ハーメンリンナの南区と北区は、かつてないほど騒然となっていた。
南区には軍関係施設があり、北区は行政関係の施設がある。それぞれの職に就く人々は、あるニュースで大パニックに陥っていた。
宰相マルックから緊急発表された内容が、あまりにも突然であり、皇国を根底からひっくり返すほどのものだからだ。
副宰相ベルトルドの、退任の報である。
宰相以上に権限を有していた、事実上の国政の長であり、副宰相・軍総帥を兼任するベルトルドが、全ての職を辞したという。
ハワドウレ皇国という大国を、一身に背負っていた立場にあった。それが前触れもなく突然、辞めたというのだ。
国政に携わる者たちからしてみたら、青天の霹靂である。
各省の大臣を始め、事務官や主だった役人が宰相府に殺到し、各部隊の大将、特殊部隊の長官たちも総帥本部に殺到した。
「あらかじめ、閣下からはお話を伺っていました」
重厚なデスクの前に座るブルーベル将軍は、いつもの好々爺の笑みを浮かべて穏やかに言った。
早朝から出仕し、自らの執務室でこの事態を待ち構えていた。そして宰相マルックの発表で、予想通りに大将たちが血相を変えて駆け込んできた。想定済みの事態ゆえ、ブルーベル将軍は落ち着いている。
「それと、これも後々発表されると思いますが、魔法部隊長官のアルカネット卿も、本日付で辞職しています」
「なんと……」
ダエヴァ第三部隊のカッレ長官は、酢を飲んだような顔で言葉を詰まらせた。
特殊部隊の中でもダエヴァは、ベルトルドとアルカネットとは密な関係にあった。それなのに、辞職についてなにも知らされていなかったことは、3長官たちの自尊心を些か傷つけたようだ。
それを十分汲んだうえで、ブルーベル将軍は頷いた。そして、ゆっくりとした動作で立ち上がる。
「閣下とアルカネット卿の辞職の理由については、詳しくはお教え出来ませんが、皆様には早急に取り掛かってもらわなければならない、重大な任務を言付かっています。これが、私を含め、閣下から軍に与えられた、最後の命令です」
ベルトルド退任の報は、ハーメンリンナの外にもくまなく知れ渡っていた。
号外新聞にはベルトルド退任の速報記事が掲載され、大きな街から小さな辺境の村々にまでばらまかれた。そして惑星ヒイシに留まらず、惑星タピオ、惑星ペッコにも話は広がっていった。
そしてここライオン傭兵団でも、この事態を深刻に受け止めていた。
「おっどろいたな……、おっさん、辞めちまったとか」
新聞を広げながら、ザカリーは眉をひそめた。一面ベルトルドの写真がデカデカと載り、あらゆる憶測情報や発表内容が記されていた。
「オレらどーなっちゃうの? カーティス」
ザカリーの広げる新聞を覗き込みながら、ルーファスが不安げに問いかけた。
「事前になにも聞いていませんでしたし、かりにも我々の後ろ盾ですからねえ……」
ベルトルドから解放されることは、ライオン傭兵団全員の悲願だった。しかし、副宰相を辞めたベルトルドが、今後どう関わってくるのだろうか。以前のように、情報の横流しや資金提供などは困難になってくるだろう。
それが不安となって、皆の心に押し寄せていた。
「公式にはまだ発表されていないが、アルカネットの野郎も辞めたらしいぞ」
タバコをふかしながら、ギャリーが食堂にいる皆を見渡した。ハーメンリンナにいる旧同僚達から、速攻連絡が飛んできたらしい。
「なんか、不気味ですねえ……」
シビルは尻尾を揺らしながら、神妙に腕を組んだ。
このところベルトルドとアルカネットが、内容までは知らないが、秘密裏に動いていることだけは知っている。つい先日のエルアーラ遺跡のこともあるし、なにやらきな臭い。それに、子飼い同然のライオン傭兵団になにも報せず、いきなり副宰相職を辞任しているのも妙だ。せめてカーティスには、一報くらい寄越してもよかったのではないか。
朝食を終えて食後のお茶を囲みながら、皆がそれぞれ考え込んでいたところに、メルヴィンが食堂へ入ってきた。
「キューリさんの様子はどうですか?」
メルヴィンに気づいたカーティスが声をかけると、どこか憤懣やるかたない様子でメルヴィンは首を横に振った。
「なに怒ってるんだ? キューリと喧嘩でもしたのか」
ギャリーが首をかしげると、
「いえ、ただ……」
言いよどみ、少し間を置いてメルヴィンは口を開いた。
「オレが触れると、怯えたように怖がるんです。抱き寄せようとすると、身を固くして、ひどく緊張している様子で。口の端も切ってましたし。――考えたくはないんですが、ベルトルド邸で、なにかされたんじゃないかと、思ってます」
メルヴィンを怖がっているんじゃなく、男というものを怖がっている様子だという。
――いやっ!
――ごめんねメルヴィン……ごめんなさい……。
先ほどのキュッリッキの様子を思い出し、胸が痛む。
「それっておめえ……」
ギャリーは渋い表情を浮かべて唸る。
「御大たちに限って、と、言い切れないものはあるけどなあ……だがよ…」
あれだけ溺愛していれば、考えられないことはない。だが、2人がキュッリッキへ向ける愛情は、恋しい女へのというより、父親のようなものだった。
慈しみながら、可愛くて可愛くて仕方がないというほどに。傍から見ていてそう見えるくらいだ。それがいきなり、女と認識を改め、手を出したとでもいうのだろうか。
倦怠期にはまだ程遠い関係なのに、メルヴィンを急に怖がるというのは解せない。
床をじっと睨みつけていたメルヴィンは、顔を上げず口を開いた。
「マリオンさん、リッキーのそばについていてもらえませんか」
「おっけぇ~、まかせてん」
マリオンは神妙に頷くと、メルヴィンの肩を軽く叩いて食堂を出て行った。
「――オレ、ちょっと確かめてきます」
思いつめたような
「やべ、オレらもついていく。タルコット一緒にこい」
「うん」
ギャリーとタルコットは、慌ててメルヴィンのあとを追った。
一見穏やかで喧嘩とは無縁そうなメルヴィンだが、実は傭兵団一の要注意人物でもある。根が真面目なので、怒らせるとその反動が凄いのだ。
魔法や
しかしメルヴィンには爪竜刀がある。魔剣の類で、アサシンの行動を感知したり、魔法や
そんなメルヴィンを止めることができるのは、戦闘
「早とちりかもしんねえから、あんま思いつめんな、メルヴィン」
追いついたギャリーはそう言うが、メルヴィンは表情を固くしたまま歩調を早めて、ハーメンリンナに向かった。
* * *
「調子はどぉ~お~? キューリちゃ~ん」
ノックとともに部屋へ入ってきたのがマリオンと判り、キュッリッキは小さく安堵のため息をついた。そして、安堵したことに軽くショックを受けて顔を俯かせた。メルヴィンが来たのかと、そう思ってしまったのだ。
「膝がまだ痛む、かな…」
ベッドに半身を起こして座っていたキュッリッキは、シーツの上からそっと右足の膝に触れる。
先ほどメルヴィンに湿布を変えてもらい、包帯を巻き直してもらった。
キュッリッキを労わり気遣いながら、優しく丁寧に巻いてくれた。それなのに、キュッリッキは酷い拷問を受けていたような気持ちに包まれていた。そんな気持ちになってしまったことで、どこか後ろめたい気持ちが苦く心に広がっている。
「あのね、メルヴィン……その、怒ってた?」
横に座ったマリオンの顔を見ないように、キュッリッキはぽつりと言った。
その様子を見て、マリオンは即答しなかった。わざとらしく「ん~」と頬に片手をあてて考え込む。
「怒ってたようなぁ~、そうでもないよぅなぁ」
キュッリッキはマリオンの顔を見て、そして俯く。
包帯を巻き終えたメルヴィンが、抱きしめようと手を伸ばしたとき、激しく嫌がってしまったのだ。あの時の驚いたメルヴィンの顔が忘れられない。
大好きなメルヴィンの手を、あんなに怖くなって拒絶してしまった。そんなふうに思う自分が信じられなかった。
無言で部屋を出て行ったメルヴィン。きっと、怒ったに違いないと、キュッリッキの心は不安でいっぱいになっていた。
2人共無言になり、沈黙が暫く続いた。
「……目が覚めたらアタシの部屋で、隣に、メルヴィンいたの」
シーツを掴む手の甲を見つめながら、キュッリッキは抑えたように話し出した。
「メルヴィンいた、帰ってきた、って、凄く嬉しかったの。でもね……メルヴィンの手がアタシの顔に触れたとき、よく判らないけどゾワッとして、身がすくむほど怖かった」
手が小刻みに震えだす。
「何でだろう、メルヴィンの手なのに怖いの! メルヴィンに抱きしめててもらいたいのに、手が身体に触れると怖くてたまらない。アタシ、どうしちゃったんだろうっ」
キュッリッキは叫ぶように言うと、シーツで顔を覆った。
優しくて大好きなメルヴィンの手。それが、目が覚めた途端、恐怖の対象になっていた。そして、そう思ってしまう自分に、キュッリッキは激しく戸惑っている。
「キューリちゃん……」
「メルヴィンにずっとそばに居て欲しいのに、でもなんでか判んないけど怖い……」
マリオンはベッドに腰掛けて、泣き出したキュッリッキを抱きしめた。
本来こうして抱きしめてほしい相手はメルヴィンだろうが、メルヴィンを怖いと感じるキュッリッキの乙女心が理解出来て、マリオンは小さくため息をついた。
(こんなことされたんじゃあ……怖がるわけだぁ)
かろうじて半未遂ではあるものの、ベッドに押し倒され、力ずくで唇を奪われた挙句、あんな形で身体を触られたのだ。
性行為全般に疎い、というより知らなすぎるキュッリッキにとっては、酷いトラウマになるだろう。そしてそれをおこなったのが、アルカネットだというところが重大な問題だった。
心から信頼を寄せていた相手に、強姦まがいのことをされたのだ。父親のように慕っていた相手から受けた蛮行に、キュッリッキの心は深く傷ついている。
これでは暫く、男全部が恐怖の対象だろう。メルヴィンとて例外ではないのだ。
(これってぇ、誰に相談すればいいのよぉ~~~~)
覗くんじゃなかった、とマリオンは後悔の念で頭を抱える。
(なんてぇことぉーしてくれたんだあ~~っ、あのムッツリスケベぇ!!)
マリオンは心の中で、ぐぐぐっと拳を握った。
* * *
ハーメンリンナに乗り込んだメルヴィン、ギャリー、タルコットは、目の前の光景に狼狽えていた。
「……なんにもないな」
「これって、更地っていうんだろ?」
ギャリーとタルコットは、見たままの感想を述べた。
「一体どういうことですか、これは……」
勢いが殺がれて、メルヴィンは困惑したように見渡す。
ベルトルド邸が建っていた敷地には、建物も庭の草木も、すべてがなくなっていた。敷地を囲む塀や門は健在だが、その中身が全て消えているのだ。
「おっさん達一体、どこへいったんだあーーっ!?」
頭をガシガシ掻きむしりながら、ギャリーは喚くように大声を張り上げた。
「宰相府か総帥本部へ行ってみます」
「よしたほうがいい」
身を翻すメルヴィンの肩を、タルコットは素早く掴んだ。
「おそらく凄い騒動になっているだろう。行ったところでつまみ出されるのがオチだ」
「しかし……」
「タルコットの言う通りだ。オレたちが退役してもデカイ顔してられたのも、御大の後ろ盾あってのことだ。退任した御大の影響力は、もうハーメンリンナの中じゃ通じねえ。いったんアジトへ帰るぞ」
真顔になったギャリーに、タルコットは頷く。
メルヴィンにしては珍しく、ムキになっている。いつも穏やかで冷静なメルヴィンが、ここまで自分を抑えきれていない。
仕方がないことだとは判る。しかし今は、原因を究明することではない。メルヴィンにはもっと、大事なことがあるのだ。
「真相が判らないまでも、キューリのそばにいてやれや。男としてのお前を怖がっていても、それでも本心ではそばにいて欲しいんだ。触れることはできなくても、すぐそばで見守ってやることはできるだろ?」
一番傷ついて、戸惑っているのはキュッリッキのほうなのだ。それを思い出せと言われている気がして、メルヴィンは伏せていた顔を上げると、ギャリーに小さく微笑んだ。
ついカッとなって、大切なことを見失っていた。
今度こそ、そばで守ってやらなければならない。
「はい。帰りましょう」