オルガリア皇国からジオ・ゼアが消え、2年あまりが過ぎた。
レティシアは11歳の誕生日を迎え、先日、皇太子妃候補から正式に外れる旨の通知が皇宮から届いた。
決定が下されるまで、けっこう時間はかかったが、かかったのは時間だけで、
「やった。案外、簡単だったわね。でもまぁ、わたし、殿下に嫌われているから当たり前か」
願ったり、叶ったり。
大いに喜んだレティシアとは対照的に、皇太子サイラスはその決定に耳を疑った。側近のルーファスに掴みかかって、問いただす。
「なぜだ、ルーファス! レティシア嬢が候補から外れるなんて、おかしいじゃないかっ!」
「いいえ、妥当ですね。不可思議な点などございません」
にべもなく、側近は云った。
「ここに、今回の決定に至った経緯を記した書面があります。それによりますと、皇太子妃候補の選定については、皇太子殿下の意向に沿った決定をなした──とあります」
「僕の意向だと?」
信じられないといった表情のサイラスに、追い打ちがかけられる。
「最大の理由と致しましては、やはり2年前の茶会の一件があるようですね」
「ちょっと待て! その件に関しては、僕に非があると、内々に報告書をあげたはずだろ。くれぐれも誤解のないように、と念押しまでしたのに!」
「その報告をどう捉えるかは、あちら次第ですからねえ。アレコレ付け加えたせいで、かえって深読みして誤解した可能性もあるかと」
「なんだって?!」
14歳のサイラスにとって、これは看過できない大問題だった。
「今からでも、なんとかならないのか?」
「なりませんね」
「お前、そればっかりだなっ! 僕のために何とかしようとは思わないのかっ!」
苛ついたサイラスは、両手でルーファスの襟を掴んでグイグイと締めつけた。いつになく荒っぽいサイラスの行為に、ルーファスは顔を歪めて助けを呼ぶ。
「ああ~ だれかぁ~ 殿下がご乱心だぁ~」
飛び込んできた近衛騎士たちに、ルーファスの襟から手を放すことなくサイラスは云った。
「問題ない。幼馴染のじゃれ合いだ!」
「これのどこがっ! 側近殺しぃぃ!」
「この程度でオマエみたいな性悪が、死ぬものかっ!」
「どの程度でボクが死ぬか、殿下は知らないでしょっ!」
側近の首を絞める皇太子と、容赦なく仕える主の髪を引っ張る側近。醜い争いを前に、騎士たちはそっと扉を閉めて立ち去った。
なかなか決着がつかないまま、互いに体力の限界となったふたりは、荒い息を吐きながら床に座り込んだ。
「まったく……皇太子ともあろう人が……なんて暴力的な……そもそも、皇后としての資質さえあればダレでもいいと、おっしゃっていたじゃないですか!」
「ダレでもいいわけでない。貴族階級をまとめる手腕があって、民衆の心を掴めるような人材でなければならない」
「で~す~か~ら~ それらが備わっていれば誰でもいいんでしょう? ご心配なく。皇国内にあと3人はいます。なんなら、他国から迎え入れても良いでしょう」
「僕は、スペンサー侯爵令嬢がいいと云っている!」
「どうして、そんなにもスペンサー侯爵令嬢に固執するのですか? それらが備わった他の令嬢と何が違うのですか?」
ルーファスの問いに、サイラスは急に声が小さくなった。
「……可愛かったんだ」
「えっ! なんですって?!」
「だから、生命の樹を見上げた彼女の笑顔が、あまりに自然で可愛らしくて……」
「笑顔ねぇ……また、月並みな答えだな。たいして心に響かない」
「ウルサイっ! 死んだ魚のような目をしたオマエには、こんな気持ちは一生わからない!」
真っ赤になった皇太子と側近の攻防は、そこからまたしばらくつづいた。
そうして、レティシアが皇太子妃候補から外れた翌日から、皇太子サイラスの機嫌は最悪だった。
いよいよもって政務に支障をきたしてきたところで、渋々といった表情でルーファスが折れた。
「殿下、スペンサー侯爵令嬢の件で、わたしにちょっと考えがあるのですが」
「な、なんだ、云ってみろ!」
不機嫌を装いながらも、サイラスの声は期待にうわずった。
「正式な決定がなされた以上、いますぐどうこうするのは、やはり難しいでしょう」
執務室にサイラスの舌打ちが響く。
「まあ、最後まで聞いてくださいよ。立て直しを図る目的で、まずは皇太子妃の最終候補の発表を諸々の事件を理由に、これより2年延期しましょう。幸いなことに、スペンサー侯爵令嬢が候補から外れたことは、侯爵家にしか通知しておりませんから、公にはなっておりません」
「なるほど、それで?」
どんどん前のめりになってくるサイラスから距離を取りつつ、ルーファスはつづける。
「あとは、殿下次第でしょう。しばしの猶予期間中に、侯爵令嬢との関係改善につとめ、諸々の誤解を解くのです」
「手紙も贈り物も一切受け取らない侯爵家だぞ、上手くいくかな?」
弱気なサイラスに、ルーファスは溜息を吐いた。
「いいですか。なんのために皇太子という大層な肩書きを持っているのですか? 殿下は、貴族階級の頂点に君臨する皇族なのですから、そこは権力を振りかざして……」
サイラスに発破をかけるつもりで強気なことを云っていたルーファスだが、ふと、思う。
いや、まてよ。相手はあのスペンサー家か。オルガリアの華と誉れ高い女侯爵と、絶大な人気を誇る無敵将軍。
いや、でも、でも、サイラスとて皇位継承者である。いかにスペンサー家とはいえ、蔑ろには……そこで、ルーファスは思い出してしまった。
皇宮の廻廊を歩いていたある日のこと。通路のド真ん中で、トライデン公爵相手に喰ってかかっていたのは、ゼキウス将軍閣下。
『はぁっ?? 金髪の警護? おまえが居ればいいだろ。何かあったら全部燃やせ。なんなら皇太子ごと燃やしてしまえ』
敬意ゼロ、むしろマイナス。
「…………ウーン」
サイラス同様、急に自信がなくなってきたルーファスであった。しかし、今さら計画の変更をするのも面倒だと、ルーファスは廻廊で目にしたものを見なかったことにして、サイラスに進言する。
「万が一、贈り物や手紙などが令嬢の元に届かず関係の改善が思うようにいかなくとも、まだ挽回のチャンスはあります!」
「どうすればいい?!」
「狙いは、殿下が成人を迎える16歳の祝賀舞踏会です。皇国内の貴族階級はもれなく出席が義務付けられた祝事となりますので、スペンサー侯爵令嬢も必ずや出席するでしょう。そこで!」
「そこで!? どうするのだ!」
いい加減、自分で考えろ──と、云いたくなったルーファスだが、グッとこらえる。
「ファーストダンスにお誘いするのです。舞踏会の主役である皇太子殿下からの誘いは、さすがに断れないでしょうから、そこで必ずや、令嬢と話す機会はあります」
「レティシア嬢と……ファーストダンス」
その意味合いは、皇太子サイラスにとってレティシアが『特別な存在』だと、公にしているようなものだ。
大広間の中央で、愛しいレティシアの手をとり、腰に手を回して優雅にステップを踏む光景が、サイラスの脳裏に浮かぶ。
「……いいな、それ。すごく、いい」