特務機関の『魔毒士』となり、見習い期間がはじまったレティシアの朝は早い。
皇宮の敷地内にある『特務機関中央本部』の清掃は新人の役目で、始業前に拭き掃除から掃き掃除、申請書など書類の補充と様々な雑務をこなさなければならなかった。
今年『魔毒士』に合格したのは、レティシアとリリーローズという15歳の男爵令嬢のみ。
例年にない狭き門を突破したふたりは、初顔合わせのときこそ、
「ス、スペンサー侯爵家の! レティシア様!」
名門侯爵家の令嬢と知り、大いに腰を引かせ、必要以上にたじろいだリリーローズだったが、
「バケツの水を替えてきます」
高位貴族らしからぬレティシアの様子に、面食らいつつも徐々に慣れていった。今では、「レティシアちゃん」「リリーさん」と呼び合う仲になり、かなり打ち解けている。
今朝もレティシアは、拭き掃除を終えたバケツの水を捨てに、外に設置された洗い場へと向かっていた。汚水がたっぷり入った水を運んでいると、その手が急に軽くなる。
「重そうだな」
レティシアの手からバケツを取ったのは、エディウスだった。
「おはよう、エディ。いいのよ、わたしが……」
「こっちを持ってくれたらいい」
バケツの代わりに渡されたのは、渇いた布1枚。
レティシアと同じく『魔剣士』見習い中のエディウスは、同時に近衛騎士団にも所属している。そちらも見習い扱いであるからして──
「わたしよりもエディの方がずっと忙しいのに……疲れていない?」
「大丈夫だ。これくらいでどうこうなるような鍛え方はしていないから」
昔から変わらないエディウスの優しさに、レティシアの頬が自然とゆるむ。
「あっ、そうだ。これ、エディに会ったら渡そうと思っていて」
ローブの内側から小袋を取り出して差し出す。
「これは?」
一旦バケツを置き、小袋を受取ったエディウスに、
「薬草茶と魔薬よ」
中身を知らせると、エディウスの表情は明るくなった。
「ありがたい。レティのお茶は疲れが取れるし、魔薬は魔力の回復が早い」
「必要なときはいつでも云ってね」
「ああ。助かるよ。いつもありがとう、レティ」
ひどく大事そうに、エディウスは胸に小袋をしまいこんだ。
朝の勤めが終われば、レティシアたち見習いは、上級職の担当官についてまわる。特務機関に籍を置く魔毒士は、本部に20名、主要都市にある各地方支部に数名ずつが在籍している。
うち最高位である特級魔毒士はここ十数年空席となっており、現在は次階級の上級魔毒士が全体で5名、それ以外はすべて一般階級である。
見習い魔毒士は、一般階級のさらに下位の扱いとなり、見習い期間を経て実践を経験したのち、ようやく一般階級の魔毒士として、ひとり立ちできる。
レティシアとリリーローズは、現在、本部に2人いる上級魔毒士にそれぞれついている。おのずと1人は魔毒士長であり、もう1人は副長。管理職ゆえに、高ランクの任務に加え、日々の内務処理も膨大となる。
多忙を極める上官の補佐役として、見習い魔毒士ふたりは、冗談抜きで猫の手も借りたい忙しさとなった。
魔毒士長バラクス付きとなったレティシアは、午前中に書類の束を抱えて、本部内と皇宮内の関係各所を走り回る。ときに軍部に出向くこともあり、ここでは大幅に時間を取られた。
なぜなら──
「アンナマリー! 父さまに会いに来てくれたのか!」
「ちがいます。こちらの書類に早急に署名が欲しいのです」
「よし、わかった。それじゃあ、アンナは父さまのとなりの席で、お菓子を食べて待っていてくれ」
「いえ……そんな時間は」
断るよりも早くレティシアの前には、
「レティシア様、さぁ、どうぞ!」
ゼキウスの部下が全速力で菓子がのったワゴンを押してくるのだった。
魔毒士見習いとして、最初の1カ月はほぼ毎日走り回る日々を過ごしたレティシア。
おかげですっかり配置図が頭に入り、広い特務機関内も、さらに広い皇宮内も、迷うことなく目的地まで最短距離で辿り着けるようになった。
書類を届けているうちに、魔道具を取扱う魔具士や修復士たちと顔見知りになり、それぞれの役割が自然と把握できていく。
レティシアに最初の任務が云い渡されたのは、見習い期間が2カ月を過ぎたころ。魔毒士長の執務机に、項目別に書類を並べているときだった。
「ちょっとこれを頼まれてくれないか」
いつものように、魔毒士長バラクスから書類を渡されたレティシア。どこに届ければいいかと目を通したが——届先が未記入のままだ。
「こちらは、【カナン村 魔獣討伐および毒素浄化任務】とありますが、任務を担当される魔毒士の方にお届けすれば良いですか?」
「そのとおり」
「では、どなたが担当されるのですか?」
「キミだよ」
「え、わたしですかっ?」
「そろそろ任務に出てもいいころじゃないかな。だいぶ機関内の仕事の流れも覚えただろう。大丈夫、さほど難しい任務でもないし、面倒見の良いマルスを同行させるから勉強しておいで。ちなみに、出発は明日みたい」
「明日ですかっ!」
「そう。緊急要請が入ったらしくてね。今からマルスを訪ねて、詳細を訊くと云い。さぁ、記念すべき初任務だ。忘れ物のないようにね」
笑顔のバラクスに見送られ、レティシアは大急ぎで先輩魔毒士マルスの元へ走った。