爆発が発生し、カメリア国王が乗った車が消息不明になったというニュースが入ったのは、数分後の事であった。