第11話


 魔獣の牙で裂かれ、ボロキレと化した漆黒の黒衣。その周囲に円を描くように散らばっているのは、バラバラになった魔獣の脚、胴体、そして首。一部はシモーネの足元にまで飛んできていた。



 改良を重ね、より強い快楽症状を引き起こせるようになった媚薬を吸い込めば、国家特級魔導士といえども、快楽で麻痺した脳内で、魔力を練ることは不可能だ。



 それなのに……



 この惨状を見る限り、魔力が発動されたのはあきらかだった。しかし、黒衣の残骸はあるものの、本人の姿が見当たらない。



 いったいどこに消えたのか──考えられるとすれば、魔獣に喰われるなか、無意識に発動した闇魔法によって、本人もろとも闇に消え失せたのだろうか。



 苦労して調教した数百頭の魔獣を一瞬にして失ったのは手痛いが、あの男を殺せたのは大きい。



 シモーネの口元に笑みが戻ってきた。



「残念、もう死んだのね。せっかく、また奴隷にして楽しもうと思ったのに」



「悪いけど、死んでないから」



 突然、上空から声が降ってきた。



 シモーネの視線の先には、漆黒ダーク・天馬ペガサスたてがみに埋もれ、だらしなく頬杖をつく魔導士がいた。



「媚薬を吸ったはずなのに、どうして魔力を練れたかって? それはね、コレがあったから」



 今度はジオ・ゼアが、懐から出した小瓶を振ってみせる。琥珀色の液体が、瓶の中で揺れた。



「オルガリア皇国の特務機関には、大陸一の魔毒士がいるんだ。媚薬の成分を解析するなんて、彼女には容易いことで、数日で解毒剤を完成させたよ」



「嘘よ! 桃華蘭から抽出される媚薬成分は解毒できない。体内から排出されるのを待つほかないわ」



「彼女の才能を、アンタなんかと一緒にしないでくれ。まぁ、僕も詳しいことはさっぱりだけど、可愛い声でなんて云っていたかなぁ……正確には中和だったかな。毒成分の不活性化が、どうとか。まぁ、実際のところあまりに高度すぎて魔毒士長をはじめ、だれも理解が追いついていないんだ、これが」



 シモーネにも、さっぱりだった。



 中和? 不活性とはなんだ。



 桃華蘭の媚薬を一瞬にして無効化できるなど、いまだに信じられないが、媚薬の粉末を吸入しているはずなのに、目の前の男には一向に中毒症状がみられない。



「これが何なのか、知りたい?」



 未知の液体の正体が何なのか。たしかに知りたいが、余裕たっぷりなジオ・ゼアを前に、シモーネは後退を余儀なくされていた。



 大量の魔獣を失い、媚薬が効かない以上、『闇の聖印』を持つ特級魔導士を相手にするのは、あまりに分が悪かった。



 どのみち皇太子サイラスは、もう死んでいる。ジハーダ王の妃になる条件は満たせたのだから、あとは、オルガリアで開発されたという治療薬の真偽を確かめるためにも、ジハーダ王国に潜入するほかない。



 そのためにも、逃げ切らなければ!



 ジリジリと後退をつづけ、森へ足を踏み入れると同時に、シモーネは駆け出した。獣道には慣れていた。



 後ろを振り返り、魔導士が追ってくる様子がないことに安堵して、顔を前に戻したときだった。



 両足に何かが絡みつき、前のめりに膝をついた。痛みに顔をしかめ、足元を見やれば、足首には無数の茨が巻きついている。



「こんなときに」と舌打ちし、絡んだ茨を引きちぎろうとしたその手首にも、いつの間にか細い茨が絡みついていた。



 これは、まさか……魔法か。



 違和感を覚えたときには遅かった。シモーネの身体は、両手両足を広げた格好で吊り上げられていく。



 絡みつく茨から逃れようと、必死にもがいていると、



「僕が逃がすとでも思った? むかしの僕とは違うんだよ」



 鬱陶しそうに緑を掻き分けながら、冷たい目をした魔導士が現れた。



 薄暗い森の奥。



 磔にされたシモーネは、闇の魔力で茨を操る魔導士に、大声で喚き散らしていた。



「奴隷あがりの闇使いがっ! いますぐ離せっ! 媚薬漬けにして狂い殺してやる! わたしは貴族よ! 王妃様になるんだから!」



 髪を振り乱し、激しい口調で罵ってくる元子爵令嬢に、ジオ・ゼアは大きな溜息を吐いた。



「大地の聖印を持つ脳筋将軍とちがって、闇の魔力で植物を操るのは難しいんだよ。そのうえ、アンタが相手だと余計に疲れる。だから──さっさと終わりにしようか」



 ジオ・ゼアが手にしていた茨が伸びていき、シモーネの頭に巻き付いていく。



「王妃様の冠よりも、アンタにはそれが似合っているよ」



 シモーネの背後に立ったジオ・ゼアは、茨の王冠から伸びる細枝を勢いよく後ろへと引いた。



「ウガッ……」



 強引に首を後ろに反らされ、呻き声があげたシモーネの口に、琥珀色の液体が流し込まれていく。



 苦みと酸味が混ぜ合わさった味が口内に広がり、すぐさま吐き出そうとしたシモーネだったが、



「触りたくないけど、決着は自分の手でつけないといけないからね」



 黒い手袋をはめた手に鼻腔と口が塞がれてしまった。



「僕にとって子爵家は生き地獄だった。アンタとアンタの母親のせいで、女という存在そのもが嫌でたまらなかった。ローラ様にも抵抗があったくらい」



 液体を口に含んだまま、息が吸えないシモーネの顔が、苦し気に歪んでいく。



「でも、あの子に出会って癒されて、ようやく普通の男と同じ感覚を持つことができたんだ。ああ、そばにいたい、話したい、触れたいってね……でもね、トラウマってやつかな。アンタたちにされたことがチラついて、震えがおさまらないときがある」



 シモーネの顔色が、赤から青になりはじめても、ジオ・ゼアは気にする素振りもなく話しつづけた。



「夜、悪夢にうなされて、闇の魔力が身体のなかで荒れ狂うんだ。最悪だよ。万が一にも、過去に囚われた僕が、あの子を傷つけることがあったら……と思うと、こんなトラウマはさっさと克服しないといけない。これで克服できるかは未知数ではあるけれど、僕の場合、復讐してからじゃないと前にすすめない気がしてね」



 ここでジオ・ゼアはゆっくりと、シモーネの顔から手を放す。



「ほら、僕って性格がひねくれているから。目には目を、歯には歯を、屈辱にはそれ以上の屈辱を……」



 解放された鼻孔と口で、必死に空気を吸い込んだシモーネ。



 酸素といっしょに喉を通過していったのは、ドロリとした琥珀の液体だった。