健太の帰宅が目に見えてどんどん遅くなっていく。まるで家に帰って来たくないとでもいうように。
ラップに包んでいた夕飯も深夜を軽く過ぎるようになると「いらない」と言われた。
「夜は会社で軽食が出てるから」
言い訳でもするように付け加えられた言葉に私は「そうなんだね」としか返せない。
さらにその日それは起きた。
もう終電もない時間、玄関が静かに開いたにもかかわらず小さな物音で私の目は覚めた。トイレに行くついでとばかりに「おかえり」と出迎える。
「真樹っ、起きてたのか?」
何をそんなに驚くのだろうと半分寝ている頭でそう思ったのだが、次の瞬間、私の頭は完全に目覚めた。
私の横を通る健太からあの女の匂いがしたのだ。咄嗟に口と鼻を押さえる。健太はそんな私に気付きもせず洗面所へと消えた。
あまりの衝撃に吐き気がこみ上げてきそうになるが私はすぐに寝室に戻りベッドに潜り込む。
あの匂いは絶対車に漂っていた匂いと同じだ。
健太はこの時間まであの「モモヨ」とか言う女と一緒にいたということだろうか?
やっぱり浮気しているのか……。でも認めたくないような、問い詰めてしまいたいような……。
もし、別れてくれ、とか言われたらどうしよう? 別れる? 別れない?
子どもの親権は? ……きっと健太だろう。
今から働けば間に合うだろうか?
パートじゃ駄目かな?
やっぱり正社員?
アラフォーのおばさんを社員で採用してくれる会社なんてあるのだろうか……。資格さえない私をどこが雇ってくれるというのだろう。
「はあ……。子どもたちと離れ離れになるのはヤダ。それなら泣き寝入りして、私が我慢して、気付いてないフリして、やり過ごせばいいのかな?」
あふれる涙が枕に染みていく。ティッシュを求めて手を伸ばすとティッシュより先に手が健太の枕に当たった。
咄嗟に手を引っ込める。まるで汚いものでも触ったかのように。
「いやだ……」
嫌いになりそう。
嫌いになりたくない。
嫌いになりたい。
矛盾した感情が胸を暗い色に染めていく。
その時、ガチャリと扉が開いた。それから聞こえるのは、静かに扉を閉める音。健太の潜めた足音。布団をめくりベッドが軋む。
「はあ」
健太の大きなため息。
大きく息を吐き出したいのは私の方なのに。
すぐに寝息が聞こえてくる。健太を見るとまるで拒絶するように背中を向けられていた。
そっちがその気なら、……私も健太に背中を向ける。
浮気してるんでしょっ!――って叫べたらどんなにいいだろう。でも私にそんな勇気はないし、私にはまだ家庭を壊す決心がついていなかった。
土曜、午前中寝ていた健太がお昼になって起きてくる。私と子どもたちの早めに食べたお昼ご飯は済んだばかり。
「おはよう。何か食べる?」
「いや、まだいい。後で」
「でも私たちもう出るからね?」
「出掛けるのか?」
「サッカー。陽太のサッカーの試合」
「ああ」
ああじゃない、と言ってやりたいのをぐっと堪える。
「それなら冷凍庫にチャーハンとかあるから適当に食べて。昨日の残りものでも良かったら冷蔵庫に肉じゃががある」
「真樹、機嫌悪い?」
「はあ? だ――」
誰のせい、と言いそうになるのをすんでのところで抑える。
「生理前だからじゃない? ……もう時間ないから。行ってくるね」
「あのさ明日出掛けて来るから」
「明日? どこに?」
「いや、それはまだ分かんないけど」
「なにそれ」
――怪しすぎる!!
それ完全にモモヨとのデートでしょ!?
「誰と?」
「え? いや、その……」
――もしかしてビンゴ?
そうなんだ。家族を蔑ろにして日曜は堂々とモモヨとデート……。
「陽太、美琴、香苗行くよ」
「はーい」
ぶっきらぼうに「行ってきます」と残し私は玄関の鍵を外から施錠した。
ずんずん歩く私に香苗が「ママはやい〜」と言ってるが私の頭の中は明日の浮気デートの事でいっぱいになる。
実家に子どもを預けて健太を尾行する? 出来るかな?
でも証拠を掴めば何かあった時、私に有利だよね?
どんどん息が荒くなるのが分かる。心臓もこれでもかというほど早くなっていく。
サッカーの試合がある陽太の通う小学校に着くと私は実家のお母さんにメッセージを送信した。
『突然だけど明日子どもを預かってくれないかな?』
持って来ていた小さな折り畳み椅子を二つ広げ、美琴と香苗を座らせるとマナーモードにしているスマホが振動する。
『なに、どうしたの? 別に何も用事ないからいいけど。家に連れて来るの? それともお母さんがそっちに行こうか?』
助かる〜お母さん〜! ――と思いながら『ありがとう』スタンプを送ると続けてメッセージを入力する。
『そっちに子どもたちを連れて行きます! よろしくお願いします!』
するとすぐに『オッケー』スタンプが返ってきた。
これで子どもたちは良し。あとは人生初の尾行だ!
陽太のサッカーの応援に熱を放出すると、次第に冷静さを取り戻していく。
先ほどまで私らしくもなく「尾行」するなどと息巻いていたが、時間の経つほどに不安がふくらむ。
そうそう簡単に上手くいくだろうか? いや上手くいくはずない。
そもそも健太が何時から出掛けるか聞いてもいないのに、朝から出掛けられたら子どもたちを預ける前に尾行失敗だ。
問題は明日健太が何時に家を出るのかだけではない。車で行くのか、電車で行くのか、はたまた徒歩なのか、それさえも分からない。もし車で出掛けられたら、私に追いかけるすべはなくなる。いや、タクシーを待機させておこうか? それなら可能かもしれない。
怒りにまかせず、冷静に落ち着いて考えなければいけない。
「すーーー、はーーー」
深く息を吸い、長く吐き出す。
こんな行き当たりばったりな幼稚な計画で上手く行きはしないだろう。だけど、だからと言って見過ごすのも嫌だ。
手元にカードは多い方がいい、なんて誰が言ってたっけ?
とは言っても私の手元にあるカードなんてゼロ。でも明日の行動次第で増やせるかもしれないなら一枚でも増やしたい。
それに、どこかで浮気じゃないかもしれないと健太の潔白を望んでいる私もいる。嫌いになりたい訳じゃないんだもん。
だからこそ、この目で確かめなきゃ!!
陽太は「1〜2年生の部」に出て準優勝だった。最後の決勝戦で負けたのが悔しかったのかボロボロと涙をこぼしながら解散し、私の元に戻って来る。
「頑張ったね陽太。最後のシュートおしかったもんね」
「ボクがあれを入れなかったからまけたんだ……」
「…………」
違うよとも、そうだねとも言えず陽太を抱きしめて背中をポンポンと撫でる。
「よく頑張った。またいっぱい練習して今度は優勝めざそうよ」
「うん。いっぱいガンバる」
「よしよし、えらいね〜! 今日の夜は何食べようか?」
「えっとね、エビフライとからあげとね、カレーとね、ハンバーグ!!」
「ええっ、そんなに食べれないでしょ?」
「じゃあエビフライ!」
「よし! じゃあ大きなエビを買って帰ろうか!」
「うん!」
「じゃあ帰ろう。美琴も香苗も帰ろうね〜」
「はーい」
「ママーつかれたー」
疲れたとくずる香苗と手を繋いでスーパーに寄り、それから私は心を極力落ち着かせて家へと帰った。
疲れ切った子どもたちを寝かしつけてリビングに戻ると健太はソファに座ってスマホを触っていた。モモヨとラインでもしてるのかと思ったけど、私から見える横顔は真顔で嬉しそうな楽しそうな様子は感じられない。
いや、そもそも表情の変わらない健太のことだ。内心では楽しくてもそれが顔に出てないだけかもしれない。
――浮気か……。
どこか他人事だと思っていたけど、寡黙で真面目な健太も普通の男だったと言うことだろう。
私は健太の隣に腰を下ろさず、ダイニングの椅子に腰を下ろした。健太も横目でそれを確認したようだが何も言わない。
だけど聞いておかなきゃいけない事がある。静かに息を吐き出してお腹の底まで息を吸い込むと私は健太に向かって声を出した。
「ねえ、明日のことだけど」
びくりと肩を揺らした健太が「なに?」と答える。
「何時に出るの?」
「なんで?」
「お昼ご飯いるの? 夕飯は?」
「あ、ああ。10時半頃出るから昼はいらない。夜はいる」
「そう」
それからもう一つ確認したいことがある。
「車で、……出るの?」
「なんで?」
質問を質問で返されるとは……。こういう場合何と返せば欲しい答えを相手は言ってくれるのだろうか。しかし言葉を探す間に先に健太が口を開く。
「電車」
「え? あ、そうなの? そう……。私と子どもたち明日は朝から実家に行ってくるから」
「ふうん」
私たちには興味ないとでも言うように健太はまたスマホを触り出す。
そっちがそれなら私だって……。健太から離れて座っているのをいいことに乙女ゲームのアプリを起動させる。私の味方がスマホの中の王子様だなんて……。悲しいけど、でも飛び切りの癒やしをくれる存在なのは確かだ。
――ああシルヴァ王子〜。私の癒やし〜。
『真樹さん待ってた。会いたかったよ』
――私も会いたかった〜。
リアルでもらえない甘い言葉に否応なく頰は緩む。だけどシルヴァ王子に夢中なあまり私はそれに気付かなかったのだ。
スマホに愛しい視線を送る私を、健太がちらりと見ていたなどと言うことを――。
*
翌朝、慌ただしく支度し終わるとすぐに家を出てバスに乗り実家へ子どもたちを連れて行く。
「おはよお、いらっしゃい」
「おはよー、ばあば、じいじ」
「ごめんね、お母さん」
「いいわよ、別に。すぐに出るの?」
「うん」
「そ。子どもたちお昼は適当に食べさせていいんでしょ?」
「はい。お願いします」
軽く頭を下げると母は「はいはい」と言う。
「子どもたちのことは任せなさい。ゆっくりしてきなさいよ」
「うん、ありがとう」
母には大学時代の友達に会って来ると嘘をついてしまった。まさか旦那の浮気現場を押さえにいきますなんて言えないし。
「ママおかいもの?」
「そうだよ香苗。ばあばたちとお留守番しててくれる?」
「うん。おるすばんする。はやくかえってきてね」
「うん。早く帰れるように頑張るね! 行ってきます」
「いってらっしゃい」
香苗の後ろから美琴と陽太も手を振ってくれる。心の中でごめんねと謝りながら実家を出て自宅の近所まで戻った。
自宅の最寄駅に着くと交通ICカードにお金をチャージしておく。どこまで行くか分からないけど、片道1000円もあれば大丈夫だよね、と不安になりながら健太が現れるのを待つ。
昨日確認した時は10時半に家を出るって言ったよね?
多分そろそろ家を出る時間だろう。握り締めた手の中で汗が吹き出し始めている。
……待つこと、5分。
来た――
健太が来た。改札をくぐるのを見てから私は動く。バレない距離を意識して、健太が視認できるぎりぎり後ろを着いていく。1番線に向かう健太に気付かれないよう慎重に歩を進め影に隠れ、電車が来た瞬間、隣の車両に乗り込んだ。
「はあ、はあ……」
ここまでバレてないよね?
張り詰めていた息を吐き出したことで、心臓が飛び出そうなくらい緊張していたことに気付く。
ちらりと健太のいる車両を伺うと、健太は座席に座って本を開いている。
本を開いたということはひと駅で降りず、何駅か乗っているということだろう。私はバレないように時々健太を確認しながら頭上に掲示してある路線図を見る。
そういえば先日、子どもたちを連れて姉ちゃんと美成堂に行った時は5駅先で降りたな――とぼんやり考えているうちに、あっと言う間にその駅に着く。
扉が開く寸前、健太が立ち上がった。
降りるんだ!
私は降りる人たちの後ろに隠れるようにして降車する。幸い健太はこちらを向いておらず、反対側にある階段へ向かっていた。
繁華街に近い駅なだけあって人が多い。私が隠れるにはちょうど良いが、健太を見失ってはここまで来た意味がなくなる。
ここは少し大胆に距離を詰めて尾行するのが得策かもしれないと、改札を出るまで私は健太の後ろ5メートルくらいまで近寄った。
改札を出るとまた少し距離を開け、見失わないぎりぎりの距離を保つ。そして駅を出る手前で健太は足を止めた。そして壁際に背を預けて腕時計を確認している。
どうやらここでモモヨと待ち合わせなのだろう。
私はもう少しだけ離れてモモヨが来るのを待った。
待つこと10分……。
モモヨが現れたのか健太が少しだけ頭を下げる。健太の視線の先――女性の背中が見えた。
「あれがモモヨ?」
健太の前で足を止めたモモヨ。そして何か会話をしているが、もちろん全く聞こえない。
いや、会話なんてどうでもいい。それより、本当に浮気相手が現れたことのショックに頭がガンガンして痛い。
何歳くらいだろう?
猫背の私と違って立ち姿は綺麗。いかにも仕事出来ます風なモモヨに私は敗北を感じてしまいそうだ。
取り敢えず密会の証拠にと、スマホで写真を撮る。出来ればモモヨの顔も一緒に写したいけど、こちらを向かないので仕方ない。
旦那と他の女性が写る写真が私のスマホに収まると、吐き気がしてくる。耐え難い旦那の裏切りに涙が出るが唇を噛み締めて我慢する。
それでも耐え切れずぽろりとこぼれた雫は無造作に指で払い落とした。こんな所で泣いてなんていられない。
健太とモモヨはどこかに向かうのか同じ方向に足を踏み出す。と、その瞬間、モモヨの横顔が見えた。
その横顔は見覚えのあるもので……。いや、見覚えがあるどころではない。私は彼女を知っている。だってあれは、
「姉ちゃん!?」
私の姉、久保田直子だ!
見間違うわけがない。あれは姉ちゃんだ。
モモヨが姉ちゃん?
それともモモヨと姉ちゃんは別?
何にしてもどうして健太と姉ちゃんが待ち合わせしているのかも全く分からないし検討もつかない。
頭に浮かぶのは「不倫」の2文字。
「頭いたい。吐きそう」
でもそんな私にはお構いなしに繁華街へと出て行く健太と姉ちゃん。
「そりゃ姉ちゃんの方が美人だけどさ」
健太は私なんかとお見合いしたくなかったんじゃないだろうか? 姉ちゃんの方が好みのタイプだったのかもしれない。……なんて酷い話しだ。
ぐわんと揺れる頭を2回叩いて自分を叱咤し、頑張って尾行を続ける。二人はどこに向かっているのだろう。時折見える健太の横顔は優しそうに微笑んでいて、私は泣きそうになる。
そんな顔、最近見たことなかったのに……。私の前ではもうそうやって優しく微笑んでくれはしないのだろうか。私たちはもうダメなのだろうか。
ぎりぎり見失わない距離を保っていると、姉ちゃんがある店を指差した。それに健太が頷く。そしてその店に二人は入っていった。
外観は白いお店。近付いてみると、そこは……、高級なアクセサリーショップ。
外からガラス越しに中の様子が見える。
こっそり覗いてすぐに身を引いた。だってそこには二人して楽しそうにショーケースを指差す姿があったから。
金属バットで頭を殴られるような感覚に頭が傾き、膝が曲がる。咄嗟に白い壁に手をついて倒れるのを防いだ。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、おえ、」
姉ちゃんと不倫。不倫相手へ高級アクセサリーのプレゼント。
自然と自分の左手に目が行った。
薬指にはくすんだ結婚指輪がはまっている。手入れをしてないせいで傷つき汚れたシルバーリング。……まるで私だ。
さしずめ店内で大切にショーケースに並べられ光り輝いているのが姉ちゃんだろう。
鞄からハンカチを出して目元をおさえる。
どこの誰とも知らない女との不倫ならこんなに傷つくことはなかったのか分からないけど、健太の相手が姉ちゃんという事実が私を奈落の底に突き落とす。
『何をさせても出来ない真樹』
『初見で出来る優秀な直子』
私と姉ちゃんは正反対。姉ちゃんを越えることは出来ない。それどころか私は姉ちゃんと反対方向を見ているのかもしれない。
プラスへと進む姉ちゃん。
マイナスへと進む私。
姉ちゃんに絶対勝てるわけがないんだ。
ほどなくして二人が出てくる。咄嗟に背中を向ける私の耳に姉ちゃんの声が届いた。
「別のアクセサリー屋さんに行ってみましょ」
ああ、本気でアクセサリーを探しているんだ。
冷やかし程度で入ったわけではないことが伺える。健太も姉ちゃんのためにアクセサリーを買う気でいるのだろう。
荒くなる息をハンカチで押さえ再び二人の後を追うと数軒先の店に吸い込まれた。そこもやはりアクセサリーショップ。
先ほどの店とは違い、重厚感のある店内。それは内装が黒を貴重にしているからそう見えるだけだろうか?
アクセサリーにあまり興味のない私にはそのショップが有名なのかも分からなかった。
まさに私にアクセサリーは豚に真珠。宝石の価値さえ分からない私にはおもちゃのアクセサリーで充分なのだ。
影からひっそり中を覗くとショーケースから何点か指輪とネックレスを出してもらっているようだった。だけどそれがどのようなものかまでは見えない。どんな石があしらわれているのか、何色なのか、どんなデザインなのか……、私には全く分からない。
ただ二人が夫婦のように仲睦まじく肩を並べている後ろ姿だけがくっきり目蓋に焼き付いた。
胃が痛い。吐きたい。泣きたい。叫びたい。
それらを必死に抑える代わりににじんだ涙が頰を伝いアスファルトに染みを作る。
もう帰りたい。もう見たくない。夢だったらどんなにいいか。
この期に及んで目の前の光景を嘘だと思いたい自分に呆れる。
尾行はやめてもう帰ろうかと思った時、二人が店内から出てきた。また別の店に向かうのだろうか?
追う?
追わない?
決め兼ねる内に私と二人の距離が開く。
「ええいっ」
追いかけよう。
だけど距離が開き過ぎた。多分二人は菱越百貨店に入ったのだと思うがしかし確証はない。
菱越百貨店に入ったとして、二人は何階に行ってしまったのか? ここに来た目的はやはりアクセサリーなのだろう。……それなら宝飾品の売場は何階だっただろうか?
二人の姿を探しながらフロア案内図で確認すると、宝飾品売場は2階だった。
「2階か」
エレベーター、エスカレーター、階段。さあ、どれで上に行くべきか。
私が選んだのは階段。エレベーターは混雑していたし、エスカレーターはフロアの真ん中にあるため少し遠い。
階段を使って2階に行く。慎重に周囲を確認して二人の姿を探すが見当たらない。鉢合わせしないように足を進めるが、それでも二人の姿を見つけることは出来なかった。
2階のフロアを一周してみたが二人はいなかった。
「はあぁ〜」
風船から空気が抜けていくように力んでいた力が抜けていく。抜けて萎びた身体はワカメのようにヘナヘナとなる。
「尾行失敗か……」
いや、初めての尾行にしては上手く行ったのかもしれない。上手く行ったせいで健太の不倫相手が姉ちゃんだと知ることが出来たのだ。
だけど、よりにもよって何で姉ちゃんなんだろう……。
このまま溶けてなくなりたい。この世から存在を消してしまいたい。
――なくなりたい。
どこをどう歩いたのかも覚えてないまま私の足は無意識に電車に乗っていた。
「はあ」
車内の雑音に私のため息などは誰の耳に届くこともなく霧散していく。
「はあ」
虚しさに心に穴が空いたような感覚。穴の中で闇が増殖していく。
もう元には戻れない。割れたガラスが元に戻らないのと同じで、私と健太の関係はとっくにひび割れていたのだ。
ひびが入ってることさえ知らずに呑気に生きていた私はなんて滑稽なのだろう。
「馬鹿だな」
不倫や浮気と縁遠い顔しながら、妻の目を欺いて美人と不倫してたなんて……。
しかも姉ちゃん――
二人並ぶ後ろ姿を思い出して頭が揺れる。
頭痛いし、やっぱり吐きそう……。気持ち悪い。
「うぅ――」
「あの? 大丈夫ですか? 顔色悪いですよ?」
ハンカチで口を押さえる私の前に現れたのはブラウンのジャケットを着た男性だった。
顔を上げると男性が首を傾げる。
「あれ? もしかして北島さんの奥さんっすか?」
「?」
奥さん、と聞かれているのだから健太の知り合いだろうか? そして私とも面識のある男性。
歳の頃は私と変わらないか、少し下。
「あ、俺、
「おかやま、さん? ……あ、岡山さん?」
思い出した。健太の部下で、会社の飲み会で上司に呑まされ、酔い潰れた健太を家まで送ってくれた事があった。
「奥さん体調悪いんですよね? ちょっと次の駅で降りましょう」
え? ――そう思う間もなく電車は次の駅のホームに入り止まる。
「さあ」
動けない私の腕を岡山さんは引っ張った。
「そこにベンチがあります。少し座っててください」
穏やかな口調で岡山さんは私の腕を優しく引っ張ってベンチの前まで促すと、どこかへ走っていく。
「ふう」
こんな所で知り合いに出会うなんて最悪だ。顔だって最悪。誰にも会いたくない時に限ってどうして健太の部下に……
――健太の部下?
違う意味でまた心臓が慌ただしく動き出す。
――健太の部下ならモモヨのこと知ってるかな?
「奥さん水です。どうぞ飲んでください」
戻ってきた岡山さんが私の目の前にペットボトルを差し出す。それを、ありがとう、と言いながら受け取るのだが、手に力が入らなくて蓋が開かない。
「貸してください」
「え?」
私の手の中にあったペットボトルはあっという間に岡山さんの手の中に戻る。岡山さんの手によって蓋は簡単に開いた。
私が開けられなかったものを、人は簡単に開けてしまう。私には難しい問題も、みんなは難なく解いてしまう。
ああ、私は本当に何も出来ない……。
「どうぞ?」
「ありがとう、ございます……」
ひとくち、そっと口に含むとただの水なのに鉛のように重たくなる。必死の思いで飲み込むと喉が痛くなった。
「あの、岡山さん……」
「はい?」
私は一度息を吸って深く吐き出すと手元にあるペットボトルを見つめたまま岡山さんにそれを尋ねた。
「あの……」
「はい」
「会社に……」
「はい」
私の質問が途切れる度に岡山さんは頷いて聞いている。岡山さんの『はい』を聞く毎に私の鼓動は強く早くなる。
そして意を決して質問を口から吐き出した。
「モモヨさんて方いらっしゃいますか?」
「ああ〜。ええ、いますよ」
返ってきた答えにやはりと思う。
――いた。やっぱり会社にいた!!
「今北島さんと同じプロジェクトで、……あっ俺も同じプロジェクトチームなんすけどね」
「プロジェクト?」
「ええ。……あれ? 聞いてません? リーダーがモモヨさんで、サブが北島さんなんです」
そんなの聞いてない。初耳だ。
「仕事が出来る方なんですね?」
「そりゃもうバリバリっすよ! 俺もチームに選ばれたって言っても下っ端で、着いていくので精一杯ですけどね、凄いですよモモヨさんと北島さんは」
モモヨはプロジェクトリーダーで、仕事がバリバリ出来るキャリアウーマン。
出来損ないの私が勝てる訳がない。
「岡山さん、……あの今日私と会ったことは主人には内緒にしてくれませんか?」
「内緒ですか? まあ、いいですけど?」
「あ、あとお水ありがとうございます。お幾らでしたか?」
鞄から財布を出すが岡山さんの右手に制された。
「これくらいいいっす! いつも北島さんにはお世話になってますんで!! あ、俺は次の電車に乗りますが奥さんはどうされます?」
「私はもう少し休んでから帰ります。ありがとうございます」
「まだ顔色良くないですけど、さっきよりはマシですかね? あんま無理しないでください。じゃあ電車来たんで失礼します」
「はい。ありがとうございました」
ベンチに座ったまま頭を下げると岡山さんは爽やかな笑顔を見せて電車に乗った。
無口な健太と違って愛想が良く、感情表現を顔に出すタイプの岡山さん。岡山さんみたいな明るい人と結婚していれば何か違っていただろうか?
分からない。分かるのは今さら『タラレバ』を言っても仕方がないということだけ。
大きなため息を吐くとペットボトルに口をつける。大きく傾けごくごくごくと流し込む。心にある闇を流してしまえたらいいのにと、そう願いながら……。
「ただいま」
実家の玄関を開けるとすぐに子どもたちが飛び出してきた。
「ママっ!」
「ママ〜おかえり〜」
「おかえり〜」
子どもたちの天使のような笑顔に涙ぐむ。
「あら、早かったじゃない? ってどうしたの? 顔が真っ青よ?」
「うん、体調悪くなっちゃって帰ってきた」
「横になる?」
「うん、そうしようかな」
「ママいたいの?」
「うん、ごめんね」
「じゃあカナエがいたいのとんでけーしたげるね?」
そう言って香苗が小さな手を二つ私の頬に当てる。
「いたいのいたいのとんでけー」
ぱっと手を上に上げた香苗は私の顔を伺っている。
「なおった?」
「うん、ありがと香苗」
「まだいたいの?」
「うん、ごめんね香苗」
小さな身体をぎゅうっと抱きしめると香苗もぎゅうっと抱き着いてくれる。子ども特有の可愛い匂いが荒んだ心に染み渡っていくよう。
子どもたちだけは絶対誰にも渡さない。
「真樹、ほらお布団敷いてあげたから少し横になりなさい。あっ、あと夜ごはんもウチで食べて帰ったらいいから。健太さん家にいるの? こっちに呼んであげようか? 夕飯用意してないんでしょ? それにそんな状態で子ども連れて帰れないでしょ。迎えに来てもらえばいいじゃない。そうしましょ、そうしましょ」
お母さんごめん。健太は姉ちゃんと不倫真っ最中です――なんて言えなくて小さくごめんと謝る。
それをお母さんは先ほどの質問の肯定だと受け取ったようで「じゃあ健太さんに連絡しとくわね」と言ってリビングに行ってしまう。
夜には健太が来る。
どんな顔をして実家に来るのだろう。
いや健太の顔色なんていつもと変わらないんだろうな。いつもの仏頂面で、何考えてるのか全然分からない顔。
欺いている妻の両親を前にしても少しも表情は変わらないのだろう。あの顔の下で健太は何を思っているのだろう。
バカな女と嘲笑っているのだろうか?
見下しているのだろうか?
あいつは、私たちの前でいつも何を考えているのだろうか?
実家の和室で横になっていると、どうしても色々な事を考えてしまっていけない。健太の浮気について憶測とこの目で見たことが頭から離れず、姉ちゃんと仲睦まじく並ぶ姿が脳裡をよぎる。
気分の優れないまま時間だけは嫌でも過ぎていく。障子越しに見える外の色はオレンジからすっかり深い闇色に変わっていた。
玄関の方で音がする。
来たのだろう、健太が。出迎えたお母さんの声が廊下に反響して和室まで届く。
「寝てるみたいよ、ま、大丈夫だと思うんだけどね。ごめんなさいね、いっつもいっつも」
「いえ」
二人の声が近づいてくる。
「ここで寝てるけど様子見る?」
「はい」
「私は向こうにいるから」
「ありがとうございます」
お母さんのパタパタとした足音の後に健太の低い声が襖に掛けられる。
「おい、入るぞ」
私はそれに何も返答せず襖に背を向けた。心の中はまだぐちゃぐちゃなのに、それをどうして立て直す前に健太に会えるというのだろう。
だけど健太はそんな私の心なんて知るはずもなく勝手に襖を開けてズカズカ入ってきた。
「寝てるのか?」
話しをしたくなくて目を閉じて無視する。
「はあ」
――ため息っ!?!?
大きなため息を吐きたいのは私の方なんですけど。
私が寝てると思ったのか健太は無言で和室を出て行った。多分子どもたちがいるリビングに行ったのだろう。
それからまた少しして夕飯が出来たとお母さんが呼びに来てくれた。せっかく作ってくれたのに悪いけど食べ物が喉を通る気がしない。
「ごめん食べれそうにないかも」
「そう? 気分が悪いんだから仕方ないけど、少しでも食べれそうならこっちに来なさいよ?」
「うん」
「りんごがあるけど剥いてあげようか?」
「ごめん、いらない」
「そう。それならもうちょっと休んでなさい、ね?」
「うん、ありがとう」
私の引きつった笑顔にお母さんは苦笑しながら襖を閉めた。
――お母さんごめんね。私どこかで何か間違えたみたいだよ。ごめんね、いつも何も出来なくて。ごめんね、お母さん。
枕に落ちた涙が染みていく。一つ流れたらあとはもうポロポロと流れるだけで、しばらくは拭きもしないで流れるに任せて枕を濡らした。
真樹、そう私の名前を呼びながら再び現れた母は紙袋を持っていた。
「みんなご飯食べ終わったわよ。それからね、おかず余ったから持って帰んなさい。炊き込みご飯はおむすびにしてラップしてるから、すぐに食べないなら冷凍庫に入れときなさいね」
受け取った紙袋を覗き込むとタッパーが四つある。三つがおかずで、あと一つはおむすびが詰まっているのだろう。
「ありがとう」
「子どもたちは帰り支度させてるからね。真樹も今だけ頑張ってしゃんとして、家に帰ってからゆっくり寝なさいよ?」
「うん」
本当はあの家にも帰りたくない。だけど子どもたちの事を考えればそう言えるはずもなく、しぶしぶのように帰り支度をする。と言っても鞄を持つくらいしかなく、布団をあげようとしたらお母さんに「そのままでいいから」と言われてしまった。
「ごめんねお母さん」
「そこはありがとうでしょ? ちゃんとお礼を言いなさい。健太さんにも迎えに来てくれてありがとうって言うのよ? 何でも当たり前にしちゃダメよ? 分かってるの真樹?」
健太に関しては、今日だけはどうしても受け入れられない。でもここは分かったフリをしておかないといけない場面だ。
「分かってます。ありがとう。今日は朝から一日お世話になりました。ありがとうございました」
「いいのよ、いつでも子どもたち見てあげるから」
「うん、ありがとう」
軽く頭を下げていると、陽太がこちらに来る。
「ママ〜かえるって〜」
「うん、帰ろうね。明日学校だもんね」
「ばあば、バイバイ」
「はい。バイバイ。また遊びに来てね!」
「うん、またくるね〜」
陽太がお母さんに手を振っていると今度は健太がこっちに来る。
「荷物」
健太が私の手に触れそうになる――
――やめて!!
咄嗟に引っ込めた鞄が勢いよく壁にぶつかった。
「どうした?」
無表情で首を傾げる健太。
どうした、って聞きたいのは私の方なのに……。
「なに?」
「荷物車に運ぶけど」
「そんなこと、……いつもしないじゃない」
感情的になりそうな声音を必死に抑えると声が震えそうになる。荷物なんていつも私に任せて何も手伝ったりしないのに……。
「ああ」
「自分で持てるから」
「そうか」
「トイレ行って来るから」
逃げるようにトイレに入り、深呼吸して気持ちを落ち着ける。トイレから出るとみんなは玄関にいた。お礼を言って実家を出る。
あとは車で帰るだけ。何も喋りたくなくて窓の外を向く。子どもたちが今日は何をした、何が楽しかったと話すのを聞きながら、時折相槌だけは返した。
*
「おはよう真樹さん」
「あぁ、千春さん」
子どもたちを幼稚園に預けたその帰り、後ろから千春さんに声を掛けられる。
「なんかすっごく顔色悪いみたいだけど大丈夫?」
「うん……」
「真樹さん?」
「うん……」
「大丈夫?」
「……千春さん、あの」
「なに?」
自分の自転車の鍵を解錠しながらまわりに誰もいない事を確認する。
「あ、えっと、その……、千春さんの旦那さんの浮気どうなったかなって」
「証拠集め中。でも用心してるのかなかなか証拠が出て来ないのよね。それでね、悲しいやら悔しいやら色んな感情が爆発しそうで、先日勢いだけで離婚届もらってきた」
そういう千春さんはイタズラでもするみたいな顔をする。
「離婚届!?」
「旦那には内緒だけどね、私の所は全部書いてやったわ。そしたらね、ちょっとだけスッキリした。こっちはいつでも離婚してやるんだから、って気持ちでいると、旦那の事ATMだと思えるようになるし」
「ATM?」
「仕事してお金稼いできてくれるだけって意味よ。ATMだと思えば他の機能は要らないでしょ? 夫としての役割も父親としての役割も求めなければ前よりずっと楽だよ……。ごめんね、こんな話しして」
「ううん、聞いたのは私だから」
「あのねもう一つ言うとね、離婚届は私にとってお守りみたいなものなの。精神安定剤みたいな……。だから旦那の浮気を許せたら離婚届は捨てるし、許せなかったら、……使うことになるんだけどね。今は、本当は使わないで解決したいなって思ってるんだよ」
「偉いね千春さん」
「偉くなんてないよ」
千春さんは自転車を押しながら首を横に振った。
離婚届はお守り――そう千春さんの言葉を聞いて私もそのお守りが欲しくなった。いつもの私なら絶対欲しいなんて思わないだろうけど、この時ばかりは精神的に相当参っていたのだと思う。
薬局で頭痛に効く頭痛薬を求めるような自然さで、区役所で離婚届をもらっていた。
自分でもどうかしてると思う。離婚なんて縁がないと思ってたのは、私が世間知らずのバカだからだろうか?
両親のように時折ケンカしながらでも仲直りして仲睦まじく歳を重ねるのだと思っていたのは幻想だ。自分たちの現実はケンカもしない、言いたい事も言わない、お互いにあまり干渉し合わない、そんな上辺だけの夫婦。
夫の方はだいぶ前から私に冷めていたのだろう。いや、もしかしたら最初から冷めていたのかもしれない。
それでも――
それでも――
私はまだ健太の事が好きなのだろう。離婚届をもらって分かったのは健太と別れたくはないということ。
不倫現場を目撃してもなお、別れたくないと思うなんて……。未練がましいと言われても仕方ない。
別れたくないなら浮気の証拠も集めず、これまで通り知らないフリをして、家族ごっこを続けた方がいいのだろうか?
それが私に出来るだろうか?
真っ白なままの離婚届は健太にバレないようにキッチンに隠す。どこに隠すのがいいか悩んだが、料理をしない健太が触らないのはキッチンの戸棚しかない。飾る花もないまま仕舞いっぱなしの使わない花瓶の横がちょうど良さそうだ。
クリアファイルに、要らなくなった先月の学校だよりと一緒にいれた。
離婚届はお守り。それだけ。
捨てようかと思ったけど、捨てるならいつでも捨てれるし。それよりもう一度もらいに行くほうが恥ずかしい。
そうやって色んな言い訳をしながら隠して、そわそわしながら熱いコーヒーを淹れる。だけどなんだか胃の辺りが痛くて、コーヒーは飲めなくて、そのうちすっかり冷めてしまったコーヒーはシンクに流れていった。
「ごめんね、飲めなくて」
蛇口から水を出して茶色の液体をキレイに流す。あっと言う間に何もなかったみたいになって、ちょっとだけいいなぁと思った。
私の記憶もキレイに流れたらいいのに。何も知らず呑気に暮らしていた頃は、そう遠くない。たかだかこのひと月にも満たない間に綻びを見つけ、その穴を大きくしたのは私だ。
バカな私は綻びを繕うことが出来ないんだ。ただ大きくなるのを見てるだけ。その綻びを器用に繕ったのは何でも出来る姉ちゃんか、はたまた仕事の出来るモモヨか、それは分からないけど。
私じゃないことだけは確かだ。
ここ最近ずっと遅く帰って来ていた健太が子どもたちが起きているうちに帰ってきた。
「パパおかえり〜」
「おかえりなさい〜」
喜ぶ子どもたちとは反対に私の頬は引きつる。
――どうして昨日の今日でこんなに早く帰ってくるの? いつものように寝静まった頃に帰って来てくれれば顔も見なくて済んだのに……。
健太が早く帰ってくるのが珍しいのか子どもたちはまだ喜んでいる。私はその間に夕飯を温め直して食卓に並べた。
「そろそろ寝るよ〜、ハミガキした〜?」
私の呼び掛けに、してなーい、と言いながら子どもたちが健太から離れ洗面所に向かう。
「寝るのか?」
「うん」
「そうか。……あ、……いや、……いただきます」
私はそこに一秒でもいたくなくて、逃げるように洗面所に向かう。
「はいはい、香苗お口見せて?」
「あーん」
「はい。じゃあお膝にごろんして」
「あーい」
正座する私の膝に香苗の頭をのせ、仕上げ磨きをする。順番に美琴、それから磨き残しがないか陽太のチェックをして子ども部屋に向かった。
陽太は一人で自分の部屋で寝る。美琴と香苗はもう一つの部屋。布団を敷いて二人を寝かせ、私は絵本をもってその横に転がった。
「ママきょうのおはなしはなぁに?」
「きょうはね、シンデレラだよ」
プリンセスのお話が好きな二人は目を輝かせてお話が始まるのを待つ。お姫さま、王子さま、女の子の憧れや夢が詰まった物語。リアルにそんな王子さまなんていないと気付くのはもう少し成長してからだろうけど。
だけどどうか二人には自分だけを愛してくれる自分だけの王子さまに出会って欲しいと切に願う。
ママみたいな惨めな思いをする女にはならないで欲しいと思いながら、物語のシンデレラは王子さまに寄り添い幸せな笑顔を浮かべていた。
健太とは特に会話もない。それは前からのこと。前は私が一方的に話し掛けていたに過ぎないのだ。
私が一方的に話すのは会話とは言わないだろう。だから話し掛けるのはやめた。
――だって話したくないし。
健太はソファに座りテレビを見たりスマホを触ったりしている。その左側が私の定位置だったのに、今ではダイニングの椅子が私の定位置だ。
私はそこでシルヴァ王子との物語を進め、癒やしをもらう。キリのいい所で終わると私は立ち上がった。
「寝るのか?」
テレビを見ていた健太の視線がこちらに向いた。
「寝る」
「そうか」
そう言って健太はテレビを消す。それに私は過剰に反応してしまう。
「もしかして寝るの!?」
「ああ。たまには早く……」
時刻はまだ今日。明日になるまではもう数十分ある。
「はあ」
嫌だな。同じ寝室。同じベッド。同じ布団。
別の布団がいいな。
別のベッドがいいな。
別の部屋にしたいな。
そう考えても今日の今日では無理な話しで、嫌な気分を吐き出すようにもう一つため息をついた。
「おやすみ」
「おやすみ」
ベッドの端ぎりぎり。少しでも離れたくて端に寄って寝る。
「お前落ちないか?」
「うん」
これ以上話しもしたくなくて、健太に背中を向けるが健太はなぜか今日に限って話し掛けてくる。
「なあ。あのさ……」
「……」
うるさいなぁ、なんて思いながらもちゃんと聞いてる私は偉いよね?
「次の土曜日の予定ってないよな?」
「なんで?」
「いや、その……」
「カレンダーに書いてあるけど」
「ああ」
カレンダーにちゃんと予定を書いてある。カレンダーを見てから聞いてくれればいいのに、どうして先にカレンダーを確認してくれないのだろう。
「予定ある?」
「だから書いてあるよ」
「そうか」
カレンダーには陽太のサッカースクールが隣町の小学校であると書いている。子どものことに関心がない証拠だろうか?
その時、ほっとしたような吐息を後ろで感じた。もしかしてしきりに予定を確認してたのは……
――土曜は予定がある妻子を放って不倫するため!?
私のことは良いけど、……やっぱり良くないけど、でも子どもたちのことは愛してあげて欲しいと思う。
二人の子どもなのに、健太は子育てに積極的ではない。もしかして私が産んだ子どもだから別にどうでもいいのだろうか。そうだったら本当に悲しい。
子育てに非協力的な健太だけど、子どもたちへの愛は失わないで欲しい。
*
そして土曜日。
一人慌ただしく準備をして子ども三人を連れて家を出た。健太はまだ寝ている。この後はモモヨか姉ちゃんとの不倫だろう。もう尾行する気にもなれない。
隣町の小学校までバスで行くつもりだったのだが、同じスクールで近所に住んでいるママさんが車に乗せてくれると言ってくれたのでご好意に甘えた。
秋も深まりグラウンドの周りにあるイチョウが黄色い葉を少しずつ落としていた。
いつものように端で小さな折りたたみ椅子を二脚出す。しかし美琴と香苗は椅子に座らず大きなイチョウの葉を探し始めた。
「ママみて、おっきぃ〜」
香苗が自分の手よりも大きな葉をこぼれんばかりの笑顔で見せてくれる。――私の大好きな笑顔。
香苗も美琴も陽太も、みんなみんな可愛いくて大好き。少しもその笑顔を崩したくはない。壊したくない。
たとえ夫婦関係が冷え切っても、離婚だけは阻止しよう。不倫の一つや二つ、許せる妻になろう。何も知らない妻を演じよう。
私はあの人の妻である前に、この子たちの母だから。母親としてしっかりしなくちゃいけない。
出来ないばかりの母親ではいられないんだ。
陽太のサッカーはお昼休みを挟んで午後の練習が始まる。だけど晴れていた空は急に暗い色を落としてきた。
「雨降るかしらね?」
「通り雨ならいいけど」
他のママたちも空を見上げて天気を気にしている。しかしすぐにそれは落ちてきた。
ぽつりとひと雫、落ちてきたのを合図にして重い雨が肌を濡らしていく。
「ママあめ〜」
「香苗、美琴おいで」
二人の手を引っ張って校舎の中へ避難。スクールのこどもたちも、ギャーギャーいいながら屋根の下へ入っている。
乾いていたグラウンドは一瞬にしてどろどろになっていた。
スマホで雨雲レーダーを見ていたママ友が「やまないみたいよ」と教えてくれる。
「中止かな?」
「どうかな? 監督とコーチが話し合ってるみたいだけど」
そちらに視線をやると、参った参った、といった様子で監督が頭をガシガシかいていた。
「はい、集合!」
コーチの呼び掛けにこどもたちが集まる。ママさんたちも激しい雨音にコーチの声が聞こえず、こどもたちの後ろに集合した。
「あ、お母さんたちもすみません! 今日は降っても小雨だと思ってたんですけどね。ちょっとこれ以上降られるとこどもたちも怪我をしかねませんので今日の練習はこれで終わりにしたいと思います。えっと、みんなもお家の人がいる人は解散です。いない人はコーチの所に来てください。分かりましたか?」
「「はいっ!」」
「それじゃあ挨拶します。ありがとうございましたっ!」
「「ありがとうございましたっ!!」」
元気な声に合わせてママたちも頭を下げる。
「ママおわったの?」
「そうだよ雨降ってるからね」
「ママー」
「お疲れ陽太」
「今日はもうおわりだって」
「うん、そうだね」
タオルを出して陽太の濡れた頭を拭く。
「早くおわったね! おウチ帰ったらパパびっくりするかな? 雨だから早くおわったんだよっておしえてあげよ〜」
「パパは……」
「ん? なに?」
健太は、家にいないんじゃないかな? だって今頃モモヨか姉ちゃんと不倫してるはずだし。
「はあ」
「ママ?」
「何でもないよ。帰ろうか」
朝来る時に車に乗せてくれたママさんが「雨だから帰りもどうぞ」と言ってくれた。こんな雨の日こそ迎えに来てくれればいいのに、と思う。
だけど健太は家族のことを顧みず不倫する旦那なのだ。
家まで送ってくれたママさんにお礼を言って車が見えなくなるまでみんなで手を振った。
玄関の前で鍵を出す。鍵をさして解錠の方向にまわ……、回らない?
「あれ?」
反対だったかな、と思いながら逆に鍵を回すと鍵が掛かる感触がした。ということは最初から鍵は開いていたということ。
それはつまり健太が締め忘れて家を出て行ったということだろう。
「はあ」
盛大なため息をつき、泥棒だけは入ってないで欲しいなと願う。しかし玄関扉を開けると……
そこには見知らぬ靴があった。
それは女性もののハイヒールで――
「ひっ」
見知らぬハイヒールを見た私の口から恐怖の声が漏れる。
「ただいまー」
「待って!!」
何も分からないこどもたちが玄関に足を踏み入れるのを慌てて遮る。
ハイヒール――
ハイヒールで泥棒はいないだろうけど。いないだろうけど、泥棒のほうがまだ良かったかもしれない。
だってこれはどう考えてみても不倫相手の靴でしょ?
――まさか家で? 家で!? この家で密会!?
馬鹿じゃないのっ!!
「ママおうちはいらないの?」
美琴の言葉に入れるわけないと私は扉を閉めようとしたのだが、その時中から「帰って来たみたい〜」なんて言う女の声を聞いてしまった。それは姉ちゃんの声じゃない。
――悟った。
モモヨだ。きっとモモヨだ。
扉が閉まる。
「ママ、だれかいたよ?」
「おきゃくさんかな?」
陽太と美琴の声を聞きながら私の頬は引きつる。こどもたちに何て説明すればいいわけ?
パパの不倫相手なんて言ってもこどもたちに伝わるはずがない。だからと言って「パパの好きな人なんだよ」なんて、まさか言えるわけないし……。
もうっ、どうしたらいいのよっ!!!
馬鹿じゃないのっ!!
馬鹿じゃないのっ!!
ほんっとうに馬鹿じゃないのっ!!!
だけど玄関前で立ち尽くしてる訳にもいかず……。
こどもたちだって雨に濡れて身体が冷えているから早くお風呂に入れてあげたい。なのに、なんで、どうして、密会場所がここなのよっ!!
どうしよう。今から実家に行く?
あれこれ考えていると玄関扉が開いた。伺うように出て来たのは健太だった。
「17時までじゃなかったのか?」
しかも悪びれた風もなく、むしろ早く帰ってきたお前が悪いとでも言いたげな口調に腹が立つ。
「雨が降ったから!」
「パパただいまー」
「おかえり。早かったな」
「うん、そうなの。雨がすっごいたくさんふってね、終わりになったんだよ」
「そうか……」
そう言って健太はこどもたちを中に入れようとする。
「ちょっと待って」
私はハイヒールを指差して「誰かいるんでしょ」と睨む。
「はあ。分かってるし」
「なにが?」
理解出来ない。何が分かってるの? こっちだって不倫してるの
「っていうかお前も
「アレってなに?」
「あのぉ〜お取り込み中すみません〜」
健太の後ろから背の高い女が出てくる。
「
――出たわね、モモヨ!
私ゼッタイ負けない! こどもも渡さない!!
「ほら取り敢えず中に入れよ。陽太たちもおいで」
「ダメっ!! こどもたちは、ダメなんだから」
「はあ? お前ほんと意味分かんね。モモヨさんこどもたちのことお願いします」
「はーい」
健太の手が私の手首を掴んで引っ張る。
「ヤダってば、離して!
「お前いい加減にしろよっ!!」
普段無口な健太がキレた。モモヨが後ろで「北島くんにも怒りの感情あったのね」なんて言ってるけど、健太の何を知ってるのよ、うるさい。
手首を掴む健太の手の力が強まる。
「痛っ」
痛みに顔を歪めた私を見て健太の力がゆるんだ。
「なんだよ、ほんと……」
泣きたいのは私なのに、どうしてか健太のほうが泣きそうな表情をしている。健太は私の手首を離すと一人静かにリビングへ行った。
「ママ? パパ?」
私たちがケンカする所さえ見たことのないこどもたちが状況を飲み込めず、ポカンとしている。
「ごめんね、取り敢えずお家に入ろうか」
「うん」
「ただいまー」
私は後ろに立つ背の高いモモヨを無視してこどもたちを家へと入れた。
リビングへ行くと部屋の様子が違うことにすぐに気付く。昼ごはんの残り香だろう匂いがすぐに鼻につき、視線はダイニングテーブルに向かう。そこにはこぼれんばかりのピンクの花が花瓶に飾ってあって……、というか花瓶!?
「花瓶どこから出したの!?」
花瓶は確か戸棚に仕舞っていたはず。そしてその戸棚には離婚届を隠しているのだ。カモフラージュに小学校のプリントを挟んでいるから多分見つかってはいないだろうけど、心臓がばくばくと大きく鳴っていた。しかし、
「これ何だよ?」
健太の手にあったのはその離婚届。
「そっ、それは……」
「お前に好きなやつがいるのは知ってるけど」
「は? 待って何のこと? 好きな人がいるのは私じゃなくて健太の方でしょ? しかもご丁寧に家に連れ込んで」
「はっ? お前こそさっきから訳分かんねえこと言ってんじゃねえよ」
「訳分かんないことないでしょ、いるじゃんモモヨっ!!」
「モモヨさん何の関係があんだよ?」
「ストーーーップ!!」
そこにモモヨが乱入してくる。関係ないやつは引っ込んでて、と思ったけどモモヨがこどもたちを指差した。
「お子さんたちびっくりしてますよ?」
「あ、ごめん。ごめんね」
「ママ、パパ、ケンカしちゃダメなんだよ?」
いつもこどもたちに「ケンカしないの」と言ってる言葉がそのまま自分に返ってくる。
「ひとまず北島くんも奥さんも落ち着きましょ? 北島くんにも離婚届は何かの間違いだって言ったんですけどね」
どうして健太の不倫相手に諭されているのだろう私は?
こどもたちにはおやつを出しテレビをつけ、「ちょっとだけ待っててね」と言い健太の前に戻る。ダイニングの椅子に向かい合って座り、お誕生席にモモヨを座らせる。その時モモヨからふわりとしたフローラルの香りが流れてきた。
これは、あれだ。あの時車で感じた匂いと同じ。
そして改めてまじまじとモモヨを見る。健太と同じくらいの背丈にツヤツヤの黒髪は胸の辺りまである。膝丈のタイトスカートから見える脚は細くてモデルみたいだ。
「はじめまして、モモヨです」
「はあ」
「アタシのことご存知だったんですね!」
「はい、いや、あの、えっと……健太と同じプロジェクトのリーダーなんですよね?」