第8話


 切羽つまったこの状況下で、特級魔導士の魔力暴走なんて……



 もちろん、御免こうむりたい。



「ジオ・ゼア、お願いだから、今は解毒に集中させて」



「大丈夫。僕は大人だから……すぐに……あれ、なかなか思うように……アンナへの想いが溢れちゃって、恋は魔法よりもずっとムズカシイね」



 本当に、大丈夫なのかしら。



 一抹の不安を覚えたレティシアが見守る中。



「浮かれない、浮かれない。平常心、平常心。闇に、闇に、心を落とせ、心を鎮めよ」



 ぶつぶつと呪文のように唱えたジオ・ゼアが、無理やり魔力を安定させて水柱から腰を上げた。



「よし、行ってこようかな」



 勢いを失い、水が流れるだけになった城壁に片足をかけて振り返る。



「アンナは何も心配せずに、やりたいことをやりたいようにして。大丈夫、きっと上手くいくから。その間に僕は──虫けらどもを闇に葬り去って、あの女と決着をつけてくる」



 ジオ・ゼアの纏う空気が、一瞬にして研ぎ澄まされていく。呼応するように漆黒ダーク・天馬ペガサスが、ふたたび空を駆けてきた。



「桃華蘭に気をつけて」



「ああ、そうする。でも、大丈夫。もう、あの頃の何もできない僕じゃないからね」



 尋常じゃない闇の魔力を放出させ、天馬ペガサスの背に飛び乗った魔導士は、「それじゃあ、またあとで!」急降下していった。



「……行っちゃった」



 色々と思考が追いつかないまま、ジオ・ゼアを見送ったレティシアだったが、人魚マーマンのことを忘れたわけではなかった。とにかく最優先しなければならないのは、この精霊の解毒だ。



 しかし、問題は多い。



 人間相手なら採血するか、傷口から直接魔力を流し込んで毒素を分析できるのだが、精霊にはそれができない。なぜなら、精気と霊力で形状を保つ霊体の彼らには、そもそも血液が流れていないのだ。



 その上、守護者以外の魔力を無意識に拒絶することが多く、試しに青紫の斑状に変色した部位に手を当て、回復魔法を施してみたレティシアだったが、やはり効果はなかった。



 仕方がない。こうなってしまうと、より直接的な方法をとる他ない。



「ごめんさい。少しだけ、貴方に触れさせて」



 意識のない人魚マーマンの顔を引き寄せたレティシアは、半分ほど閉じられた紺碧の瞳に唇を寄せた。



 人体で唯一のむき出しの臓器は『目』だ。臓器とは云えないが、精霊の目もまた、他者が霊体の内側に触れることができる数少ない場所である。



 人魚マーマンの目元を唇で啄んだレティシアは、吐息から発せられる極めて純度の高い魔力を流し込んでいく。



 ──お願い、拒絶しないで。



 祈るような気持ちでスキル【分析】を発動させた。



 特務機関の魔毒士となり、あらゆる毒素を分析してきたレティシア。高純度の魔力ほど、分析がしやすいはずだったのに──



「……なに、これ」



 やはり霊体は勝手がちがった。精気と霊力で満たされた海の精霊、人魚マーマンの体内は、まるで大海原だった。どこに毒素があるのか、一向に見つけられない。



 自分の魔力の位置さえ、見失いそうになる。焦りはじめたレティシアの耳に届いたのは、自身の守護精霊ヒギエアの声だった。



『海ノ音ニ 耳ヲ澄マセテ 波ノ音ヲ 人間ノ 息遣イト 思エ』



 守護精霊であるヒギエアの声が聞こえるようになったのは、魔毒士として初任務を終えたあたりから。



 抑揚がなく、一定の速さで届く声をはじめて聞いたときは、機械音のようだと思ったが、いまではこれが、ひどく心落ち着く声となっている。



 レティシアは波音に耳を傾ける。



 打ち寄せる波、さざ波、白波……



 様々な波音に耳を澄ましていると、ふいに耳障りな音が響いた。



 これは、波じゃない。



 まるでヘドロをかき混ぜるような不快な音が聞こえた。



 人魚マーマンの瞳から流し込んだ魔力をたどり、ようやく見つけた場所。



 前世の記憶で例えるなら、そこは座礁した大型船から流れる重油によって汚染された海のように見える。灰褐色に濁りきった粘度の高い毒性の物質がどんどん広がり、人魚マーマンの精気を濁らせていた。



 こんな状態で、大量の海水を操り、城壁を護っていたなんて……どれだけ無理をしたのだろうか。一刻も早く解毒してあげたい。



 レティシアは集中力を高め、一気に毒素の分析をはじめる。



 神経系の毒と……もうひとつは、出血性の毒だ。



 おそらくシモーネは、より強力な毒物を作るために、2つの異なる猛毒を魔獣の体内で混合させ、その精製に成功したのだろう。



 分析を終えたレティシアの顔が曇る。



 今から神経系と出血性の解毒魔法を構成するには、時間がかかりすぎるわ。



 何かいい方法はないかしら。



 こんなときに思い浮かぶのは、前世、大手製薬会社の研究員だった柊アンナの記憶。



 毒液を直接採取して、毒を中和できる抗体をつくれたら──



 そのとき、レティシアは唯一無二の方法を思いついた。



「そうよ、抗体があればいいのよ」



 右手の『智力の腕輪』に魔力を流し、守護精霊ヒギエアを呼ぶ。腕輪に輝く2つ紅玉が光を放つと、レティシアのそばには白大蛇がトグロを巻いた状態で現れた。



 またひと回り大きくなったんじゃないかしら。



 久々に具現化したヒギエアの真っ白な鱗を撫でたレティシアは、さっそく人魚マーマンの中和作業にとりかかった。