「課長、大丈夫です?」
「あー
「体調悪いです?」
翌朝、会社に行くと事務の月見里が私の顔をじろじろと見てくる。その月見里の肌は艶々で……、そりゃそうか。独占欲の強そうな彼氏がいるもんな〜。
私の肌なんてカサカサだよ。
「考え事してたらあんまり眠れなくて、ごめんごめん、大丈夫大丈夫」
「栄養ドリンクが要るようだったら言ってくださいね。多分
「おお〜良い事聞いた〜」
聞こえていたのか営業の川辺がデスクに着いたまま「マジっすか」と言っている。
「月見里なんで知ってんだよ?」
「え? だって松岡くんに聞いたから」
「おい松岡〜」
「すみません、外回り行って来ます」
涼しい顔をした月見里の彼氏である松岡がフロアを出て行く。
「行ってらっしゃい〜」
若いっていいな〜。私とは肌の潤いから違う。
星野さんもこいつらと同年代なんだ。
「若い子たちは朝から元気いっぱいでいいですね。見ているこちらが元気を分けてもらえるようです。ね、久保田課長?」
私の向かいの席にいる
「ほんと朝から元気が良いですね」
こんなとき、私は
「はあ〜」
大きなため息でも吐いてないとやってらないと、私はもう一度息を吐き出した。
小一時間ほど事務仕事をして外に出る。あらかじめピックアップしていた新規でおもちゃを置いてくれそうな雑貨店を訪ね、店長やオーナーがいれば話しを聞いてもらった。
今日最後の雑貨店を出ると、そこが真樹の家の近くだと気付く。お昼を取り損ねていた私はコンビニでサンドイッチを買って真樹の家に向かう。
「家にいるかな真樹?」
電話もメッセージも送らず、いつも突撃する私を、真樹は迷惑そうな顔をしながらも招き入れてくれる。
インターホンを鳴らすとしばらくして玄関の扉が重そうに開いた。
「姉ちゃん……」
「やっほー真樹!」
「来るなら連絡してってば」
「うんうん、ごめんごめん」
文句は言うけど、どうぞ、と中に通してくれる。
「コーヒー? お茶?」
「じゃあコーヒーで。真樹はお昼もう食べた?」
「食べたよ。姉ちゃん今から?」
「そうそう。ちょっと食べさせてね〜」
「いいけど……。あ、きんぴらとほうれん草のおひたしと、あとミニトマトとレタスがあるから簡単なサラダは出来るけど、いる?」
――実家か、ここは?
「美味しそ! きんぴら欲しい〜! サンドイッチにレタス挟まってるし、ミニトマトだけ2〜3個ちょうだい?」
「いいよ。ちょっと待ってね」
連絡なしに突撃しても美味しいものが出てくる妹の家。それに比べて私の家なんて、出て来るのはビールくらいだ。
品数の増えた遅い昼を食べる私の前でカフェオレを飲む真樹が、そうだ、と口を開く。
「美成堂の化粧水使い始めてから、肌がもちもちになってきたよ、姉ちゃん! やっぱりスゴイね」
言いながら頬を押さえる真樹の肌は、きちんとケアが出来ているようで前よりも肌色がトーンアップしたように見える。
「おお、良かったじゃん!」
「とくにおでこ! ファンデ塗ったら皺が浮き出て見えてたのに、今じゃ全然。皺も目立たなくなってきたし化粧のりも良くて。……本当に姉ちゃんに教えてもらって良かったよ。あと、それから口紅も……」
「どう、口紅? 良かった?」
「うん。あれ健太と買いに行ってくれたんだよね」
「そうそう、そうだよ。なんかさ、サプライズしたいとか言うからさ、品番教えようと思ったら健太さん、美成堂が分からないとか言うじゃん? 困るよ〜二人並んで歩くのとか気まずかった〜」
「ははは、ごめんね健太が。ありがとう」
「いやいや、真樹が喜んだんならいいんだけどね」
でも真樹は喜んでないのか苦笑している。
「何か問題あった?」
「いや、……まあ色々あったんだけどね、今は大丈夫だよ」
「そう?」
これ以上突っ込んで聞いてはいけない気がして詮索するのは止める。
でも真樹の雰囲気が前に比べて明るくなっている気がしたので、それについてはあまり気にしないことにした。
長居は無用とばかりに、食べ終えると「またね」と手を振って真樹の家を出る。
「真樹の心配より、自分の心配をした方がいいかも……」
誰にも聞かれていないひとりごとが、のどかな住宅街の青空に溶けていった。
「お疲れ様でしたー」
と言っても返って来る声はない。私が営業部を出た最後のひとり。
会社を出ると冷たい風が首から入りこんでくるので肩をすくめながら最寄り駅まで歩く。
「はあ」
温かい息が胸の底から逃げていく。
疲れから来るため息ではない。それをもう一度吐く。
実は朝、家を出てからが怖かったのだ。玄関を出て誰もいないことを確認し、通りを横切るたびに左右へ視線を走らせる。警戒しながら駅に向かう私の心臓はいつも以上に忙しなくて駅に着く頃には息切れしていた。
駅の手前で周囲を確認する。怪しくて危険そうな人物が見当たらないことに安堵しながら改札に吸い込まれる人々の中に身を隠す。
いつもは辟易する朝の混雑も、満員電車も、今朝ばかりは感謝した。
だからと言って帰り道にアイツに遭遇しないとは限らない。
「はあ」
実害はないにしても、これは精神的に結構キツイぞ、と頬を引つらせながら駅に着いた。
カバンから交通ICカードを出していると後ろから声を掛けられて驚く。声のない叫びに喉が「ひっ」と鳴った。
だが、振り向いたそこにいたのは星野さんで、ひどく安堵する。
「なんだ〜星野さんか。あ〜びっくりした」
「すみません、驚かせてしまいましたか……」
「いや、大丈夫大丈夫」
うなだれる星野さんに私は手の平を見せて『大丈夫』だとアピールする。
「っていうか、星野さん、なんでこの駅?」
――あれ? 星野さんってこの駅使うことないよね?
そう疑問を抱く私に、星野さんは苦笑しながら人差し指で頬をかく。
「昨日の今日ですし、その……なんて言うか……」
「ん?」
「……お迎えに来ました」
「お迎え? 私の!?」
はい、と頷く星野さんの口角が少し上がるが変わらず困ったような笑みだった。
「本当はですね、朝も駅まで一緒に行くつもりでいたんですが、夜中シュミレーションしていたら、朝、……寝坊してしまいまして……不甲斐ないです。なので夜だけは絶対にお迎えしようと、参りました」
「なんのシュミレーションしてたんです?」
それは…、と星野さんは口ごもると困ったような顔から恥ずかしいというような照れた顔になって、もそもそと口を開く。
「どうやって、久保田さんを……お迎えするかとか……。なんて言って、……一緒に駅まで行こうかとか……。どんな言葉にしたらいいかと、……その、悩みまして……」
「そんな悩まなくてもいいのに。ありがとうございます、星野さん」
星野さんの気遣いに私が微笑むと、星野さんは安心したように笑ってくれた。
「じゃあ一緒に帰りましょうか。というか、お待たせしてすみません。何時から待ってたんです?」
ウチの会社の定時からすでに2時間は軽く越えている。帰る時間なんて私にも予測が難しいのに、それを星野さんはいったい何時から待っていたのだろう。
もしかしたら2時間前から待っていたのかもしれないのだ。
「何時から? いや、さっきです。さっき来た所で……」
そう言う星野さんが目をそらすので、私は星野さんの左手を取った。
「手、冷たくなってますよ?」
「あの、それは……」
温度を確認するようにペタペタと触るが手の甲だけでなく手の平も冷たい。
前に星野さんに手を取られて引っ張られた時はこんなに冷たくはなかった。
「私のせいでごめんなさい。とくに月曜は遅くなるんです……。こんなに手が冷たくなって、絵が描けなくなったらどうするんですか……」
「いや、たかだか1時間ほど外にいただけで絵が描けなくなることはないですよ。北極にいる訳でもないんですから。それより久保田さんの手が冷たくなりますから離してください」
「大丈夫だよ。……そうだ! 温めてあげるから、ほらそっちの手も貸してください!」
貸して、なんて言いながら私は星野さんの右手も取る。その右手と左手を合わせて、私は外から包むように覆うが星野さんの手の方が大きくておさまらない。
「星野さんの手、おっきいですね。少しは温かい?」
「は、い」
星野さんのなぜかぎこちない返事に私は笑う。
「どうしたんですか?」
「あの、その、……温かいです」
「良かった」
言葉通り、星野さんの手が温かくなってきたのを感じて安堵する。
しかし、安堵した途端急に距離の近さに気付いてしまった。それまで何ともなかったのは、駅に星野さんがいたという驚きと、待たせてしまったという罪悪感があったから。
そして思い出す言葉、
――嘘じゃなくていいです。
ぱっと手を離す。不自然な態度に星野さんも気付いたようで私は焦った。
「あ、……帰ろ。うん、帰ろ帰ろ」
くるりと方向転換して今度こそカバンから交通ICカードを出す。改札機にかざしてカバンに戻そうとしたが、焦って落としてしまった。しかし足はすぐには止まらず一歩、二歩と進む。
振り返れば落としたそれを星野さんが拾ってくれている。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
受取る時に指先が少しだけ触れただけなのに、どうしてかドキドキする。さっきまで普通に両手を触っていられた私はどこに行ったのか?
「久保田さん?」
「へ?」
「前見てください。危ないですよ」
星野さんはそう言って私の右手を取って引っ張る。前を見ると降車した人たちが改札に向かってながれていた。その人たちの間を星野さんと手を繋いで抜けていく。
――これは、ああそうだ。
――介護だ。
引っ張られる手を見て、そう思った。
いや、勘違いしそうになる思考を遮断するためにそう思うよりほかなかったのだ。
この手はいつまでこのままなんだろう?
手、離していいよ――とも言えず電車内では無言が続く。意識が向く右手はもう燃えるように熱い。
そして電車を降りてもそのままで、……だけど改札を抜けるのに左手だけでカバンの中を探れずもたもたする私を見兼ねたように星野さんは繋いだ手を離してくれた。
熱い手をカバンに突っ込む。革製のパスケースがひんやりとしている。
――もう繋がないよね。
ちょっとだけ残念な気持ちになりながら改札を抜けると星野さんはまた私の右手を掴んだ。
「あの、星野さん――」
「アイツがいたら困りますから」
星野さんは周囲を確認するように見回すと、行きましょう、と言う。
「もしかして、いました?」
私がそう小声で問うと、星野さんも声音を落とす。
「暗いので分からなかったです」
「……そうですよね」
さり気なく左手首に視線を落とせばそこにある小さな時計は21時前を示していた。
「星野さん夕飯食べました?」
「ああ、そう言えばお腹空きました」
「まだ食べてなかったんです!? もしかして私を待ってたから?」
そうに決まってる。私なんかを待ってさえいなければ今頃家に帰ってのんびり出来ている時間だろうに……。
「でも、今日はまだ朝ごはんしか食べてませんね」
「えっ!?」
驚き見上げる私の顔を、星野さんは首を傾げて見下ろす。
「……あーー、と言っても朝は11時だったので、朝昼兼用みたいな?」
「それでも18時くらいになるとお腹空くでしょ?」
「ん……? ご飯のこと考えてなかったので忘れてました」
芸術家っぽい発言だな、と思いながら聞く。
「他のことに集中してたって事ですか?」
例えば絵の事とか? ――そう思うが、しかし返ってきた言葉は想像の斜め上でそれを聞いた私の頭は沸騰寸前におちいる。
「はい。久保田さんのことずっと考えてました。今日一日ずっと」
ボンっ――脳が噴火する音が聞こえたような錯覚。それから心臓が止まる――否、止まらない。それどころかどんどん早くなっていく。
固まる私の腰に手を回して星野さんは介護してくれる。
――大丈夫です?
聞こえる問いに首を縦に振る。
――あそこのラーメン屋さん行きません?
首が縦に揺れる。揺れ続ける。
そして、
気付けば目の前にラーメンが一杯、コトンと置かれた所であった。
ラーメンを一杯食べ終えて外に出る。21時を過ぎて食べるラーメンは胃に重いなんて考えながら。
「さむっ」
温まったはずの身体に容赦なく冷たい風が襲ってきた。寒さに堪えるように握り締めた拳の上に温かい手が触れる。
それはもちろん彼の手。
見上げれば微笑んで、ゆるく解けた拳の中に星野さんの指がするりと潜り込んでくる。
「帰りましょうか」
「うん」
――やっぱりこの手はなんだろう?
その疑問を口から出せず、喉元に留めたまま星野さんのマンションの前にきた。
「今日はありがとうございました」
「送ります」
お礼を言おうと立ち止まった私は、足の止まらない星野さんに引っ張られ体勢を崩す。
「わ、ぶ」
前のめりになった身体は倒れる前に何かにぶつかった。それは――、
「大丈夫です? すみません僕が引っ張ってしまったから」
――星野さんの胸。そこにおでこが当たっている。
「大丈夫大丈夫、ダイジョーブ……」
ごめんね、と呟いて顔を上げようと思ったが星野さんの顔が案外近くてそのまま視線を下げる。
こんなの何て事ないはずなのに……。
どうしてこんなに意識してしまうのだろう……。
胸がきゅっとして切なくなる。
――勘違いしない。勘違いしない。
勘違いだけは絶対にしない。
イタいオバさんにだけはならない。
勘違いしてしまったら、それこそ私は星野さんにとっての
気を取り直して前を向いた私と歩幅を合わせて隣を歩く星野さんには感謝しかない。
こんな
若い女性――たとえば、……と頭に浮かんだのは同部署の二人の可憐な笑顔。私にはもう『可憐』なんて言葉は皆無で、それはほど遠いどこかに忘れてきている。
ちらりと横を見上げれば、にこ、と返ってくる。眩しい――。
――重ね重ね、申し訳ない。
そううなだれるのだった。
――朝は何時に出ますか?
そう聞かれるが質問の意図を理解するのに時間を要していると、それをどう捉えたのか星野さんと繋がったままの手がきゅっと軽く潰される。
「答えるまで離しません」
ここは私の家の玄関前。
星野さんの真剣な瞳。
「――時」
かすかな声で答えれば嬉しそうに微笑む星野さんの顔が可愛くてまた胸がきゅっと痛くなる。
「おやすみなさい」
「おやす――」
アパートの廊下に一つだけある電灯が隠される。繋がったままの手とは反対の星野さんの右腕が私の背中側にまわったのが分かって、緊張に肩がぴくりと一瞬震える。
私の目の前には星野さんのジャケットのボタン。そして額に何かが当たる。
何かなんて確認しなくても分かる――。
目の前のボタンが遠くなる。視界が明るくなり廊下の電灯が視界の端に現れる。
コンコンと階段を降りる靴音。その音が完全に止むとアパートの下を歩く星野さんが見えた。3階から呆然と見下ろす私に気付いた星野さんが会釈して過ぎていく。
「いっ、今の……、なにっ?」
額を押さえる。額が熱いのか、手の平が熱いのかよく分からない。慌てながら玄関の鍵を開けて部屋に入り、すぐにカーテンをしめる。力の抜けたように床にへたりこめば、床のひやりとした感覚が熱い身体に心地よいが、心は平穏とは全くほど遠かった。
「最近の若い子にとっては普通なのか?」
恋人同士ならいざ知らず、私と星野さんは、
「違うよね?」
それじゃあ考え付くのは、さっきのは恋人のフリだったということ。
だけどあれはダサイさんの前でだけ有効なのだ。と言うことはダサイさんが近くにいたと言うことなのかもしれない。
「家バレた? ダサイさんに……」
熱かった身体が一瞬で冷えていく。
「だから朝の時間も聞いてくれたの? 星野さん優しすぎでしょ……」
――あんなことまでしなくて良かったのに。
そう思いながら額に手を当てる。驚いたけど、嫌じゃなかった。だけど喜ぶべきことではない。ダサイさんがいたから仕方なく
翌朝。
カーテンをそっと開いて向こうを確認する。カーテンのない出窓の奥に人の動く気配を感じて、何とも言い難い感覚に胸がきゅっとする。なのに私の右手は胸を押さえず額を押さえていた。昨晩、星野さんの唇が触れたところを。
身支度を終えてまたカーテンの隙間から向こうを覗く。するとそこに星野さんがいたことに動揺してカーテンを揺らしてしまった。
それに気づかれない訳もなく、コーヒーでも飲んでいたのかマグカップを持ったままの星野さんが出窓を開ける。ドキドキする胸を抑えて、平静を保ちながら私も窓を開けてベランダに出た。
「おはようございます」
「おはよう」
「もう出ますか?」
「そろそろね」
星野さんの顔を正面から直視出来ないのは横から差し込む眩しい朝日のせいではないだろう。
「すぐに行くので玄関で待っててください」
はい、と私が返す前に星野さんは出窓を閉めてしまった。
私も中に入って窓を閉める。戸締まりの確認をしてカバンを持って玄関に向かうが、なんとなく自分の顔が気になって鏡の前に戻る。
「へんな所ないよね?」
化粧と髪型をもう一度確認して、私は玄関をそっと出た。
私側から見て怪しい人影はなし。
アパート下に星野さんが見えたので1階に降りると星野さんが微笑んだ。
「行きましょうか」
そう言って自然に右手を取られる。だから私は目だけで左右を確認する。
「久保田さん?」
「いた? ダサイさんいた?」
なおも辺りに視線を飛ばす私に、星野さんは大丈夫ですよと言う。
「いなかったと思います」
「そっか」
ほっとして肩が下がる。
あの人だって仕事があるのだろうし、朝は忙しいだろう。
「ごめんなさい、付き合わせて」
「いえ」
「今度お礼するから。何がいいか考えてて?」
「はい。何でもいいですか?」
「もちろん、何でもいいですよ! って言ってもあんまり高価なものはちょっと……」
「僕、高価なものはあまり興味ないので」
「そっか。……何に興味があるの?」
「絵」
「あ……、そうですよね。じゃあ画材とか?」
「いや、画材はいいです」
「そっか。じゃあ決まったら教えてくださいね」
「はい」
そろそろ駅に付くというタイミングで星野さんが口を開く。
「仕事終わるの、何時くらいになるか目処が付いたら連絡ください」
「え……」
「駅に迎えに行きます」
「うん。あ、今日は昨日みたいに遅くはならないから」
「分かりました。では僕は3番線なので」
改札を通り、星野さんは3番線へ。
「行ってらっしゃい」
振り返って星野さんが「行ってきます」という。
「久保田さんも行ってらっしゃい」
「い、行ってきます」
胸が温かい。
優しい気持ちがあふれる。
穏やかで心地よくて、うすく涙が浮かんだ。
早く終わらせなきゃ――そればかり考えて仕事に取り組む。どこかで「課長殺気立ってる」という声が聞こえた気もするが構っている暇はない。そんな暇があるなら一分でも早く終わらせて会社を出たい。
「ふう〜」
腕時計を確認すると16時半。とりあえず山は越えた。今日中にやらないといけない仕事はあと1時間ちょっとあれば終わるだろう。
首を左右に倒して、猫背になっていた背中をぐうっと伸ばす。
小休止ついでにスマホを手に取り、星野さんへショートメールを送る。
『お疲れ様です。今日は18時頃には帰れそうです。』
「よし、もうひと頑張り!」
星野さんを駅で待たせるわけにはいかない、という思いを抱えて残っている仕事に着手した。
星野さんが『会社を出ました』というメールをくれたので私も会社を出て駅に向かう。
会社を出る前に三山係長に「今日はえらく早いですね?」と問われたので、「ちょっと用事が〜あはは〜」と誤魔化すように笑ってしまった。変に思われていないかと、あとになって心配になってくる。
駅に着くと星野さんはまだいなかった。
待たせてばかりは悪い気がするから、早めに着いて良かったと胸をなでおろす。
数分待つと改札口を出る人の流れが見えたので、流れに逆らって近づいた。もしかしたら星野さんがいるかもしれない。
案の定、改札を出ようとする星野さんを見つける。
「星野さん、そっち行きます!」
「あっ」
星野さんが改札を出るより早く、私が改札を通って中に行く。
「久保田さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「何か急いでるんですか?」
「え?」
特に急いではいない、と私は首を傾げる。
「なんていうか、慌てたようにこっちに来たから、てっきり急いでるのかと……」
「ああ。だって星野さんが改札を出る必要ないじゃないですか。それに出たら余計なお金かかっちゃうし」
「なるほど」
星野さんは妙に感心したように3回頷いた。
「……でも、お仕事終わらせるの急かせてしまいましたか?」
「い、いやあ……そんなことないですよ!」
「そうですか?」
「星野さんこそ急いで仕事終わったんじゃないですか?」
「いえ、僕は。いつもこんな時間ですし、わりと自由がきくし、会社にいるより家にいたほうがデザインのイメージが湧いてくるので……」
「じゃあ帰りましょうか」
「はい。どこか寄る所はありませんか?」
「ううん。ないです」
「それじゃあ真っ直ぐ帰りましょう」
私はそれに微笑みで返して駅のホームへ向かい、やってきた電車に乗った。
電車を降りるとやっぱり二人とも周囲に視線を飛ばす。
「いない? ですね」
改札を出ても、駅を出てもダサイさんの姿は見当たらず、ほっと息を吐き出した。
「もう諦めてくれたのかな?」
「さあ、どうでしょう。警戒するに越したことはないですから……」
そう言った星野さんの手が私の右手に当たる。そう思った直後には私の右手は星野さんの左手に包まれていた。
「星野さん?」
「嫌ですか?」
「嫌じゃ……」
嫌だなんて言えるわけない。嫌じゃないんだから。
手を繋いで夜道を歩く。すっかり真っ暗な空に反して駅前はまだまだ明るくて街灯もたくさん並んでいる。それが通りを一つ入るたびに街灯が少なくなっていく。
星野さんのマンションの前に着くけど星野さんの足は止まらない。
――送ってくれるつもりなんだ。
そう思えば胸のあたりがくすぐったい。
「星野さん、今日はお昼ごはん食べました?」
「あ、はい。今日は同僚がサンドイッチを差し入れてくれたので、それを食べました」
「そうなんだ。その同僚って女の子?」
気遣いの出来る女性を思い浮かべると胸が痛くなる。
「違いますよ。男です。同期の奴で、僕が仕事に没頭してると『食べてないだろ』って言って何かと与えられてます」
「与えられてるって、ふふふ」
「よく食事を忘れる僕が悪いんですけどね」
「じゃあこの後、家に帰ったら何食べます?」
「うーん? カップ麺かな? ささっと食べてデザインの続きをしたいんですよね」
「私のせい?」
一緒に帰ることにしたから、仕事を持ち帰ったのだろう。
「違いますよ。久保田さんと一緒に電車に乗ってる時にちょっと浮かんだんです。だから忘れないうちに描きたいんですよね」
「そっか」
安堵と、そして嬉しい気持ちが合わさって頬が緩む。
「じゃあ早く帰らなきゃね! ここでいいよ!」
と言ってももうアパートは目の前。
「久保田さん」
「なに?」
「抱き締めていいですか?」
「え?」
是非を返す前に私は星野さんの腕の中におさまっていた。
「星野さん、私まだ良いって言ってない……」
「はい。でも待てなかったから」
そうは言うけど、抵抗する気もない私が返すべき言葉は「是」なのだけど、果たしてそれを言えたかどうかは分からない。
良いよ、なんて恥ずかしくて言えないだろうから、星野さんが待てずに抱き締めてくれて良かった。
「おやすみなさい」
「おやす――」
言い終わる前に額に落ちてくる唇が見えて目蓋をふせる。昨日と同じ、おでこに感じる熱。
そこからじわじわと広がる熱を意識する私を置いて星野さんの腕が離れていく。
昨日は咄嗟のことに反応しなかった身体だが、今日は違う。背中を向ける星野さんのジャケットの裾を私の右手は掴んでいた。
「ねえ、星野さん……」
呼び止めたはいいけど、私は彼に何を聞こうとしているのだろう。
躊躇して、言葉を止めて、掴んだ裾を離した。
「久保田さん?」
「あ、……あの、あっ、今日も送ってくださってありがとうございました」
「いえ」
「引き止めてごめんなさい」
軽く頭を下げる私に向かって星野さんが一歩近づく。
「あの、久保田さん」
「はいっ!」
少しだけ返事が上擦る。きっとおかしいと思われたに違いない。さっきから挙動不審すぎる、サイアクだ。
「朝言ってたお礼の話しなんですけど」
「ああ、うん。お礼。はい……」
「本当に何でもいいです?」
「うんうん、何でもいいです、いいです!」
壊れかけのオモチャみたいに首をぶんぶん縦に振る。
「もしかして決まりました?」
「はい、決まりました」
「何にしますか?」
画材じゃないにしても、呑みに行こうとか、レストランで食事しようとか、そのあたりかなと予想していた。星野さんの性格からして高価なものが欲しいとは言わないんだろうなあ、と思っていたからだ。
だけど、星野さんの口から出たのは全く予想もしていなかった私の名前――!?
「え?」
聞き間違えかと思って聞き直す。
「お礼は久保田さんがいいです」
「えっ!? わたし??」
「はい。久保田さんが欲しいです」
どうやら聞き間違えではないらしい。
と言うことはどういう事だ?
「私がお礼って?」
今までの星野さんの態度から合わせて考えて、お礼として求められる意味が分からないわけじゃないけど、でも『まさか? 本当に?』という思いが前に出てしまう。
「今もらってもいいです?」
何が? ――と問う声が出なくて、否定しないことを肯定と捉えたのか星野さんがまた一歩こちらに近づく。
二人の間にはわずかな隙間しかない。
星野さんの瞳があまりに綺麗で、どんどん近づく瞳に捕らえられ、瞬きも出来ないまま唇にそっと熱が移されていく。
ゆっくり離れた星野さんは歯を見せず、にこと笑った。
私の胸が
翌朝、アパート下に迎えにきてくれた星野さんと一緒に駅に向かうけど、「おはよう」と挨拶を交わしたきり、言葉が出ない。
口を開けば私は星野さんに「私の事好きなの?」とか聞いてしまいそうで、どうしたものかと色々言葉を考えてしまう。
だが考えるだけで何も浮かばす駅に着いてしまった。
「今日もお仕事頑張ってくださいね。それじゃあまた仕事が終わる頃に連絡ください」
「うん」
3番線に向かう星野さんを見送りながら私は2番線に行きすぐに来た電車に乗って会社に向かった。
「――課長」
――星野さんも何で私を?
「久保田課長!」
――まだ若いんだから私じゃなくても……。
「久保田課長ー!!」
「へっ?」
虚空に漂っていた視線を横に向けると事務の
「呼んだ?」
「呼びました。何度も。どうしたんですか? 何をそんなに考えてたんです?」
そう言いながら私の前にあるパソコン画面を覗いた月見里が首を傾げる。
「納品書? 何かおかしい所がありました?」
「あー、いやいや、ないない! 大丈夫!」
「それならいいですけど。もしかして体調悪いです?」
「ちょっと寝不足なくらいかな? でも全然大丈夫だから」
そう言うと、今度は事務の結城さんまでやって来た。
「ダメですよ〜、寝不足は!!」
「うん、そうだね。今日は早く寝るようにするわ」
「そうですよ! ちゃんと寝てくださいね〜」
結城さんの若くて澄んだ高い声に増田部長が反応した。
「おやおや?」
いや、反応しなくていいからデスクに戻ってくださいって!!
「久保田課長」
「はい……」
「寝不足なら、これから外回りに行きますか?」
鬼だ。目を覚まして来いってことだろうかとうなだれる。
「でも外回りの予定は月曜に済ませたばかりで……」
「じゃあ私のお遣いをお願いします」
理不尽。
「……わかりました」
早く帰らないと星野さんを待たせることになってしまう。なるべく急いでお遣いを終わらせて帰社しようと思った。
増田部長の『お遣い』という名目の市場リサーチに行くため会社を出る。
「もう16時前なんだけど……」
今から出て、帰社は何時になるだろう。急ぎのデスク仕事はないから、帰社次第すぐに退勤できるはず。そう考えているとスマホが鳴りはじめた。
画面に表示されているのは『増田部長』である。ひとつ大きな息を吐き出して電話に出る。
「はい、お疲れ様です」
「あー、『お遣い』行かなくていいから」
「は?」
「そのままお遣い行ったフリして直帰してくれたらいいから。たまにはこんな日があってもいいでしょ」
「ですが」
「いいから、いいから。だけど今日だけね〜。明日からまた頑張って。じゃ!」
ピ、と終話になる。
「え、部長? ……えー、帰っていいの?」
部長、若い娘を見て鼻の下を伸ばすエロオヤジだなんて思っていてごめんなさい――と心の中で謝る。本人には絶対言わないけど。
思いもよらず早く帰れる事になったわけだが、どこかでぶらぶらするわけにもいかないだろう。
でも星野さんと待ち合わせして一緒に帰るには時間はまだまだ早い。
「今日は先に帰るか……」
きっと一緒に帰っても今朝のように会話に悩んでしまうのだから、それならいっそのこと今日は先に帰ってしまおうかと考える。
「とりあえず連絡だけ入れとこ」
今日は早く帰れることになったので先に帰ります――と星野さんへメッセージを入れる。
送信して、真っ直ぐ駅に向かう。
「こんな明るい時間に帰れるなんて初めてだな〜」
スーパーに寄って帰ろうかな、と考えるものの早く帰れるからこそ自炊したくなくなる。
「デパ地下のお惣菜? 行ってみる?」
でもデパートまで行くのは面倒くさいな、と今度は考える全てが億劫になっていく。もともとこんな性格だから自分は困らないけど、周りに迷惑を掛けていることは自覚しているのだ。
デリバリーもいいけど、あれはあれで玄関に出るのが面倒くさい。
――あ〜、帰り道に手軽にテイクアウトできて美味しいものってなんだ?
いい案が浮かばないまま駅に着く。そのまま電車に乗って、このまま何も買わずに家に帰りそうな自分を想像して車内で一人失笑する。
車内に人は少ない。と言っても座れる所はなく、開かない方の扉に寄り掛かって外を向いていた。
昨日と一昨日は星野さんと一緒に乗った帰りの電車が今日は一人。
それをちょっとだけ寂しいなと感じながら降車する。ぶらりと揺れる右手は乾いていて少し冷たい。
隣に人のいない寂しさに胸の中まで寒くなる。だからといって隣にいて欲しいのは誰でもいい訳じゃないのだ。
浮かぶ顔は一つ。
その時、自分の名前が呼ばれた気がした。都合のいい幻聴だろうか、と考えながら首をめぐらす。
するともう一度、ナオさん――と呼ばれて、私の喉はひゅっと鳴った。
ナオと呼ぶのは一人だけ。
ナオは、Nao。
目の前に現れたのは二度と会いたくないと思っていたダサイさんだった。
「だ、ダサイさん!?」
目の前に現れたダサイさんは無表情。何を考えているのか全く分からない。
私の家がここの近所だと知っていての待ち伏せなのか、それとも偶然なのかは分からないが背中に悪寒が走る。
「どうして?」
「仕事ですが」
そう言われて初めて服装に注視する。紺色のスーツに青系ストライプのネクタイ。カチッとした黒い鞄。どこからどうみても普通のサラリーマン。
「訪問です。この辺りの地域を担当してます。と言ってもこれから役所に戻りますが」
「え、お役所仕事? 公務員?」
「はい、そうですが……」
ダサイさんは、知らなかったのか、という視線を向けてくる。
「始めに言っておきますが、貴女も私に会いたくはなかったのでしょうが、私も貴女に会いたくはありませんでした」
「はあ……。えっとじゃあどうして声を掛けたんですか? 無視してくれてもいいのに……」
私がそう言うとダサイさんはため息と同時に視線を斜め上にやる。
「私もいくらか悩みました。このご近所にお住まいならまたいつか顔を合わせる事があるかもしれないので。そしてその時にあらぬ疑いをかけられても非常に迷惑ですから」
あらぬ疑いとはストーカーだろう。
「貴女みたいに平気で二股する女性に騒がれるのはご免こうむりたい」
二股なんてしてないけど――と飛び出しそうな言葉は飲み込む。この際、ダサイさんには私がビッチだとでも思われていた方が助かるのだから。
ダサイさんもそう思っているようで、「私は健全な女性とお付き合いしたい」うんぬんかんぬんと一人で喋り続けているが、どうでもいい。
コバエが飛んでるな〜レベルでどうでもいいのにダサイさんの話しは終わらない。
だけどもう婚姻届を持って結婚を迫られないということが分かって心底ほっとした。
「聞いているのですか?」
「え?」
「いい歳してきちんと話しも聞けないなんて、これだから40歳過ぎても結婚出来ないんですよ」
頬がピクピクする。
でもこういう人に反論しても仕方ない。ネチネチ嫌味たらしく返されて私の精神がゴリゴリ削られるだけなのだ。
黙って聞いている私は相当忍耐力があると自分を褒めながら、後半の話しは「早く帰りたいな〜」と思いながらダサイさんの話しを聞き流した。
そして一通り話して満足したのかダサイさんは腕時計に視線を落とす。
「ああ、これ以上は時間の無駄ですね」
時間の無駄は私もなんだけど……。早く帰れるはずだったのに駅の外は暗くなり始めていた。
電車を降りた人が駅の外へと向かうのが見える。その中に見知った顔があった。焦った顔をしてこちらに走ってくる。
それは――星野さんだった。
「何してる――!?」
顔色の悪い星野さんがその背中で私の視線を遮る。
「また君か」
「警察を呼びます」
静かな声だけど怒りが滲んでいる。でも警察は待って!!
「ちょ、星野さん!?」
「大丈夫です。僕が守ります」
こんな時にときめいてごめんなさい。でも、でも……、守るだなんて言われた事なくて、胸が不覚にも反応した。
だって今までは「直子なら一人で生きていける」評価だから、誰も守るだなんて言ってくれなかった。
「君は誤解しているようだが」
「そうそう星野さん、誤解なんだってば!」
星野さんがゆっくり振り返り、私を見下ろす。その瞳には怒りの色が滲んでいる。
「星野さん、大丈夫だから」
「どこが?」
「えっと、その、なに? 今、和解したところ?」
「和解?」
怪訝な顔をする星野さん。そりゃそうか。和解なんて言われても意味が分からないだろう。
「もういいかな? 私はもう次の電車に乗りたいんだ」
「どうぞどうぞ」
「ふんっ」
憮然とした表情で改札に向かうダサイさんを唖然として見送る私とは反対に、星野さんは睨みつけていた。
「久保田さん」
「はい」
「あなたに危機感というものはありますか?」
「あ、あります……」
「じゃあ何で先に帰るんですか。何かあってからでは遅いんですよ」
「でも……。定時より早く終わったから」
「僕は、……僕は……」
星野さんは大きな手の平で顔を覆うと「はあ〜」と息を吐き出した。
「良かった。無事で。久保田さんとあいつが一緒にいて、心臓が止まるかと思いました」
「大袈裟だよ」
私がそう言うと星野さんはキリっと私をひと睨みする。
「ごめん、ね?」
上目でうかがう私を星野さんは抱き締める。ぎゅっと腕の力が強まる。
「和解って、なに?」
「え? なにってその……っていうか星野さん、ここ駅」
「だから?」
「離して欲しいな、って……」
「無理」
「いや、でも」
「何でそんなに落ち着いてるんですか。駅じゃなかったらいい?」
「えっと、場所による?」
「じゃあ僕の家」
私の身体にまわっていた腕がゆっくり離れ、その代わりに私の右手が掴まれる。
そのまま引っ張られる私の心臓は、ダサイさんに会った時よりドキドキしているような気がした。
*
「座って」
リビングのローテーブルの前に腰を下ろした星野さんが隣を叩いて、私に座るよう促す。
抗えずに正座して両手を太ももの上に重ねて置く。
いつもの穏やかな星野さんじゃない。それは口調のせいだけではないだろう。
「星野さん、怒ってる?」
「怒ってます」
「ごめんね?」
「悪いと思ってるんですか? というか和解って何ですか?」
「えっと……」
ダサイさんの言葉を思い出す。
「向こうも私みたいな二股女には会いたくなかったけど、仕事でどうしてもこの辺に来るし、たまたま会ったとしてもそれはストーカー行為ではないから理解しろ、みたいな?」
「やっぱりあいつ警察に付き出せば良かった」
「え、何で何で? ストーカーじゃなかったんだよ?」
「じゃあ一発殴る」
「ダメだよ! そんな事したら絵が描けなくなっちゃうじゃん!!」
というか星野さんの口から「殴る」なんて暴力的な言葉が出て来るなんて思わなくてびっくりする。
「だって……、あいつは自分のことばかりで久保田さんの心を傷付けたから」
星野さんの怒りが、夜の静けさのような哀しみに変わっていく。
――なんで星野さんの方が泣きそうなの?
「ありがとう。でも私そんなこと言われたくらいでへこたれないから大丈夫だよ」
「なんで強がるの?」
泣く寸前の子どものような顔がこちらを向く。
「強がってなんて……」
「ないって言える?」
言葉が出ない。だって本当は「酷い! 悔しい!」と叫びたい。
でもそれを星野さんの前で晒せない。
「僕に甘えてよ……」
床に向けて呟いた言葉はまるで星野さん自身に言ったように聞こえたが、それは私に向けられた言葉だろう。
甘えるなんて出来ない。
だって私はずっと
少しでも甘えたら「おねえちゃんなのに」とか「委員長のくせに」とか言われてしまう。
「僕じゃ頼りない?」
「そんなこと……、ない。守るって言ってくれた時、嬉しかったもん。でもね、私もういい年した大人だし、一人でダイジョ……」
言いかけた言葉を止める。
『一人で大丈夫』は自分で自分に掛けた呪いのような言葉だと気付いた。
「久保田さん?」
目に涙が滲むのが分かる。だけどこぼしたくない。私はこんな事で泣くほど弱くない。
「大丈夫だよ」
また呪いを掛ける。
「そんな顔で『大丈夫』なんて言っても僕は信じませんよ」
視界が暗くなる。星野さんが抱き締めているのだと分かるのに数秒かかった。
「星野さん?」
「駅じゃないからいいんですよね?」
いいとも、ダメとも言えず大人しく星野さんのぬくもりに包まれた。
星野さんがあったかいコーヒーを淹れてくれる。湯気とともに香ばしい匂いが漂う。
「ありがとう」
「パスタなら作れますが食べますか?」
いつもの口調に戻った星野さんが冷蔵庫を覗きながら問う。
「いいの?」
「ええ。嫌いなものありますか?」
「ないよ」
穏やかに微笑む星野さんに安心しながら、先ほどの口調のままでも良かったのにと、残念に思う。
「何か手伝おうか?」
そう言って、私もいつの間にかタメ口になっている事に気付いた。いつからだろう? でも気付いたからといって直す気はあまりない。
「コーヒー飲んでてください。すぐ出来ますから」
「うん」
言われるままコーヒーに口を付ける。熱くて少しずつ口に入れながら飲むとその爽やかさと苦味の美味しさに肩の力が抜けていく。
「美味しい」
「良かった。……ニンニクとタカノツメ入れていいですか?」
「うん、いいよ。もしかしてペペロンチーノ?」
「はい」
「すごいね。私家でペペロンチーノなんて作ったことないな」
「あまり好きじゃないです?」
「ううん、好き。お店でよく注文するし」
良かった、と言う星野さんの声とフライパンのジューという熱された音が一緒になる。ニンニクを入れたのだろう、その匂いがカウンターキッチンを越えてこちらに届く。
こちらから星野さんの手元は見えない。だけど手際がいいのだろう。包丁がまな板を叩くリズムは均一で、手が止まることはない。
コーヒーを飲み終えて立ち上がる。
「ねえ、何か手伝うよ?」
「それじゃあ……」
私に何が出来るか考えているのか星野さんがキッチンをぐるりと見回す。
「あ、サラダがいりますか?」
「パスタだけでいいよ」
「じゃあスープ?」
「品数増やそうとしなくていいよ?」
「本当に?」
「うん」
「……じゃあお皿出してもらっていいですか?」
「うん、いいよ」
小さな食器棚はスッキリしていて食器は少ない。パスタを盛り付けられるお皿を探すが一皿しかなかった。
「星野さん、これしかない?」
「あ、そうだ。お皿買っておかないといけないですね」
――え、それって……。またご飯作ってくれるってこと?
「じゃあ僕はフライパンに入れようかな」
「ふふ」
「?」
「笑ってごめん。なんかインスタントラーメンを鍋のまま食べるの思い出して」
「久保田さんは鍋のまま派?」
「やっぱりダメだよね、男子学生じゃないんだし……」
「ふっ」
「星野さん?」
「いや……すみません……」
「あー、ガサツだと思ったでしょ?」
「いえ、気取らない所がやっぱり……」
「やっぱり?」
――やっぱり、なに?
期待と不安に心臓がドキドキする。
「やっぱり……、今は言いません。はい、出来ました」
私が手にしていたお皿を星野さんが取る。くるりと円を書くようにパスタを盛り付けてくれて、そのお皿とフライパンを星野さんがテーブルに持っていく。
「久保田さん、カウンターの上にある鍋敷き取ってくれますか?」
「うん、いいよ」
白いカウンターの上に木製の丸い鍋敷きがあった。それをテーブルに置くと星野さんはその上にフライパンを置く。
「美味しそうだね」
「その感想は食べたあとにお願いします。フォークだけでいいです?」
「うん」
キャベツとベーコンのペペロンチーノから、香ばしい匂いが上ってくる。
星野さんからフォークを受け取り椅子に座る。
「いただきます」
「いただきます」
フォークにキャベツがザクっとささり、そのままパスタを巻き取る。口に入れるとピリッとした辛味とニンニクと塩味とあま味とうま味、全てが上手く調和していて口の中いっぱいに至福が広がっていく。
「うう〜ん!!」
左手で頬を押さえる。押さえないと落ちてしまいそうだったから。
「美味しい〜。何コレ〜!!」
お店で食べるペペロンチーノより、断然星野さんのペペロンチーノの方が美味しい。
「お口に合って良かったです」
星野さんは大口を開ける私を見て微笑んでいる。慌てて口を閉じるが意味はないだろう。
それでも手は止まらなくて、あっという間に完食してしまった。
「ほんと美味しかった! ご馳走さまでした」
「また作りますね」
「絶対食べに来るっ!!」
前のめりに反応する私を見て、星野さんはにこりと笑う。
「お皿片付けるね」
「いいですよ、気にしないでください」
「いやいや、ここはちゃんと洗います!」
「そうですか? それじゃあ僕はコーヒーでも淹れましょうか? 飲みます?」
「うん飲む!」
「コーヒーでいいです? それともビール出しましょうか?」
「いや〜、ビールは」
人様のおうちで「ぷは〜」なんて出来ないし、とお断りする。
「ビールはさ、お風呂も済ませてから呑むのがいいよね」
言いながら、流しにあるスポンジに洗剤を付けて泡立てる。
「ウチで入ります、お風呂? 一緒に入りますか?」
洗おうと手にしたお皿を落としかける。
「なっ!?」
「お風呂一緒に」
「ちょ、星野さんでも冗談言うんだ……」
「冗談じゃなくて本気」
背後に立つ星野さんに、背中が緊張に固まる。その背中がゆっくり温度を感じて、肩口に星野さんの顎が乗った。
私の顔は正面を向いたまま硬直する。
「本気って言われても、付き合ってもないし、ね?」
「付き合ってたらいいです?」
「そりゃ、……コイビトドーシなら……」
言いながら、言ってはならない言葉だと気付いて止める。だがもう遅いのかもしれない。お腹が苦しくなる。
それは星野さんの腕が私のお腹に回されているからで……。
「久保田さん」
「な……に……?」
「恋人として、僕とお付き合いしてください」
「……星野さんはさ、私のこと好きなの?」
それはずっと聞きたかったこと。聞いてもいいのか、と躊躇っていたのに気付けば口からこぼれ落ちていた。
耳のすぐ近くで、ふ、と笑われる。
「嫌ですか?」
「い、嫌とか、じゃないけど……」
「『けど』?」
「けど、私は星野さんより10歳も年上だし……」
「年齢差が気になるんですか?」
「当たり前だよ」
「どうして?」
「だから、……10コも違ったら色々考えちゃうの」
「じゃあ逆だったら? 久保田さんが僕より10歳年下だったら良かったですか? もしくは僕が30歳ではなく50歳だったらダメですか?」
「えっと、いや……」
星野さんが50歳ーーそれならアリかな、なんて考えてしまう。ようは自分が彼より10も年上であることが許せないのか。
「でも私、赤ちゃん産めないかもしれないよ? もう40過ぎてるからリスクもあるし」
「それが?」
「星野さんならもっと若い女性がお似合いだと思うけどな〜」
自分で言ったセリフなのに、どうしてか胸がズキンと痛くなる。
「僕なんかでは久保田さんのお相手に相応しくないと言うことですか?」
「違うよ。私には勿体ないって言ってるの」
「僕は相当のポンコツですよ。食事も忘れるくらい……」
「そんなの大した事ないって、若くてイケメンで素敵なデザインが描けるんだから星野さんなんて引く手あまたでしょ?」
「引く手あまただとしても、その中に意中の人の手がなければ意味ありません」
お腹に回されている腕の力が強くなる。と同時に星野さんの頭の重みが私の側頭部に寄り掛かる。
「……星野さん?」
「僕には久保田さんが必要です。貴女の笑った顔を見るたびにデザインが溢れてくるんです」
「え……」
「独り占めしたいくらい久保田さんのことが好きです」
「…………」
星野さんの顔は見えないけど、真剣な声はすぐそばから届く。
「男の部屋に呑気に上がらないでくださいよ。やっぱり危機感がなくて困る。僕はこんなに久保田さんが欲しいのに……」
「呑気に上がったわけじゃ……。星野さんが引っ張るから……」
「流された?」
「うん」
「それじゃあ、このまま流されてください」
耳に星野さんの吐息がかかる。
そのまま耳を軽く食まれて、身体がピクッと反応する。
「やっ」
「好き。久保田さんのこと好き」
「だっ、ダメっ!!」
お皿とスポンジを離し、手には泡をつけたまま星野さんの腕の囲いを剥がし、横にずれてから向き合う。
「星野さん、ごめんなさい」
頭を下げれば、佇む足が見えるだけ。
「気持ちは、……嬉しいんだけど……」
嬉しいだけではどうにもならない。
「私があと、せめて5歳若ければ、……星野さんの気持ちを喜んで受け取ってたと思う。でもお付き合いを楽しむ時間はないの。私、すぐに結婚したいから。だから婚活しなきゃ――」
「婚活もマッチングアプリもやめてくださいって言いましたよね?」
「だから、結婚したいの! 私が求めているのは結婚相手であって、恋人ではないの」
「じゃあ結婚しましょう」
「だからっ!! え!?」
……結婚しましょうって言ったの?
「え……」
「結婚、……しましょう?」
泡の付いた両手を、星野さんの両手が取り上げる。
「なに、言って……」
「ゆくゆくは結婚したいって思ってました。だから僕と結婚してください」
微笑んでいるけど真剣な瞳が真っ直ぐ私を射抜く。
冗談ではないと伝わってくる。それに星野さんは冗談なんて言う人じゃないってことを私は知っている。
「でも……」
「まだ何を気にしているんですか? 年齢差はどうにもならないので気にしないで欲しいです」
「……お互いに、……何も知らないでしょ?」
「それじゃあどこまで知ったら結婚出来ます? 知りたいこと全部話しますよ? それともお付き合いする期間が必要ですか? それはどれくらい? 1ヶ月? 半年? 1年?」
「えっと……」
1ヶ月は短い?
でも1年は長い?
それなら半年?
……わかんない。
「でも婚活が成功したらすぐに結婚するつもりだったんですよね?」
「え……」
その通りだ。
「それなら、……ここで成功したって思えば良くないですか? ダメですか?」
「な、……なんで……」
婚活が成功した、なんて嬉しい言葉に涙腺が緩む。
「ほ、しの……さん」
ほろりと頬を伝う涙を見た星野さんが困った顔をする。困らせたいわけじゃない。
嬉しいのだと伝えたい。
だけど、本当にこの好意を受け取っていいのかと、私の中の何かがブレーキをかけている。
星野さんの幸せは私ではない他の所にあるんじゃないかと考えながら私は星野さんに繋がれた手を強く引っ張って下ろした。